モンテンルパの夜は更けて・6
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モンテンルパの夜は更けて (編集者, 2009/11/29 8:16)
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- Re: モンテンルパの夜は更けて (えー, 2009/12/25 21:47)
編集者
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はま子、獄舎の舞台
渡辺はま子が偉かったのはこれからの行動である。
この歌を全国に流すとともに当時は国交のないフィリピン訪問を願い出て「モンテンルパ刑務所を訪ね、戦犯囚を慰労したい」と言い出したのだ。会社も国も驚いた。普通の人ならいざ知らず今を時めく大スターである。万一があってはと、周囲は懸命に止めたが、はま子は強引にそれを実行したのである。
昭和27年12月23日、渡辺はま子はモンテンルパ刑務所の廊下で戦犯囚を前に歌い始めた。コンクリートと鉄だけの暗い廊下である。伴奏はアコーディオン一つだけ。
楽屋は毛布で仕切っただけ。大スターはま子の経験した最も粗末な舞台だったろう。
しかし彼女は全く手抜きをしない。3度も衣裳を変え、「荒城の月」など日本の唱歌。「オー・ソレ・ミオ」など洋楽。「支那の夜」「蘇州夜曲」など、はま子のヒット曲。それらを汗びっしょりになって歌った。「モンテンルパの夜は更けて」は2回歌った。2回目は最後に歌った。
108名の戦犯囚も歌った。大声で歌う者、泣きながら歌う者、目を閉じて、つぶやくように歌う者。やがて鳴咽のようなメロディーがモンテンルパに湧き上がった。
この時の模様は、囚人の声を入れないという条件で録音が許可されていた。そのテープは日本に持ち込まれ各所で大きな話題を呼んだ。伊藤正康の留守宅にもこのテープは届けられている。
奇跡が起こったのはそれから半年後であった。
モンテンルパの大合唱の噂を耳にしたキリノ大統領がその曲を取り寄せて聴いた。むろん日本語の歌である。
大統領は日本兵に妻と二人の子も殺されていて許しがたい怨念を持っていた。しかし、歌の力は国境を越え、言語を超え、怨念をも超えた。
大統領は108名の恩赦を宣言したのである。
写真
上段は「伊藤の結婚式に出席、祝辞を述べる渡辺はま子」
下段は「モンテンルパの舞台を録音したテープを聴く伊藤家の人々」