@





       
ENGLISH
In preparation
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
ログイン

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失

あの戦争の御話 (変蝙林(1917-))

  • このフォーラムに新しいトピックを立てることはできません
  • このフォーラムではゲスト投稿が禁止されています

投稿ツリー


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/2/22 0:31
変蝠林  半人前 居住地: 横浜市 オオクラヤマ  投稿数: 22
 1945:08:15・・・あの日からもう 60年が過ぎ去った !!
 60年も経《た》ったのだから戦争を知ってるのは70歳前後の人々だけ ??

 私が少年の頃に日露《=日本とロシア》戦争《1904~5》を知ってる大人と言えば40歳前後の年配だった。
 その戦争は勝った勝ったで国内に戦災は無かったから戦禍《せんか=戦争によるわざわい》談も少なかった。

 我々が三八銃《さんぱちじゅう=旧日本陸軍が使った小銃》で戦ったあの戦争《=第2次世界大戦》は国内の戦災の方が大きかったので自慢話どころではなかった。生き残った連中は無我夢中で我武者羅《がむしゃら》に只管《ひたすら》働いた。

 20年経って新幹線オリンピックとなった頃に漸く腰を下ろした大人達は子供に戦争の話を語り聞かす時期を失って戦争を知らない子が世に満ちた。

 親共が馬鹿《ばか》な戦争を始めて勝手に苦しんだのだと言う教員が平和を語った。平和の言葉を因果《いんが=原因と結果》も弁《わきま》えず闊歩《かっぽ=いばって歩く》させる世界に稀《まれ》な日本国民が出来上がった。

 堪え難きを忍びと天皇が語られた言葉は本当は開戦の時に使うべきだった。ABCDの締め付けを許したら今のASEANは無かった事は確実だった。
                                   
(注)此《こ》の話を続ける意義を高齢者に訴え度《た》く・・・・・・・・・・・続く。
                                   
                           変蝠林(1917-)。

--
変蝠林

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/2/22 0:34
変蝠林  半人前 居住地: 横浜市 オオクラヤマ  投稿数: 22
 あの戦争・・・・実は1931/09/18から始まって居るのですね。
 昭和6年の事です。柳条湖の満鉄《まんてつ=南満州鉄道の略》線路爆破さる!支那《しな=中国》軍って仕様の無い 奴っちゃなんて思ってた14歳の少年は帝国陸軍と言うよりも関東軍《=満州に駐屯した日本の軍隊》の果敢《かかん=大胆に物事をおこなうさま》な行動に拍手して居た筈《はず》です。兵隊さんを軍隊なんて呼ばなかった。

 翌7年3月には早くも満州国《日本が中国東北部に作り上げた国、終戦で消滅》の建国宣言。9年には執政《しっせい=政務を執る人》の溥儀《ふぎ》が皇帝に。11年2月26日皇道派《こうどうは=旧陸軍内の派ばつの一つ、天皇中心の国体至上主義を掲げた》青年将校が決起したが《=2・26事件》勅命に逆らえず日本軍隊は統制派(ナチ流)に牛耳られる《ぎゅうじられる=意のままに操縦される》事になる。《こ》の時から「皇軍」の實《じつ=中身》は消えたのだったが 凡なる《=普通の》平民《=庶民》は依然として支那人の言う「光軍」の實を履《は》き違えて過ぎた。12年の7月7日盧溝橋《ろこうきょう》での戦闘からが第二幕です。

 当時中野正剛、緒方竹虎ら木鐸を叩く《ぼくたくをたたく=世人を目覚めさせ教え導くこと》精鋭記者が残っては居たのだけれど 其《そ》の警告は未然《=事が起こる前》に抹殺《まっさつ=消し去ること》をされた。馬来《マレー》沖真珠湾の時《=太平洋戦争開戦時》には流石《さすが》に南京《なんきん》陥落時の提灯《ちょうちん》行列や旗行列の様な事はしなかったがあの結末《=敗戦》を予想する事は出来なかった。弩級艦《どきゅうかん=怖いものなしの大型戦艦》大和《やまと》に対する期待が並でなかったのは確かでした。

 トントントンカラリ《トントントンカラリと隣組、と言う歌が流行した》と隣組《となりぐみ=町内会》の人達は虚報《きょほう=うそのしらせ》の戦果に酔い空爆《くうばく=飛行機による爆撃》も艦砲射撃《かんぽうしゃげき=軍艦からの射撃》も勝つまではと頑張り通したのだが銃後《じゅうご=直接戦争に加わらない人・地域》の人達の戦禍は兵隊の比を超《こ》えた。然《し》かし私の個人例は他人様に晒《さら》すに忍びぬものだが運命の悪戯《いたずら》が如何《いか》に理屈を超える物かの実例として次回の話題にしませう《しょう》。乞《こう》御期待である。
                                  
                          変蝠林(1917-)。


--
変蝠林

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/2/22 0:47
変蝠林  半人前 居住地: 横浜市 オオクラヤマ  投稿数: 22
「私 の 戦 争」                    

 恥ずかし乍《なが》ら (心底) 此処《ここ》で申告をさせて頂きます。自分は十二年兵(昭和十二年徴兵《ちょうへい=義務として兵役につくこと》)でありまして十九年召集兵であります。

 偏平胸《へんぺいきょう》の故に第二乙種《徴兵検査の結果は甲種、第1乙種、第2乙種、丙種に分類された》と合格され、爾後《じご=その後》三回の召集令状を賜りましたが都度《つど=毎回》即日帰郷《直ちに帰郷する》の憂き目を見て居りました処《ところ》昭和十九年六月十一日の第四回召集にて家人の期待に背《そむ》き静岡歩兵第三十四聨隊《れんたい》に入営する羽目と相成り《あいなり》ました。《=留守家族は今回も即日帰郷するものとひそかに期待したが、第2次世界大戦末期のため兵士不足で第2乙の弱者まで召集された》


 聨隊は駿府《すんぷ=現在静岡市》城内に所在し橘中佐《日露戦争で軍功があり軍神とされた》の銅像を営門に見上げる由緒《ゆいしょ》ある隊でしたが 当時は中部第三部隊と呼称されて居ました。営内滞在は僅か二日、十三日の午後十時には完全軍装にて(当時としては珍しかった)灯火管制《とうかかんせい=空襲の目標となる灯火は洩れぬよう覆い、または消灯した》下の一粁《キロ》を静岡駅まで駆け足行進 秘匿《ひとく=秘密に隠す》は洩《も》れるで沿道には親族の見送りが一杯でした。

 私は駆けるのが精一杯でしたが家内は暗闇《くらやみ》に私を見つけたらしく無事凱旋《がいせん》?後の話では僅《わず》か十一貫九百匁《約45キログラム》の痩躯《そうく=やせた体》を今生《こんじょう》の別れとして見送った由でした。

 鎧戸《よろいど=シャッター》を下ろした客車(貨車ではなかった)は一路西下、外から見えない為の措置は当然外景も見えない儘《まま》走りに走って停車した所は後から考えれば博多らしく直ちに乗船、船倉内からは発進地も行き先も判らない。下船したのは釜山らしいが待機の貨物有蓋車《ゆうがいしゃ=屋根のある貨車》に直行直ちに発車、鴨緑江?山海関?北京?何日走ったか記憶に無いが降ろされて真っ青な大空を見た所は呼和豪得駅!

 なんと内蒙古《ないもうこ=モンゴル》である。駿府城内とは比較にならぬ広大な兵営兵舎に驚く間も無く広い部屋に座らされ次々に所属中隊指名、その間知らぬ古兵殿が現れて私物徴収、腕時計を取られて仕舞《しま》ったが総《すべ》てアレヨアレヨの間。小隊内務班に連行されて何をして就床したのか全く記憶が無い儘《まま》空白の第一日が過ぎた。                                    
 長くなるので本日は之《こ》れまで。         変蝠林(1917-)。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/2/22 0:49
変蝠林  半人前 居住地: 横浜市 オオクラヤマ  投稿数: 22
内務班生活を一週間程夢中で過ごした後段々様子に慣《な》れて来ると種々な事が判《わか》って来た。到着配属されたのが6月21日(出征後10日間掛かって居る)駐蒙軍《ちゅうもうぐん》独立歩兵十三聨隊《れんたい》(呼称泉五三一六部隊)入隊となって居る。そして7月16日には厚和独立混成第三旅団《りょだん=連隊より上の大組織》独立歩兵第一大隊編入第七中隊配属となり翌17日には豊鎮まで列車で東上、其処《そこ》から自動車で東光火地警備隊に運ばれた。途中は漠々たる《ばくばくたる=果てしの無いさま》草原で野兎が何匹か見えては消え夕刻に到着した。

 着いた翌日は猛烈な雨で営舎(とは言っても上等な支那家屋)の前は黄色な泥水が流れをなして居る。其の中を河南作戦から泥まみれの古年兵達が帰還して来た。黄河の泥が生まれる現場を見て感慨《かんがい》があった。其処に三日程居たら命令が来て大同の特別訓練隊に行く事になった。行って見て驚いた。何と保養所である。三食後何もせず煙草《たばこ》を吹かして過ごす毎日。二十日位其処で遊んでから平地泉に集合させられた。冷たい清冽《せいれつ=清く冷たい》な水が豊富な兵営であった。

 8月15日を忘れてはならない。其の日は正装して全員が整列をさせられた。誰々《だれだれ》一歩前。長い点呼が終わると一歩前に出た兵士達は集合し何《いず》れかへ向けて溌剌《はつらつ》として営門を出て行った。私は残された口に入ったのだが選抜された連中は本国防衛要員で帰国だと言う噂《うわさ》が流れ残留組の悔しがる事頻《しき》りが数日。

 所が豈《あに》《はか》らんや、一ヵ月程して先発の彼等は釜山からレイテ島へ向かい更に殆《ほとん》どが戦う事も無く魚雷の餌食《えじき》になったとの噂《うわさ》。噂は直ぐに真実と知られた。一瞬の差が運命を分ける。兵隊のと言うより人間の糾なう《あざなう=なわなどをよる》《なわ》の末は誰の手に

 私の禍福を綴《つづ》る塞翁《さいおう》が馬《幸、不幸は予測がつかないということわざ》の阿弥陀籤《あみだくじ》罫線《けいせん》に就《つ》いては稿を改めて何《いず》れ近日中に。
                                    
                            変蝠林(1917-)。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/2/22 0:51
変蝠林  半人前 居住地: 横浜市 オオクラヤマ  投稿数: 22
一歩前に出なかった為に水漬く屍《みずくかばね=水に漬かったなきがら》を免《まぬが》れた弱兵達は編成替えの上各地に転属 私は大同に駐在の独立歩兵第四〇三大隊第三中隊に編入され無煙炭《むえんたん=硬度が高く煙の出ない上質の石炭》で有名な大同炭鉱警備として永定荘駐在の小隊に廻された。小高い丘に在る支那家屋風の兵舎だったが着任同時に将校当番として二等兵二人の当番室勤務となる。

 訓練も無く少尉殿の御呼びが無い限りゴロリの楽々勤務、将校宿舎との間の小庭に咲く尺余《しゃくよ=30センチほど》の大輪向日葵《ひまわり》から黒い大粒の実を摘んで初賞味は未だに銘記。訓練と称して三里余《約12キロメートルあまり》の大同石佛に行軍が数回、子供の頃観《み》た映画バグダッドの盗賊でダグラス・フェアバンスク扮《ふん》する盗賊が石仏の眼から大宝石を抜く場面が彷彿《ほうふつ=思い浮かぶさま》として、河原の柳と共に記憶に残る日々だったが或る日に新命令。

 大同の大隊本部に赴《おもむ》くと思いも掛けぬ暗号班勤務を命じられた。班長を含め拾《10》名程が小部屋に閉じ込められ扉には”将校と雖《いえど》も無断入室を禁ず”の貼札《はりふだ》。怖い内務班には寝に帰るだけの毎日。作業は複写紙《=カーボン紙》を挟《はさ》んだ乱数表に数字を列記する事と、暗号書独特の+-計算練習のみ。正に軍隊内の別天地である。

 戦闘訓練など無いので生意気にも髀肉の嘆《ひにくのたん=実力を発揮する機会が無いことを嘆く》。一と月置き位に有る討伐行《とうばつこう》には率先して参加を申し出た。六甲山ハイクを想起《そうき=思い起こす》したのだが流石《さすが》に問屋の卸《おろし》は相当外れた《=思い通りにならなかった》。一般歩兵同様の重装備、背嚢《はいのう=背に負う四角のかばん》鉄帽《てつぼう=鉄かぶと》に弾倉《だんそう=補充用の弾を詰めたもの》前後弐百四拾《240》発と弐《2》個の手榴弾《しゅりゅうだん=手で投げる爆弾》で約弐拾瓩《20キログラム》、其《そ》の上に暗号書鞄《かばん》に入れた用紙の重い事。首に掛けた鞄がバランスを安定させない。最初の討伐行では先ず渾源まで二日の行程で足の裏は総革めくり。二日程城内の支那古式官庁屋舎《おくしゃ》で休養の後、討伐行の始まり。谷の河原を進むと左右に迫る高い崖《がけ》の中程に寺の建物が懸《か》かったりして異風景に目を楽しますが、樹の無い黄土の山に入ると異境感は予想の外。

                     変蝠林(1917-)。 

--
変蝠林

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/2/22 0:52
変蝠林  半人前 居住地: 横浜市 オオクラヤマ  投稿数: 22
 渓谷《けいこく》から山道に掛かると樹木は段々少なくなり黄土の丘陵が単調に遠く続く。鉄兜《てつかぶと》は背嚢《はいのう=背負いかばん》の後にが一般だが重いので頭上に載せる。三八銃《旧日本陸軍の小銃》も結構な重さだ。漸く丘の背を越えたかと思うと前方に又同じ様な丘が次々に現れ切りがない。夕刻山中の部落に着くと住民は逃げて誰も居ない。部落と言っても家は無い。

 黄土の崖《がけ》を彫《ほ》り抜いた穴蔵と思えば良い。然《し》かし考えれば至極《しごく=極めて》合理的である。温突《おんどる=暖房装置》も設備されてる。何回目かの討伐行で大失敗がある。氷点に近い夜の事。馬を一匹屠《と》して《=殺して》各隊が勝手に切り取って来る。暗闇の中に有った大鍋で煮た。不味《まず》くて食えた物でない。温突に寝たら疲れで熟睡。翌朝目覚めたら高熱だ。
                                    
 背中は数十度、胸部は氷点に近いのだから急性肺炎は当然である。出発っ!。ガンガンの頭で隊列に付いての行軍は正に夢中。サトコツ サトコツと娘の名を唱《とな》えての一歩一歩は今思い出しても良くぞであった。麓《ふもと》の部落に辿《たど》り着き一晩寝たら治った。あの経験が今活きてる。軍隊って不思議な世界ではある。

 珍なる話が今一つ有る。或る討伐行で偵察《ていさつ》に出たら向こうの山稜《さんりょう=山と岡》に人影が! 将校が撃《う》てと言う。嫌々乍ら《いやいやながら》一応狙《ねら》って一発。軍隊経験者はご存じだが実弾射撃の後の銃口掃除は実に面倒だ。弾丸はあらぬ方へ。殺さずに済んでホッ。そして之《これ》が従軍中の只《ただ》一発。こんな兵隊は大戦中で私一人切りだろうと思う。
                                    
 山西の山歩き中に一寸《ちょっと》した戦闘も有ったが蒼《あお》く深い空のみが懐かしく記憶に。
                                    
                           変蝠林(1917-)。

--
変蝠林

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/2/22 0:53
変蝠林  半人前 居住地: 横浜市 オオクラヤマ  投稿数: 22
暗号班配属は昭和19年9月10日からで大同での密室勤務の安逸《あんいつ》兵士体験は翌年の4月に上海近郊の大倉鎭に南進する迄の半年余《よ=あまり》だから蒙彊《もうきょう》での体験談を少し書き残して置かねばならないが、夏の話、冬の、春のと語り切れないので自然断片的になる事を御許し願うが場所も時期もアチコチ飛ぶかも知れない。
                                     
 夏 の 部:                              
蒙彊に着いて一番驚いたのは空の高さと地平の広さだった。あの頃は静岡でも星座が数えられたし、空気も不味《まず》くなかった。然《し》かしフホホトの夜空と空気の美味《おい》しさは愕然《がくぜん》に値した。平地泉の水の清冽《せいれつ》も味と共に記憶に深く刻まれた。湿度が低いので汗の苦も無い。城壁上の哨戒《しょうかい=見張り》時に輝いた月の光も忘れられない

 秋 の 部 と 冬 の 部:

秋は短いのでアッと言う間に冬が日々目に見えて迫って来る。雪は粉雪と言う表現が当て嵌《は》まらない。朝起きると二重窓を通し内務班の床に堆《うずたか》く溜《た》まってる積もった雪は雑巾《ぞうきん》で押し広げ床掃除に水が不要。真冬になると厠《かわや=トイレ》掃除が大変。鶴嘴《つるはし》とバケツで氷結の掻《か》き集め。固体物は尖塔《せんとう=頂きがとがった塔》を造るので折り取りに苦労する 当番兵が帰って来ると異臭が暫《しば》し充満する。破片が時間と共に融解する結果だ 暗号兵にも夜間歩哨《ほしょう=警戒の任務》勤務は回って来る。鼻の下に白い氷を着けての二時間だが一寸《ちょっと》痛いなと思う丈《だ》けで寒さは感じない。寒暖計は零下《れいか》30度を指してるのに

雪の進軍は無かったが毛皮入り長靴での雪中行軍演習は矢張り相当に辛かった

 冬 の 討 伐 行:

最初の渾源作戦は夏だったが、秋冬にも朔縣、應縣などから半月程度の討伐行に参加した。谷川は氷結してるが重装備の兵隊だから時々踏み抜く兵隊が居る

その河岸で野営した時は流石《さすが》に応《こた》えた。前述の如く実弾発射は一発丈《だ》けの変な兵隊だったが夜間の敵襲は二度程経験した。パシッと至近弾を聞いたのは一度

今だからの話だが思い出しても可笑《おか》しかったのは清水河作戦の時。八路《はちろ=八路軍(中国共産党軍)》の拠点に迫って日暮となり、大休止で焚火《たきび》用に調達《ちょうたつ=物資を入手する》の兵士が抱えて来た薪《たきぎ》束から何か
ぶらぶら下がってる。待て!っと良く見れば手榴弾《しゅりゅうだん》である。敵も然《さ》る者である 其《そ》の内に先方から機関銃で撃《う》って来た。河原の小石に弾《はじ》けて流れ弾が飛び交《か》

敵陣中、地の利悪しと見て急遽《きゅうきょ=大急ぎ》反転の命令が出た。一日中歩き続けて疲労困憊《ひろうこんぱい=疲れ果てる》の兵隊が休憩も無く暗夜の転進《=進路を変える》である。真暗闇《まっくらやみ》な山道の夜行軍は睡魔《すいま》も加えて命賭《いのちがけ》に近い。前の兵の裾《すそ》、馬の尾に縋《すが》っての暗夜行はゾッとする思い出である 討伐行の苦楽談は切りが無いが時間を追う必要から次は翌年四月に飛ぶとする

              変蝠林(1917-)。


--
変蝠林

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/2/22 0:55
変蝠林  半人前 居住地: 横浜市 オオクラヤマ  投稿数: 22
   「私 の 戦 争」

山西省大同でハイキング心持ちの討伐行を連続志願(実は内務班逃避)して暗号班特権に酔って居たら太平洋戦争《=第2次世界大戦》の方は予想外な坂道を下り始めて居た。四月に入ると南進の命令が出てざわついた。小部隊を残し独歩403本隊は軍用列車の客となった。後から知るが米軍抗州湾上陸に備えての移動だった。

20年4月25日朝昆山駅に到着。線路脇の石炭山に野菊が真黄に咲いてたのが何故《なぜ》か今も記憶に鮮やかだ。強行軍半日で大倉鎮と云う街に着き早速に民家を接収《=強制的に取上げる》して設営。大きな家屋の中庭に井戸があり戸外には畑が拡《ひろ》がった。

可愛い姉妹が居り畑の向こうはクリーク《=小運河》を挟《はさ》んだ竹林で久し振りの娑婆《しゃば=俗世間》気分。

数日後糧秣《りょうまつ=兵と馬の糧食》が河岸《かし》に着いた。使役《しえき=雑役》で船から百瓩《キロ》の麻袋を堤防に揚《あ》げる羽目に。
背骨がミシツ と鳴ったが我乍《なが》ら此《こ》の作業に堪えた体力に感嘆した。考えれば毎日羊肉と一升《約1・8リットル》飯、39瓩の痩身《そうしん=やせた体》が何時《いつ》の間にか60瓩《キロ》の兵隊になって居た。
残飯を桶《おけ》から窪《くぼ》地に捨てる度毎《たびごと》故国の飢餓《きが=飢え》を想ひ《おもい》憤慨と感慨はあったのだが。

《やが》て塹壕《ざんごう=溝を掘り周りに土を盛り上げた保身場所》資材徴発《ちょうはつ》の指令が来て艀《はしけ=小舟》に乗せられた。各所から集まった艀は連結され気が付けば船列は蘇州運河を通り太湖を渡り一週間程で湖の南岸に到着。酷暑の中での松材担《かつ》ぎは強く軍靴《ぐんか》の中に汗が溢《あふ》れた。白い胡瓜《きうり》を見付けたり小孩《しょうはい=子供》が田鶏 (蛙《かえる》)を採る姿を眺めて平和な田園風景に半月程が流れて行った。

往復の船旅は長閑《のどか》なもので戦争何処《いずこ》であったが三才位の船頭の子がクイツと口走って母親に叱られた場面では東洋鬼の日本兵として若干《じゃっかん=幾らか》の驚きがあった。

大倉に戻ると住民が騒がしいとの話が聞こえて来た。数日後非常呼集で軍装 直ちに昆山駅まで駆け足、休む間も無く無蓋《むがい》貨車に乗車。そして南京駅で!!
                                   
                            変蝠林(T/06)。


--
変蝠林

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/2/22 0:57
変蝠林  半人前 居住地: 横浜市 オオクラヤマ  投稿数: 22
昭和20年8月15日

車上での伝聞《でんぶん=伝え聞くこと》ではソ連《ソビエト社会主義共和国連邦》が満州に侵入して来たので急遽《きゅうきょ=取り急ぎ》援軍の為の北上との事。南京での昼食時陛下《=天皇》の玉音《天皇のお声》放送があったとの噂《うわさ》が。大倉の民は知ってたのだ

揚子江を渡った列車が次々に驀進《ばくしん》する。夕刻に突如、迫撃砲《はくげきほう=小型の大砲》の攻撃を受けた。新四軍か八路か《=どちらも中国共産党軍》判らないが機銃隊が下車して応戦する。漸く戦争らしき体験。

こんな停車を二回程繰り返してやっと天津に着いたら下車の命令が出された。知らぬ街路を行進して運河脇の学校の如き建物に収容された。矢張り敗戦だ。

《そ》れにしても先行の列車は山海関を越えたらしい。塞翁が馬《さいおうがうま》の導きが又もや。途中での攻撃に助けられた運命。米軍と中共軍と国民党軍が揉《も》めて居る情況。
                  
御蔭《おかげ》で日本軍は武装解除もされず完全軍装の儘《まま》で早々に郊外警備に着く始末。糧秣厰《りょうまつしょう=糧秣を管理する所》では党軍と酒盛り交歓《こうかん》、煉瓦厰《れんがしょう》警備では通信班同居でジャズ音楽鑑賞。郊外トーチカ《コンクリートなどで強化した防御装置》では日本兵のみ、古兵が一発で仕留めた野猫の鍋《なべ》は不味《まず》かった。年末に成《な》って漸く武装解除、米軍への使役《しえき=雑役》が始まった。山積みの砂糖に喫驚《きっきょう=おどろくこと》

使役の度に誰かが何か盗んで来る。レーション《=米軍の携行食糧》にチョコ煙草《たばこ》二本には驚いた。我が軍の携行は乾パンに金平糖《こんぺいとう》。天津には被服兵器糧秣の諸厰が集まってる。
戦勝軍に渡さぬ為か豪勢《ごうせい》な給与は連日。砂糖が枕に煙草は博打《ばくち》の点棒《てんぼう=点数を数えるためのの棒》になる。

《やが》て柵《さく》外に支那人が白乾児酒を煙草と交換に。ストーブに零《こぼ》すと燃え上がる。45度の奴をコップで続けれは嫌でも強く成《な》る。使役勤務は二月末まで続き三月始めに帰国と云う事で太沽港に集結した。然《し》かし其処《そこ》で大事件が訪れた。LSTは係留され乗船を待つ許《ばか》りの時、ナカムラ姓の者のみが呼び出された。

戦犯探索だが尋問《じんもん=取調べ》の男は朝鮮人?靴を机上に載せてウイスキーを呷《あお》り乍《なが》らだ。こちらは直立不動、一言間違えば奈落《ならく=地獄》の運命と身の毛の彌立つ《よだつ=恐怖のため身の毛が立つ》十数分が過ぎ釈放《しゃくほう》されてLSTの船腹に移ったのも夢の中。船の中は座るが精々《せいぜい》の超満員。でも聨銀券数万を叩いて市中で求めた大型手提げ袋に一杯の加給品を詰めての帰国は後から聞いた限り非常に恵まれた環境にあった兵隊だったのである。

                      変蝠林(T/06)。
)。

--
変蝠林

  条件検索へ