「特攻」より 2
投稿ツリー
-
「特攻」より 1 (編集者, 2014/8/3 5:40)
- 「特攻」より 2 (編集者, 2014/8/4 7:34)
- 「特攻」より 3 (編集者, 2014/8/5 6:31)
- 「特攻」より 4 (編集者, 2014/8/6 6:36)
- 「特攻」より 5 (編集者, 2014/8/7 6:13)
- 「特攻」より 6 (編集者, 2014/8/9 6:16)
- 「特攻」より 7 (編集者, 2014/8/10 8:37)
- 「特攻」より 8 (編集者, 2014/8/11 6:07)
- Re: 「特攻」より 1 写真 (編集者, 2014/8/12 6:47)
- 「特攻」より 1 写真2 (編集者, 2014/8/13 6:10)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
前記のように、陸軍船舶特別幹部候補生は、昭和18年11月に制度が設けられ、翌19年春には募集が開始され、中学3年修了程度以上の15歳から18歳の少年を対象に選抜試験が実施され、その年の6月には約1700名の第1期生が入隊している。
入隊した場所は、香川県小豆島渕崎村(現土庄町)の船舶特幹隊であった。そして、僅か4カ月の短期間に海上挺身戦隊要員を達成するため、小豆島西方の秘匿基地・豊島で猛訓練を開始した。訓練基地は、後に広島県江田島の幸ノ浦に移されたが、昭和20年8月15日の終戦まで、1年4カ月足らずの間に第1期生から第4期生まで、約7000名が入隊し、第1期生から第3期生までは基礎訓練を終えて実戦配備に就き、第4期生は基礎訓練中であった。
しかも、第1期生の大半と第2期生の一部は、フィリピン、台湾及び沖縄作戦の海上挺進部隊として大活躍し、特攻戦死しておられる。
それより先、昭和19年4月、陸軍船舶司令部(広島市字品)内で、鈴木宗作司令官以下関係者の間に、海上の防衛は航空部隊のみに任せることなく、船舶部隊自らの手で実施すべきだとの意見が強まった。そのため、筒単で軽量の攻撃艇を、予め敵の予想上陸正面に配置し、奇襲によって上陸船団を側背から攻撃する着想を立て、野戦船舶本廠に舟艇の試作を、戦法等について船舶練習部にそれぞれ担当させた。