モンテンルパの夜は更けて・4
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モンテンルパの夜は更けて (編集者, 2009/11/29 8:16)
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- Re: モンテンルパの夜は更けて (えー, 2009/12/25 21:47)
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正康、佐布里川の誓い
大正11年12月29日、伊藤正康は知多郡八幡町大字佐布里字絹屋で伊藤勝一の三男に生まれた。今の知多市にしの台1丁目である。
小学校は八幡第三小学校(現佐布里中)。成績は良かったが引っ込みがちで、弱い子に見えたという。
伊藤が小学校5年になった時、山本桂という新人教師が担任となった。山本は師範学校を卒業したばかりの熱血教師。後に片山姓となり成岩小学校長を務めた人だ。
ある日のこと、無断欠席の伊藤を心配した山本が、伊藤宅を訪問に向った。その途中、佐布星川の土手に一人で坐っている彼を見つけた。
「正康! 何をしとる」。
山本の声に驚いた伊藤だが返事もせず黙って下を向いていた。
伊藤の隣に坐った山本は、ゆっくりと彼の悩みを聞きだした。やがて伊藤は泣きじゃくりながら心の内を話し始めたのである。
悩みはこうであった。
彼は3男で長兄二人は地元でも評判の秀才だった。長男の次郎は今の半田農高。次男の加一は陸軍士官学校。当時の最優秀な子が進む道だ。
正康はそれに気後れをしていた。また、兄たちに加えて伊藤家の甥や従兄弟たちが次々と中学へ入学していったのも彼を憂うつにしていた。
「次々と子どもらを学校へあげるのも楽じゃない」 と折々にこぼす母の言葉が正康には辛かったのだ。
伊藤家は中流農家。決して裕福な家ではない。一家から5人も6人も中学、高校へ通わせる苦労は小学生の正康にもわかっていた。
中学に行かず家の手伝いをするべき- 正康はそう考えていたのだ。
それを聞いた教師の山本は目をむいて正康を叱り、元気づけた。そして、正康の手を取り小学校に戻った。
山本はオルガンを弾き、大声で歌を歌った。
「正康、お前も歌え!」。
最初はボソボソと山本について歌っていた正康だが、徐々に声も大きくなっていった。だが音程は定まらない。
「正康、お前は声は大きいがオンチだな。でも、それでいいんだ。男は乱暴なくらいがよし! オンチでよし!」。
二人は顔を見合わせて声をあげて笑った。
伊藤正康の意識が変わったのはこの目からである。机に向った彼は、東海中学、陸軍幼年学校、陸軍士官学校と進む。陸士では同期で数人しか貰えない「恩賜の銀時計」を授与された秀才で職業軍人となる。
終戦後は陸上自衛隊に入隊、ついには陸将(かつての陸軍大将)の任についたのだから、筋金入りの軍人となったわけだ。
この出発点は佐布里川、長曾橋のほとりであった。
伊藤がモンテンルパ刑務所内から叔母に出した手紙のコピーが手許にある。獄舎からなので検閲を気にして所内の様子や自分の考えは控えめにしか書いてないが、故郷を思う個所には、長曾橋の光景を懐かしそうに、しっかりと書いてあった。
この長曾橋での新人教師、山本桂とのひと時が彼の進路を決め、そして、山本に習ったオルガンが伊藤の身につき、やがては108名の戦犯死刑囚らを救い、日本国民の心を揺さぶる名曲を作り出す礎となったのである。