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「特攻」より 1

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2014/8/3 5:40
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 はじめに

 スタッフより

  この投稿は「公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会」の
  「会報特攻」よりの抜粋です。
  発行人の羽渕徹也様のご承諾を得て転載させて頂いております。

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 若潮会第47回慰霊祭及び総会  陸士61期 飯田 正能 1


 平成25年11月10日(日)、11時より靖国神社において、若潮会第47回慰霊祭が斎行され、終わって13時より私学会館「アルカディア市ヶ谷」7階「鳥海の間」において、平成25年度の総会が開催され、当顕彰会を代表して参列させていただいた。

 若潮会は、陸軍船舶部隊に所属した陸軍船舶特別幹部候補生出身者の会である。

 昭和18年(1943年)9月29日、船舶部隊の拡大に伴い、船舶兵種が創設され、同年12月、陸軍船舶特別幹部候補生制度が設けられた。それまでは、陸軍の船舶部隊に所属するのは工兵で、特に船舶工兵と称されていた。陸軍の上陸作戦や沿岸の輸送に用いられた上陸用舟艇は、主として大発という発動機付きの中型舟艇であった。

 筆者は、昭和17年4月1日に大阪陸軍幼年学校に入校して陸軍将校への第一歩を踏み出したが、その年の7月、和歌山県湯浅の海岸で実施された遊泳演習(海上訓練)では、水泳訓練のほか、和船の、いわゆる伝馬船の漕舟競争などもやらされたが、翌18年7月、和歌山県田辺の海岸での遊泳演習では、広島の宇品から派遣された船舶工兵の操縦する大発に乗船し、夜間の沖合いに出て、海上浮遊、筏作りなどの訓練を行ったこともある。輸送船が撃沈された際を予想しての訓練である。

 また、輸送船から縄梯子で上陸用舟艇に移乗する訓練なども行った。当時、戦局はかなり逼迫してきていたのである。紀伊水道から南方戦顔へ向かう船団は、同水道の出口に待ち構えている米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没する船舶も多くなっていたとみえて、近くの海軍航空基地から下駄履きの水上機が飛び立って爆雷を投下し、その爆発音を耳にしたこともあった。


 
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/8/4 7:34
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 前記のように、陸軍船舶特別幹部候補生は、昭和18年11月に制度が設けられ、翌19年春には募集が開始され、中学3年修了程度以上の15歳から18歳の少年を対象に選抜試験が実施され、その年の6月には約1700名の第1期生が入隊している。

 入隊した場所は、香川県小豆島渕崎村(現土庄町)の船舶特幹隊であった。そして、僅か4カ月の短期間に海上挺身戦隊要員を達成するため、小豆島西方の秘匿基地・豊島で猛訓練を開始した。訓練基地は、後に広島県江田島の幸ノ浦に移されたが、昭和20年8月15日の終戦まで、1年4カ月足らずの間に第1期生から第4期生まで、約7000名が入隊し、第1期生から第3期生までは基礎訓練を終えて実戦配備に就き、第4期生は基礎訓練中であった。

 しかも、第1期生の大半と第2期生の一部は、フィリピン、台湾及び沖縄作戦の海上挺進部隊として大活躍し、特攻戦死しておられる。

 それより先、昭和19年4月、陸軍船舶司令部(広島市字品)内で、鈴木宗作司令官以下関係者の間に、海上の防衛は航空部隊のみに任せることなく、船舶部隊自らの手で実施すべきだとの意見が強まった。そのため、筒単で軽量の攻撃艇を、予め敵の予想上陸正面に配置し、奇襲によって上陸船団を側背から攻撃する着想を立て、野戦船舶本廠に舟艇の試作を、戦法等について船舶練習部にそれぞれ担当させた。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/8/5 6:31
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 また、これとは別に、大本営陸軍部でも、この目的のため、兵器行政本部と第十技術研究所に、肉迫攻撃艇の開発を命じていた。昭和19年7月、海軍の四艇と陸軍の試作艇の比較試験を行い、各種の要件を充たすことで、第十技術研究所の試作になる甲一号型を採用することに決定した。

 この艇は、長さ5・6m、幅1・8m、排水量1・5トン、最大速力20~25ノット(36~45km)、航続時間3・5時間、250鹿爆雷1個装備のベニヤ板製のモーターボートで、秘匿名称を連絡艇レとした。


 昭和19年8月、海上挺進戦隊10個戦隊の仮編成が小豆島の船舶特別幹部候補生部隊において完了、豊島におけるレの訓練が開始された。
 1個戦隊は、戦隊長以下104名、レ100隻をもって編成された。
 戦隊は、戦隊本部(戦隊長以下11名)と3個中隊(中隊長以下31名)からなり、更に中隊は、中隊本部(中隊長以下4名)及び3個群(各9名)とからなり、戦隊を戦術単位、中隊を戦闘単位とし、1個群 (9隻)を行動の最小単位と定めた。

 戦隊長には、すべて正規将校、即ち陸軍士官学校出身の若い少佐(51期・52期)及び大尉(53期・封期)を充て、中隊長には主として昭和19年7月少尉任官の陸士57期生を主体とし、そのほか陸士56期生(一部55期生)、幹部候補生出身の若い中尉又は少尉(幹候8期・9期)のうち、特攻を自ら志願する者が充てられた。群長(小隊長)には、第1ないし第10戦隊には、昭和18年12月に学徒出陣した幹部候補生第10期生を、第11ないし第30戦隊には同第11期生(いずれも船舶幹部候補生と一般幹部候補生からの出身者)及び同第12期の見習士官及び各地の陸軍予備士官学校等出身の見習士官が充てられた。一般隊員としては、第1ないし第19戦隊までは、船舶特別幹部候補生を充て、第20から第30戦隊には、その不足分を現役下士官及び下士官候補者や乙種幹部候補生から採用して充てられた。

 このように戦闘の主力をなしたのは、この年若い少年兵達であった。全軍から選抜された、この16歳から25歳の若き精鋭達は、昼夜を分かたぬ猛訓練の後、昭和19年10月、30個戦隊の編成をもって、それぞれ最後の決戦場とされたフィリピン、台湾、沖縄に展開を完了した。このほか、本土決戦準備のため、更に第31~53戦隊が編成ないし仮編成された。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/8/6 6:36
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍海上挺進隊の肉迫攻撃挺レは、海軍の同種水上特攻艇震洋四が、艇首に250kgの爆雷を収納して衝突する体当たり攻撃方式であるのと違い、艇尾の投下装置に装着し、乗員の手動又は、衝突時の金具の作動によって投下し、爆発する方式になっていたが、敵艦艇に艇尾を衝突させて爆雷を投下しても4秒後には爆発するので、艇を反転させて避退することも、一旦後退して攻撃を反復することも至難の技であることが判明し、結局、体当たりによる特攻攻撃方法を採ることとなった。

 そして、主として夜間、上陸前の敵艦船への集中攻撃により、大打撃を与えてこれを阻止する戦法が採られることになった。

 陸軍海上挺進戦隊は、困難な海上輸送を克服し、昭和19年末までには、敵上陸前に、その予想上陸正面に作戦展開を一応完了した。しかし、敵上陸点を的確に判断し、適切な作戦展開を実施することは至難の技であった。

 昭和20年1月9日、米軍がフィリピン・ルソン島リンガエン湾に上陸を開始した夜、同地区のスワルに展開していた第12戦隊(戦隊長高橋功大尉・陸士54期)は、約40隻(一説では70隻)をもって出撃し、翌10日午前3~4時頃、米軍の輸送船及び上陸用舟艇を攻撃、多大の戦果を上げ、生存者は僅かに2名、他は全員特攻戦死した。
 米軍の資料に基づく戦果は(リチャード・ネオール著『特別攻撃隊』による)、輸送船、LST上陸用舟艇など沈没6隻、大破2隻、破損8隻、計16隻で、日本側の発表した戦果、20ないし30隻の艦艇を撃沈又は大破、に近い損害を受けており、米軍艦艇泊地は大混乱に陥り、攻撃再興不能という、瞳目すべき戦果を上げている。
 この損失は、米海軍にとって重大なものであり、比島南部に展開していた魚雷艇隊を至急北西方面に移動し、輸送船団泊地の防衛力増強を図った。
 米海軍はその直後から、改装した哨戒艇と航空機とで徹底した哨戒を開始し、また、レ特攻艇の秘密基地を破壊するため、特別部隊等を編成するなどして捜索に当たった。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/8/7 6:13
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 昭和20年1月31日、米軍部隊がマニラ湾のやや南のナスグブ沖に上陸準備を開始した時、ナスグブ北西40kmの基地から第15戦隊第2中隊長上野義現中尉(陸士56期)の指揮する1個中隊が、また、その南から戦隊の一部が出撃し、米軍船団泊地を攻撃したが、駆逐艦、哨戒艇等の警戒が厳しく、敵駆潜艇1隻を撃沈する戦果を上げたが、レ艇も大損害を受け、全員戦死した。2月2日から15日までの間、第15戦隊及び第16戦隊の残部が散発的な攻撃を繰り返し、また、第11戦隊もマニラ南方のテルナーテ地区から、一部の艇で攻撃したが、戦果は未確認であった。

 その後、米軍は、スブルーアンス海軍大将の率いる1500隻の艦艇と圧倒的な航空支援の下、第10軍司令官S・B・バックナー陸軍中将指揮の24万の上陸部隊をもって、昭和20年4月1日、沖縄本島西部の嘉手納海岸に上陸作戦を展開した。
 これに先立ち、米軍は本島西南地方の慶良問海峡は、米軍にとって洋上補給と艦艇修理のための格好の基地となるため、3月26日に慶良間列島の攻撃を開始した。同列島には、レ部隊の第1ないし第3戦隊が展開し、敵上陸部隊の泊地侵入後、その背面から攻撃する計画であったが、出撃の条件未完のまま不意の襲撃を受けた。
 その上、各海上挺進基地大隊は、沖縄本島から台湾に転用された第9師団の後詰め部隊となり、その一部を残置して主力は既に本島に転進しており、対上陸作戦能力は微弱になっていた。ここにおいて、第32軍は、作戦全般に及ぼす影響を顧慮し、3個戦隊に対し、レ艇の破棄を下令した。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/8/9 6:16
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 敵上陸部隊は、沖縄本島上陸に先立ち、上陸正面とその付近の特殊潜航艇及び海上挺進攻撃基地を徹底して砲爆撃し制圧した。その砲爆撃に耐え、間隙を縫って3月29日第29戦隊の第1中隊長中川康敏中尉(陸士56期)以下17名が17隻のレで北谷西方の米艦船を攻撃し、中型艦1隻を撃沈、2隻を撃破し、16名が戦死した。米軍の資料によれば、レは発見され、激しい砲撃で輸送船に接近できない状態であったが、1隻が砲火を突破して520トンのLSM12に衝突.し、船は中央に大穴を開けられ、応急修理したが4月4日に沈没した、と記録されている。

 糸満付近に展開していた第26戦隊は4月7日(米軍資料では4月9日)、第1中隊20隻が出撃、第2中隊は岸本具郎中隊長(陸士57期)以下2隻がこれに連携して攻撃を実施し、駆逐艦1隻、輸送船2隻を撃沈ほかの戦果を上げた。米軍資料によれば、2050トンの駆逐艦チャールズ・J・バッジャーは、暗闇の中からレ艇の攻撃を受け、爆発により機関室に大浸水が起こり、慶良間海峡まで曳航したが擱座し、再び戦紺に参加し得なかった。
 中型揚陸艦駆逐艦LSM89は体当たりを攻撃を受けたが、被害は軽微であった。また駆逐艦ポーターフィールドも被害を受けた。レ艇は全部沈められても、泳いでいる生存者が手相弾をもって攻撃してくるので、射撃を続けねばならなかった、と記されている。

 4月10日、第26戦隊第2中隊野田耕平見習士官以下10名が、各個攻撃を実施し、全員帰還したが、戦果は不明であった。

 4月15日、第26戦隊長足立陸生大尉(陸士53期) 以下22隻が、嘉手納西方海面の米軍艦船を攻撃し、駆逐艦1隻、艦種不詳3隻を炎上させ、そのほかに火柱6を報告した。米軍資料によれば、機雷掃海挺YMS31がレ艇の攻撃で大破した、となっている。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/8/10 8:37
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 4月27日、第26戦隊第1中隊は、12隻をもって嘉手納沖の艦船を攻撃し、輸送船1隻、駆逐艦1隻を撃沈した、と報告された。第28戦隊は、4月27~28日夜、第三中隊長小林浩三少尉(陸士57期)の指揮する2個群(23隻)をもって、具志頭付近から中城湾に出撃したが、戦果は不明であった。米軍資料では、4月27日、中城湾において、1隻のレ艇が、2050トンの駆逐艦ハッチンズを吹き飛ばした。レ艇の体当たりにより、艦は数フィート飛び上がり、左舷のエンジンとスクリュー軸が破損し、18名が負傷、艦は終戦まで使用不能となった。また、2日後に、ロケット砲艦LCS37は、体当たり攻撃を受け、艦は大破した、と記録されている。

 5月3日の第32軍の総攻撃に当たって、戦線左翼西海岸正面では、第27戦隊第1中隊、第28戦隊の主力及び第29戦隊の一部をもって、船舶工兵第26連隊の兵員を乗せ、那覇港を出発して大山付近に逆上陸を実施し、右翼東海岸正面では、第27戦隊の第2・第3中隊約20隻をもって、中城湾及び勝連半島付近の輸送船団を攻撃し、駆逐艦1隻、上陸用舟艇2隻、大型輸送船3隻を撃沈した。この戦闘で、戦隊長岡部茂己少佐(陸士52期)以下23名が戦死した。

 5月中旬、第28戦隊は、川島見習士官以下6隻で嘉手納沖に、5月23日、麻生少尉以下9隻で嘉手納及び那覇沖に出撃、5月27日には、第27戦隊の第1中隊が残存全艇で出撃を行ったが、戦果は確認されなかった。この出撃をもって海上挺進作戦は終了し、残存の戦隊員は陸上戦闘に参加、その殆どが戦死を遂げた。

 沖縄作戦の海上挺進作戦において、挺進戦隊は以上のように、身を捨てて決死敢闘し、数々の戦果を上げたが、多くの戦死者を出した。比島作戦以来、海上挺進隊の戦死者数は、1636名の多きに及んだ。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/8/11 6:07
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 なお、肉迫攻撃艇レに関する事項及び沖縄における海上挺進作戦等については、当時、慶良問列島の渡嘉敷島に展開していた第3戦隊中隊長骨本義博中尉(陸士57期)に関する『特攻最後のインタビュー』(㈱ハート出版)及び『特攻 最後の証言』(㈱文芸春秋・文春文庫) に詳細記事が掲載されている。

 若潮会の靖国神社における慰霊祭は今年(平成25年)47回目であるが、同会では、船舶特別幹部候補生隊練習部のあった香川県小豆島に昭和48年、慰霊碑「若潮の塔」を建立し、5年に一度、その下に会して旧交を温めるとともに、戦没戦友の御霊を慰霊しようとの誓いを守り、今も「若潮の塔」慰霊大祭を執り行っているが、今年はその建立40周年に当たるので、11月23日に合同慰霊大祭を執り行う予定とのことである。

 靖国神社における若潮の会慰霊祭も小豆島における「若潮の塔」慰霊大祭も年々参列者が減少し、蓼々たる有様になりつつあるとのことであるが、それでも、靖国神社における慰霊祭及び「アルカディア市ヶ谷」における総会に各期から20名程の戦友相集い、戦没者を慰霊し、往時を偲び、未来を語るその絆の強さと情熱には、深い感銘を覚えた。


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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 「特攻」より 1  写真(1)沖縄南部関係地名図


















 「特攻」より 1  写真(2)比島北部関係地名図

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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 写真(3)マルレの模型










 写真(4)渡嘉敷島にうち捨てられたマルレ










 写真(5)マルレ(四式連絡艇/四式肉迫攻撃艇)

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