朝鮮生まれの引揚者の雑記 <一部英訳あり>
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- Re: 朝鮮生まれの引揚者の雑記 (HI0815, 2006/12/26 8:58)
編集者
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#3 邦人の生活と脱出 闇船
敗戦の後の双浦地区には工場の従業員と家族のほか、北から下りてきた人を併せて日本人は五千人あまりいた。この中心は工場長だがロスケが来るとすぐ、工場長と幹部とはソ連軍に連れていかれた。技師長が拉致《らち》されなかったので、この人を中心に工場の有志の若手社員が尽力に立ち上がってくれた。
危険な道を京城《ソウル》本社との連絡に三十八度線を往復もした。ソ連軍、朝鮮人との折衝《せっしょう》には、大変な苦労を重ね、やがて日本人世話会として活動するようになった。初めは北からの避難者の受け入れ、死亡者の埋葬、住居、食糧の配分等から無職者の帰国促進、後には他地区との連絡、闇船の計画交渉、編成、運行等大変な仕事をやり遂げた。そのおかげで混乱期を過ぎた後には殆ど犠牲者を出すことなしに、五千余りの者は帰国することができた。大きな功績は知る人のみぞ知る。感謝の極みである。
八月九日ソ連軍が満州と朝鮮に攻め込んで来たので、家族の疎開が始まって一部が移動している時敗戦になり、この人達は双浦にすぐ引き返してきた。十五日以後も鉄道は動いていたので、北から朝鮮人が大勢乗り込んで南下していた。双浦から日本人は極く一部の者がこれに乗って行き、京城《ソウル》に着いたのもあるが、途中北鮮で抑留され収容所で冬を過ごしたのもいる。(第一次脱出)
殆《ほとん》ど全員は双浦を離れることをせずにいたが、一時は全員南下する話があり、その時には入院患者の動かれない者をどうしようかと思案したこともあった。もしここを出ていく事になっていたらもっともっと悲惨な事になったろう。北鮮の地区によっては、「敗戦後すぐロスケが来る前に三十八度線から南に逃げておくべくだった」と、責任者を非難する記事を読んだが、双浦では動かなかったのが最善だったと信じている。
ソ連軍の乱暴狼藉が少なくなり、かなり治安が落ち着いてきた十月、工場の技術系某課長家族とその親戚の一団が船を仕立てて脱出に成功した。一行は無事南鮮に着き、京城《 ソウル》に出て二十年秋には日本へ帰っている。夜間極秘の出発で、病院の同僚もいるが(コレニツイテハ別ニ記スコトニナロウ)私は全く知らなかった。朝鮮側でも不意打ちだったのだろう、以後は警戒が厳しくなりこれに習って企てられたのは全て発見され、失敗に終わった(第二次脱出)。
年を越して暖かくなってからまだ移動禁止令は解けてなかったが、清津《チョンジン》、咸興《ハムフン》、元山《ウォンサン》等各地の日本人世帯会との連絡が取れるようになった。交渉はなかなか進まなかったが二十一年六月にようやく南への移動が黙認された。
鉄道貨車で三十八度線近くまで乗って行きあとは徒歩で山間を通り、川を渡って三十八度線を抜け、京城《ソウル》にたどり着いた。この一行は働き手のいない家族、病弱者、老人達が主な四百人の第一陣だったが、そのごすぐ鉄道貨車による南下はこの一回だけで中止された。元山《ウォンサン》にコレラが出たためと聞いた(第三次脱出)。
六月下旬からは海路で直接南鮮に行くことになった。所謂《いわゆる》、闇船で機会船や帆船で希望者の順に九百人が双浦の港を出発して行ったが、三十八度線を越える前に捕まえられて、双浦にもどされた船が多かった。家財道具を処分して出て行ったのでもどされたときは僅かな身の回りの物しかなく、次の出発まではそれまで以上の苦労だった。この闇船もまた中止になった(第四次脱出)。
世話会は計画を立て直して、南下は九月初めから再開された。今度は順調な軌道に乗って次々に双浦の港から出て行った。船は沿岸に近いと捕まえられるので陸の見えない遠くを航海し進路を誤ったり、嵐の中を漂流したり、どの船もいろいろの危険にあい苦労したが、幸運にみな南鮮の注文津に着くことが出来た。ここからは日本の迎えの船で内地に送られた。吉州の人々も城津《ソンジン》出てきてこのルートで帰国した (第五次脱出)。
私と一緒にいる六人がいつ船に乗るか、むづかしい問題だった。みな早く親元に帰りたいだろうが、始めのころは闇船の安全性は全く分らない、出発しても戻されるのが多い時もあった。九月半ばに、船頭も団長も最も信頼出来ると思われる船で送り出した。不運なことに船は台風に遭遇し舵《かじ》がこはれ、帆柱は倒れ、日本海を七日間漂流して命からがら注文津に着いたという。早い船は三日位で着いている。
二十年九月、治安が落ち着くとすぐ、人民委員会から指名された工場の技術者は集められた席で、朝鮮独立と工場の再開に協力して欲しい旨の要請を受けた。私も指名にはいっていた。生活と安全を保証する、と云う。形の上では日本人の自発的協力参加だが、言葉のはしには断れば其の逆になるということだった。
この百人余りの者は闇船での帰国を許されず、二十一年十月に出た最終の船を見送らねばならなかった。
ソ連軍が来てからは社宅やその他の建物がロスケに取り上げられるので、一軒の家にも合宿の部屋にも何所帯もが入らねばならなくなった。私たち十人が初めて病院社宅から引越したのは、六畳二、四畳半一間の家で四人家族の方と一緒だった。
ここには初め風呂がなかった。何日もたたぬのに私はカイセンにかかった。往診先で感染したのだと云うと伝染病予防の必要を皆に説明するのにいささか説得力があったかも知れない。回帰熱《=急性伝染病》、発疹チフスでなくてよかったが、この媒介color=CC9900]《ばいかい》[/color]をする蚤《のみ》、しらみ退治には入浴と洗濯が一番の予防法だといって、この二つを皆に励行してもらった。
移動禁止令が解けぬまま二十年は冬に入った。零下二十度以下になる土地なので、どうなることかと色々に心配していたが、社宅も、合宿も建物はしっかり出来ており、上水道は安全だったし、電気は豊富で十分な余裕があり無料で使うことが出来て暖房、炊事、洗濯、入浴に不自由することはなかった。
城津《ソンジン》は、夏はアメーバー赤痢と細菌性赤痢、腸チフス、マラリア、冬は発疹チフス、回帰熱、天然痘等の伝染病が多い土地なので、その流行が非常に心配だったが、皆の衛生知識とこの施設のおかげで、よその収容所のような蔓延《まんえん》はなかった。天然痘と発疹チフスとが一、二あり、犠牲者もでたがすぐに隔離できて後は続かずに済んだ。厳寒の冬は電気暖房のおかげで火災はなく、ガス中毒も凍死者もなく、肺炎も極めて少なくて無事に春を迎えられたのは奇跡的ともいえる幸いだった。
五千人余りの抑留者の生活はまちまちだったが詳しくは知らない。初めの混乱期がすぎると、世話会中心の共同生活になり、着のみ着の儘だった人たちも何とか衣食に困らないだけの物は揃ってきた。応召家族の所も頑張り抜いた。働ける者は港の荷役に出たり、工場、商店、農場等で働いていたが、なかにはバクチで日を過ごす者がいたし、ロスケの家に食べ物を乞いに来ている姿も見受けた。市場では何でも買うことが出来るので不自由なく暮らしていた者もいる。また、ソ連軍司令官のマダムも、工場長の細君も、たれそれの二号も日本人だとのことを耳にした。真偽は分からぬが正規の夫婦はあったようだ。
抑留生活と脱出終り
敗戦の後の双浦地区には工場の従業員と家族のほか、北から下りてきた人を併せて日本人は五千人あまりいた。この中心は工場長だがロスケが来るとすぐ、工場長と幹部とはソ連軍に連れていかれた。技師長が拉致《らち》されなかったので、この人を中心に工場の有志の若手社員が尽力に立ち上がってくれた。
危険な道を京城《ソウル》本社との連絡に三十八度線を往復もした。ソ連軍、朝鮮人との折衝《せっしょう》には、大変な苦労を重ね、やがて日本人世話会として活動するようになった。初めは北からの避難者の受け入れ、死亡者の埋葬、住居、食糧の配分等から無職者の帰国促進、後には他地区との連絡、闇船の計画交渉、編成、運行等大変な仕事をやり遂げた。そのおかげで混乱期を過ぎた後には殆ど犠牲者を出すことなしに、五千余りの者は帰国することができた。大きな功績は知る人のみぞ知る。感謝の極みである。
八月九日ソ連軍が満州と朝鮮に攻め込んで来たので、家族の疎開が始まって一部が移動している時敗戦になり、この人達は双浦にすぐ引き返してきた。十五日以後も鉄道は動いていたので、北から朝鮮人が大勢乗り込んで南下していた。双浦から日本人は極く一部の者がこれに乗って行き、京城《ソウル》に着いたのもあるが、途中北鮮で抑留され収容所で冬を過ごしたのもいる。(第一次脱出)
殆《ほとん》ど全員は双浦を離れることをせずにいたが、一時は全員南下する話があり、その時には入院患者の動かれない者をどうしようかと思案したこともあった。もしここを出ていく事になっていたらもっともっと悲惨な事になったろう。北鮮の地区によっては、「敗戦後すぐロスケが来る前に三十八度線から南に逃げておくべくだった」と、責任者を非難する記事を読んだが、双浦では動かなかったのが最善だったと信じている。
ソ連軍の乱暴狼藉が少なくなり、かなり治安が落ち着いてきた十月、工場の技術系某課長家族とその親戚の一団が船を仕立てて脱出に成功した。一行は無事南鮮に着き、京城《 ソウル》に出て二十年秋には日本へ帰っている。夜間極秘の出発で、病院の同僚もいるが(コレニツイテハ別ニ記スコトニナロウ)私は全く知らなかった。朝鮮側でも不意打ちだったのだろう、以後は警戒が厳しくなりこれに習って企てられたのは全て発見され、失敗に終わった(第二次脱出)。
年を越して暖かくなってからまだ移動禁止令は解けてなかったが、清津《チョンジン》、咸興《ハムフン》、元山《ウォンサン》等各地の日本人世帯会との連絡が取れるようになった。交渉はなかなか進まなかったが二十一年六月にようやく南への移動が黙認された。
鉄道貨車で三十八度線近くまで乗って行きあとは徒歩で山間を通り、川を渡って三十八度線を抜け、京城《ソウル》にたどり着いた。この一行は働き手のいない家族、病弱者、老人達が主な四百人の第一陣だったが、そのごすぐ鉄道貨車による南下はこの一回だけで中止された。元山《ウォンサン》にコレラが出たためと聞いた(第三次脱出)。
六月下旬からは海路で直接南鮮に行くことになった。所謂《いわゆる》、闇船で機会船や帆船で希望者の順に九百人が双浦の港を出発して行ったが、三十八度線を越える前に捕まえられて、双浦にもどされた船が多かった。家財道具を処分して出て行ったのでもどされたときは僅かな身の回りの物しかなく、次の出発まではそれまで以上の苦労だった。この闇船もまた中止になった(第四次脱出)。
世話会は計画を立て直して、南下は九月初めから再開された。今度は順調な軌道に乗って次々に双浦の港から出て行った。船は沿岸に近いと捕まえられるので陸の見えない遠くを航海し進路を誤ったり、嵐の中を漂流したり、どの船もいろいろの危険にあい苦労したが、幸運にみな南鮮の注文津に着くことが出来た。ここからは日本の迎えの船で内地に送られた。吉州の人々も城津《ソンジン》出てきてこのルートで帰国した (第五次脱出)。
私と一緒にいる六人がいつ船に乗るか、むづかしい問題だった。みな早く親元に帰りたいだろうが、始めのころは闇船の安全性は全く分らない、出発しても戻されるのが多い時もあった。九月半ばに、船頭も団長も最も信頼出来ると思われる船で送り出した。不運なことに船は台風に遭遇し舵《かじ》がこはれ、帆柱は倒れ、日本海を七日間漂流して命からがら注文津に着いたという。早い船は三日位で着いている。
二十年九月、治安が落ち着くとすぐ、人民委員会から指名された工場の技術者は集められた席で、朝鮮独立と工場の再開に協力して欲しい旨の要請を受けた。私も指名にはいっていた。生活と安全を保証する、と云う。形の上では日本人の自発的協力参加だが、言葉のはしには断れば其の逆になるということだった。
この百人余りの者は闇船での帰国を許されず、二十一年十月に出た最終の船を見送らねばならなかった。
ソ連軍が来てからは社宅やその他の建物がロスケに取り上げられるので、一軒の家にも合宿の部屋にも何所帯もが入らねばならなくなった。私たち十人が初めて病院社宅から引越したのは、六畳二、四畳半一間の家で四人家族の方と一緒だった。
ここには初め風呂がなかった。何日もたたぬのに私はカイセンにかかった。往診先で感染したのだと云うと伝染病予防の必要を皆に説明するのにいささか説得力があったかも知れない。回帰熱《=急性伝染病》、発疹チフスでなくてよかったが、この媒介color=CC9900]《ばいかい》[/color]をする蚤《のみ》、しらみ退治には入浴と洗濯が一番の予防法だといって、この二つを皆に励行してもらった。
移動禁止令が解けぬまま二十年は冬に入った。零下二十度以下になる土地なので、どうなることかと色々に心配していたが、社宅も、合宿も建物はしっかり出来ており、上水道は安全だったし、電気は豊富で十分な余裕があり無料で使うことが出来て暖房、炊事、洗濯、入浴に不自由することはなかった。
城津《ソンジン》は、夏はアメーバー赤痢と細菌性赤痢、腸チフス、マラリア、冬は発疹チフス、回帰熱、天然痘等の伝染病が多い土地なので、その流行が非常に心配だったが、皆の衛生知識とこの施設のおかげで、よその収容所のような蔓延《まんえん》はなかった。天然痘と発疹チフスとが一、二あり、犠牲者もでたがすぐに隔離できて後は続かずに済んだ。厳寒の冬は電気暖房のおかげで火災はなく、ガス中毒も凍死者もなく、肺炎も極めて少なくて無事に春を迎えられたのは奇跡的ともいえる幸いだった。
五千人余りの抑留者の生活はまちまちだったが詳しくは知らない。初めの混乱期がすぎると、世話会中心の共同生活になり、着のみ着の儘だった人たちも何とか衣食に困らないだけの物は揃ってきた。応召家族の所も頑張り抜いた。働ける者は港の荷役に出たり、工場、商店、農場等で働いていたが、なかにはバクチで日を過ごす者がいたし、ロスケの家に食べ物を乞いに来ている姿も見受けた。市場では何でも買うことが出来るので不自由なく暮らしていた者もいる。また、ソ連軍司令官のマダムも、工場長の細君も、たれそれの二号も日本人だとのことを耳にした。真偽は分からぬが正規の夫婦はあったようだ。
抑留生活と脱出終り
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編集者 (代理投稿)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
私の引き上げ
皆を送り出した後はわが家は親子四人だけになった。帰国を認められなかったのは工場の技術者と医師の八十六人と其の家族、併せて三百人位で、高周波病院の職員は外科の安藤医長の一家四人と、ほかに元院長の産婦人科医と歯科医の二人がいた。この二人はやはり抑留を指名されて元の城津道立病院に勤めていた。家族をさきに帰しておいて、そのごに元道立病院院長らと闇船での脱出を企てたが失敗して単身で残されている。
最後の闇船が出る前に、これで抑留日本人は殆《ほとん》どいなくなるのだから我々の役目は済んだ。出来れば一緒に帰ろうと思い、安藤君と二人で工場長に交渉に行った。もとの工場長室にはモスクワ帰りだと聞く背の高い男がいて、通訳を介しての談判だった。日本語を知らぬ筈はあるまいが、これは体面なのだろうと思った。
二人の帰国希望申し出には頭から「ニエット」(NO!)。こちらは日本人がいるから自分で残ったつもりなのだが、そんな事話したら大変な事になるだろう。日本にいる親妹達が消息不明なのが心配なこと、七十歳を越している父は家を空襲で焼かれて、田舎に移ったあとどうなっているか安否が不明でいる。京城《ソウル》にいた妻の両親弟妹達の消息も全く分からず毎日心配している。何とか帰らして欲しいと、こちらは唯懇願するしかないが、何を言っても向こうも答えはニエットしかない。最後には、自分達は残ることにするが妻子は帰らせて欲しいと言ったがこれも「ニエット」。家族を帰らせ身軽になると脱出をするかも知れぬとあからさまに言う。
帰らせてくれぬとはっきり分った後は腹をくくって暮すしかない。最後の闇船を送ったときには大きな感慨はなかった。何時帰られるのかは全く分らない。一番初めに協力を求められたとき、国交が開かれるようになれば一年に一と月間位の休暇を出すと言われたのを思い出す。
結果からみれば家族を先に帰らせなくて良かった。父母たちの心配を二三か月なが引かせはしたが、どちらの親にしても三人が身を寄せる事はとても出来るような状態ではなかった。
我々北朝鮮にいた日本人を、労働力の無い婦女子を含めて抑留したまま、何故すぐに帰国させなかったのか、記録を調べたが分らない。ソ連の日本、アメリカとの交渉の人質だったのではなかろうか。抑留邦人の帰国の交渉は政府間の話合いではなくて、日本人の共産主義者(党員?)松村義士男氏等が奔走してくれた成果だと聞いている。アメリカがソ連に申し入れをしたが取りあわれなかったという。
共産党と言えば、平壌(今のピョンヤン)に工業技術者総連盟ができて、日本人部会の部長になった常塚秀次君は、私の小学校、中学校からの友人で、京都帝大をでているが高校在学中に思想問題で停学処分を受けたことがあった。元山《ウォンサン》にきて、私が収容所で迎えの船を待っている時に会いにきた。北に残ってくれぬかという要請だった。勿論断ったが、ここまで来ながら残留の要請で船に乗せて貰えずに工場に連れ戻された技術者がかなりいたと聞いた。
常塚自身は二十三年日本人が全員帰国するときに、反ソ行為の罪で逮捕され他の幹部十五名と共に帰国出来なかったし、城津《ソンジン》で日本人世話会の中心であり、工場復興に最も協力した岡野正典技師長も同じ罪でシベリアに連れて行かれた。帰国後常塚とは行き違って逢はずしまいになったが、岡野さんとは三十五年に会うことが出来た。ソ連とはツクヅク恐ろしい国である。
帰国の予想は全く分らぬので冬を過ごす食糧の用意は済ましていた。二十一年《1946年》十一月十五日(私の誕生日)休みの日だったので安藤家と一緒に昼の散歩がてら朝鮮ソバを食べに出ていた、暖かい日だった。店を出て間もなく向こうから、帰られますよ!と言いながら駆けてきた人に会った。大喜びで家に帰り帰国の仕度に掛かろうとした時、数人の技術者と私たち医師二人は別だと言われた。あがいても、どうしようもない事なので帰国を諦《あきら》めていた。
みなの出発当日の十七日の朝、貴方がた二人は帰ってもよい、との知らせがきた。慌ただしい出発である。リュックはかねて用意していたが、持って行かれない品物を現金に替える時間はない。(一人一千円までは日本に持ち帰られたのだがこの時には四千円に満たない額しか手持ちはなかった)。
正式の引揚げだから双浦の駅まで運んでくれたが、あとは自分の力で運ばねばならない。子供二人(三歳八ヶ月と一歳十一ヶ月)にも自分の物はずっしりと背負わせた。背中と両手とに持てる物を大急ぎで運んだ。昼過ぎにはもう駅に行かねばならない。
貨物車に乗り込むのに一人一人厳重に名簿と照合していた。乗ったのは夕方で出発は真夜中になった。(この間に名簿外の軍人三名はなんとかして乗せることが出来たが、途中の駅で捜索を受け、隠すのに大変だった)。
私たちの出たあとに十人余りの技術者が残されたが、この人たちも間もなく帰国を認められて元山《ウォンサン》の収容所にいる間に一緒になれた。
セメントが残っているほこりっぽい貨物車にどうにか横になり、夜になって出発したが汽車は石炭の火力が弱いとかで双浦と城津《ソンジン》間のトンネルのある坂をなかなか登れない。四キロあまりなのに城津駅には朝になって着いた。この調子で途中も止まっている時の方が長いような走り方。その度に鼻薬《はなぐすり=小額のワイロ》が必要だったと言う。
三日がかりで元山《ウォンサン》の収容所のある文坪駅に着いた。ここからは荷物は自分で運ばねばならない。布団《ふとん》包はどうにも持てないので、布団は二枚だけにし、他は皮を剥《はが》し布だけにして、綿は希望する人にあげた。寒い収容所で重宝された。
収容所は工場の社宅だが城津《ソンジン》のとは大違いで、窓も畳も荒らされたあとの、風が吹き通しのあばら家だった。何とかつくろって毎日、何時来るか分らぬ船を待った。後ろの丘に登ると海が見える。船が見エルカーアと声をかけながら皆がよく登っていた。城津の者と同じように、闇船で帰ることの出来なかった人たちが各地から三千人くらい集まっている。
水道はなく、掘り抜き井戸《=地下深く掘って湧きださせる井戸》の周りはかちかちに氷が張りつめている。食糧は小豆と葡萄糖《ぶどうとう》、塩鮭が配給されるだけなので、持ってきた食糧の他は収容所の柵の外に食糧を売りに来るオモニ(お母さん=朝鮮人の小母さん)から買うか、物々交換で購めねばならない。
燃料も配給がないので各自が集めねばならない。一と月余りの間に空き家になっている大きな建物が二つ壊された。私たちはそのおこぼれを分けて貰って暖をとり炊事をした。
私たちはここでも医療室を開いたが、ロスケの責任者は女医の軍医中佐だった。発熱者を発疹チフスではないかとしつこく聞く。そうだと大変なことだが伝染病の発生がなかったのは、本当に幸いだった。明日にでも船が来るかも知れぬのに、間違って伝染病だと頑張られると帰国は一層遅れることになる。
一と月過ぎて、ようたく待望の船が来た。乗る前に広場に並ばされ、代表がソ連軍人に向かって感謝の挨拶を読み始めた。ロスケはすぐ止めさせて、代表を反対の日本人の方に向かせて日本人に聞かせるようにして読み上げさせた。これがソ連式なのだ。
引き上げ船、栄豊丸には十二月十九日に乗り込んだ。この貨物船は一般邦人《ほうじん=特に外国にいる日本人を指す》に当てられていたのだが、ソ連から帰国の兵隊も乗って予定の倍の人数になったようだ。船底から甲板のすぐ下まで十段にも床が作られ、坐ると頭がつく位の高さだった。六ノットの船は、三日三晩かかって佐世保についた。私たちは甲板のすぐ下の場所だったので、一夜が明けて暖かくなると、天井に張りつめた氷が解けて雨に降られる目にあった。
同船した兵隊は、ソ連から最初に帰還してきた者たちで病人が多く、甲板には下痢便がたれ流されていた。何人かは航海中に亡くなって水葬にされた。また天然痘《てんねんとう=法定伝染病》もでて、佐世保入港後一般人は別の船に移されて二週間、正月は船の中だった。
陸に上がって更に一週間とめられた。一緒の頃上陸した台湾からの引揚者が、隣の宿舎にいた。ぱりっとした服装に装身具をつけ、整理された荷物を持っていて、みすぼらしい朝鮮組とは対照的であった。
城津《ソンジン》を出て二か月かかって、一月末、ようやく家族四人は父が疎開している伊豆に着いた。
以上 引揚げ終り
昭和63《1988年》.3.30
皆を送り出した後はわが家は親子四人だけになった。帰国を認められなかったのは工場の技術者と医師の八十六人と其の家族、併せて三百人位で、高周波病院の職員は外科の安藤医長の一家四人と、ほかに元院長の産婦人科医と歯科医の二人がいた。この二人はやはり抑留を指名されて元の城津道立病院に勤めていた。家族をさきに帰しておいて、そのごに元道立病院院長らと闇船での脱出を企てたが失敗して単身で残されている。
最後の闇船が出る前に、これで抑留日本人は殆《ほとん》どいなくなるのだから我々の役目は済んだ。出来れば一緒に帰ろうと思い、安藤君と二人で工場長に交渉に行った。もとの工場長室にはモスクワ帰りだと聞く背の高い男がいて、通訳を介しての談判だった。日本語を知らぬ筈はあるまいが、これは体面なのだろうと思った。
二人の帰国希望申し出には頭から「ニエット」(NO!)。こちらは日本人がいるから自分で残ったつもりなのだが、そんな事話したら大変な事になるだろう。日本にいる親妹達が消息不明なのが心配なこと、七十歳を越している父は家を空襲で焼かれて、田舎に移ったあとどうなっているか安否が不明でいる。京城《ソウル》にいた妻の両親弟妹達の消息も全く分からず毎日心配している。何とか帰らして欲しいと、こちらは唯懇願するしかないが、何を言っても向こうも答えはニエットしかない。最後には、自分達は残ることにするが妻子は帰らせて欲しいと言ったがこれも「ニエット」。家族を帰らせ身軽になると脱出をするかも知れぬとあからさまに言う。
帰らせてくれぬとはっきり分った後は腹をくくって暮すしかない。最後の闇船を送ったときには大きな感慨はなかった。何時帰られるのかは全く分らない。一番初めに協力を求められたとき、国交が開かれるようになれば一年に一と月間位の休暇を出すと言われたのを思い出す。
結果からみれば家族を先に帰らせなくて良かった。父母たちの心配を二三か月なが引かせはしたが、どちらの親にしても三人が身を寄せる事はとても出来るような状態ではなかった。
我々北朝鮮にいた日本人を、労働力の無い婦女子を含めて抑留したまま、何故すぐに帰国させなかったのか、記録を調べたが分らない。ソ連の日本、アメリカとの交渉の人質だったのではなかろうか。抑留邦人の帰国の交渉は政府間の話合いではなくて、日本人の共産主義者(党員?)松村義士男氏等が奔走してくれた成果だと聞いている。アメリカがソ連に申し入れをしたが取りあわれなかったという。
共産党と言えば、平壌(今のピョンヤン)に工業技術者総連盟ができて、日本人部会の部長になった常塚秀次君は、私の小学校、中学校からの友人で、京都帝大をでているが高校在学中に思想問題で停学処分を受けたことがあった。元山《ウォンサン》にきて、私が収容所で迎えの船を待っている時に会いにきた。北に残ってくれぬかという要請だった。勿論断ったが、ここまで来ながら残留の要請で船に乗せて貰えずに工場に連れ戻された技術者がかなりいたと聞いた。
常塚自身は二十三年日本人が全員帰国するときに、反ソ行為の罪で逮捕され他の幹部十五名と共に帰国出来なかったし、城津《ソンジン》で日本人世話会の中心であり、工場復興に最も協力した岡野正典技師長も同じ罪でシベリアに連れて行かれた。帰国後常塚とは行き違って逢はずしまいになったが、岡野さんとは三十五年に会うことが出来た。ソ連とはツクヅク恐ろしい国である。
帰国の予想は全く分らぬので冬を過ごす食糧の用意は済ましていた。二十一年《1946年》十一月十五日(私の誕生日)休みの日だったので安藤家と一緒に昼の散歩がてら朝鮮ソバを食べに出ていた、暖かい日だった。店を出て間もなく向こうから、帰られますよ!と言いながら駆けてきた人に会った。大喜びで家に帰り帰国の仕度に掛かろうとした時、数人の技術者と私たち医師二人は別だと言われた。あがいても、どうしようもない事なので帰国を諦《あきら》めていた。
みなの出発当日の十七日の朝、貴方がた二人は帰ってもよい、との知らせがきた。慌ただしい出発である。リュックはかねて用意していたが、持って行かれない品物を現金に替える時間はない。(一人一千円までは日本に持ち帰られたのだがこの時には四千円に満たない額しか手持ちはなかった)。
正式の引揚げだから双浦の駅まで運んでくれたが、あとは自分の力で運ばねばならない。子供二人(三歳八ヶ月と一歳十一ヶ月)にも自分の物はずっしりと背負わせた。背中と両手とに持てる物を大急ぎで運んだ。昼過ぎにはもう駅に行かねばならない。
貨物車に乗り込むのに一人一人厳重に名簿と照合していた。乗ったのは夕方で出発は真夜中になった。(この間に名簿外の軍人三名はなんとかして乗せることが出来たが、途中の駅で捜索を受け、隠すのに大変だった)。
私たちの出たあとに十人余りの技術者が残されたが、この人たちも間もなく帰国を認められて元山《ウォンサン》の収容所にいる間に一緒になれた。
セメントが残っているほこりっぽい貨物車にどうにか横になり、夜になって出発したが汽車は石炭の火力が弱いとかで双浦と城津《ソンジン》間のトンネルのある坂をなかなか登れない。四キロあまりなのに城津駅には朝になって着いた。この調子で途中も止まっている時の方が長いような走り方。その度に鼻薬《はなぐすり=小額のワイロ》が必要だったと言う。
三日がかりで元山《ウォンサン》の収容所のある文坪駅に着いた。ここからは荷物は自分で運ばねばならない。布団《ふとん》包はどうにも持てないので、布団は二枚だけにし、他は皮を剥《はが》し布だけにして、綿は希望する人にあげた。寒い収容所で重宝された。
収容所は工場の社宅だが城津《ソンジン》のとは大違いで、窓も畳も荒らされたあとの、風が吹き通しのあばら家だった。何とかつくろって毎日、何時来るか分らぬ船を待った。後ろの丘に登ると海が見える。船が見エルカーアと声をかけながら皆がよく登っていた。城津の者と同じように、闇船で帰ることの出来なかった人たちが各地から三千人くらい集まっている。
水道はなく、掘り抜き井戸《=地下深く掘って湧きださせる井戸》の周りはかちかちに氷が張りつめている。食糧は小豆と葡萄糖《ぶどうとう》、塩鮭が配給されるだけなので、持ってきた食糧の他は収容所の柵の外に食糧を売りに来るオモニ(お母さん=朝鮮人の小母さん)から買うか、物々交換で購めねばならない。
燃料も配給がないので各自が集めねばならない。一と月余りの間に空き家になっている大きな建物が二つ壊された。私たちはそのおこぼれを分けて貰って暖をとり炊事をした。
私たちはここでも医療室を開いたが、ロスケの責任者は女医の軍医中佐だった。発熱者を発疹チフスではないかとしつこく聞く。そうだと大変なことだが伝染病の発生がなかったのは、本当に幸いだった。明日にでも船が来るかも知れぬのに、間違って伝染病だと頑張られると帰国は一層遅れることになる。
一と月過ぎて、ようたく待望の船が来た。乗る前に広場に並ばされ、代表がソ連軍人に向かって感謝の挨拶を読み始めた。ロスケはすぐ止めさせて、代表を反対の日本人の方に向かせて日本人に聞かせるようにして読み上げさせた。これがソ連式なのだ。
引き上げ船、栄豊丸には十二月十九日に乗り込んだ。この貨物船は一般邦人《ほうじん=特に外国にいる日本人を指す》に当てられていたのだが、ソ連から帰国の兵隊も乗って予定の倍の人数になったようだ。船底から甲板のすぐ下まで十段にも床が作られ、坐ると頭がつく位の高さだった。六ノットの船は、三日三晩かかって佐世保についた。私たちは甲板のすぐ下の場所だったので、一夜が明けて暖かくなると、天井に張りつめた氷が解けて雨に降られる目にあった。
同船した兵隊は、ソ連から最初に帰還してきた者たちで病人が多く、甲板には下痢便がたれ流されていた。何人かは航海中に亡くなって水葬にされた。また天然痘《てんねんとう=法定伝染病》もでて、佐世保入港後一般人は別の船に移されて二週間、正月は船の中だった。
陸に上がって更に一週間とめられた。一緒の頃上陸した台湾からの引揚者が、隣の宿舎にいた。ぱりっとした服装に装身具をつけ、整理された荷物を持っていて、みすぼらしい朝鮮組とは対照的であった。
城津《ソンジン》を出て二か月かかって、一月末、ようやく家族四人は父が疎開している伊豆に着いた。
以上 引揚げ終り
昭和63《1988年》.3.30
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同僚医師の選んだ道
高周波病院医局は内科三、小児科、歯科各二、産婦人科、皮膚泌尿器科、眼科、耳鼻科各一、薬剤師二の構成で、産婦人科医長が院長、小児科医長が副院長、内科の一人と歯科とは朝鮮人だった。内科の一人は敗戦直前に応召したので、八月十五日以後の内地人医師は十人で小児科の一人は女医さんだった。
内科医長の私は昭和十三年、外科医長は十四年、まだ工場内医務室の時からの古参者で、他の八人は十六年病院開設前後にきた人たちである。工場は十二年の創業なので、私が赴任した頃からの従業員には草創期《そうそうき=くさわけ》に一つ釜の飯を喰った同志感の繫《つな》がりがあった。
日本が負け工場の仕事の様子は変わったようだが、病院は電気、水道等の係と同じように仕事を続けた。内科には赤痢の入院患者もいた。しかし二十三日にロスケがきてからは医療のことなどは論外の混乱状態になり、八月の末に病院は解散、高周波病院は消滅した。
解散後の私のことは、すでに記した。
抑留邦人が十数人の残留者を除き二十一年十一月に城津《ソンジン》を引き揚げるときは、婦、歯、外、内科の四人の医師が残っていた。婦、歯の二人は脱出を失敗して残されていたので、最後まで自発的に残留をしたのは外、内の二人である。
ドイツ語で内科、外科の二つをグロース(大)ファッファ(科)という。日本では古くから内科は本道と呼ばれていた。私たち二人は別に申し合わせた事はないが、混乱のときにもずっと仕事を続けていた。
私としては医の本道の矜持《きょうじ=自負》であり、全く想像もしていなかった未曾有《みぞう=いまだかってない》の状況に当たって対処すべき「医師のあり方」は、一つしかないと迷うことはなかった。
他の六人が取ったいき方に、私には容認出来ない事があったが、ここではこれ以上記すのを止める。
以上の文だけでも ここに入れ印刷しようと思ったがそれも止めにした。
追記
記念誌を印刷するときに、(イズレ書クコトニナロウ)を消さずにしまい、「同僚医師の選んだ道」は表題だけになった。高周波病院の所で高田さんのことを載せただけで、断りを書いた。
以下の記載は自家の記念誌の末尾につけて置くものとして残す。事情を知っている安藤、本庄君の二人には送っても良いだろう。
1
敗戦直後まだ鉄道が動いていて、北からの朝鮮人が多数南におりているとき、いち早く同僚の外科医員がいなくなった。予備役軍医大尉で大学は私の後輩になる。戦地の経験から敗戦がどんなものか知っているのだろう。ロスケの来る前にまだ小さな子供と細君を連れての決断だった。京城《ソウル》に行けたものと思っていたが、ずっと後になって知った話しでは三十八度線を抜けられずに北朝鮮で冬を越し、自分も発疹チフスにかかり、大変な苦労をしたと言う。
2
病院社宅から立ち退きを言はれ、引越しをして間もない十月の朝、二軒さきの家にいる看護婦養成所の生徒が「目をさましたら家の人たちが居なくなっている」と言ってきた。
耳鼻科と皮膚科の二家族が引越し先で同居していて、これと歯科医員の家族とが親戚の会社の技術系課長一家と計画した闇船で脱出に成功した。身寄りの無い子供らを職員が預かって面倒を見る事にしていたのだが、生徒らは置き去りにされた。この一行は無事南鮮に着き、京城《ソウル》出て年内に内地に還えった。帰国後一人は細君を亡くした。また一人は早く亡くなり会わずに仕舞った。
3
ロスケの乱暴、狼藉《ろうぜき》が始まると、百人余りの者は、人民委員会から朝鮮復興に協力を求められた。病院の医師では小児科医二人は外されていた。
一人は女医さん。ロスケにとっては、医師も看護婦も若い女として狙《ねら》う対象に変わりはない。独身で両親と同居していたが、ひたすら身を潜《ひそ》めていて、年が明けて無事帰国した。東京で私の一年上の先輩で立正会の友人と結婚し、その後も何回か会っている。
も一人の小児科医は副院長、工場の幹部の家族と朝鮮人の工員の家族との診察態度の違いが気に入らぬので私は嫌いだった。私たちには慇懃《いんぎん=丁寧》であり、細君も社宅では内助の功に励んでいる感じだった。私は副院長就任はその人に非ずと反対したが、敗戦の非常の時に院長を助けることはなく、北から逃避中の患者さんからは不満の声を聞いた。ロスケが来てからは、病人を診ることはしなくなり、年が明けて一般の者と一緒に闇船で帰国した。
帰国後は東北の港街に精神病院を経営していたようだ。三十四年頃に全国の医師名簿を調べたとき、経歴に城津《そんじん》高周波工場付属病院長とあった。この人らしい「故意の誤植だな」とおかしくなった。城津の仲間でこだわりのない細君たちが訪ねていき、一番羽振りが良くて大いに歓待されたと話してくれたが、私は近くに観光に行ったときも声をかけなかった。歯科医長の葬儀のときに初めて会ったが話はしなかった。
5
歯科医長と高田さんについては先に記した。
高周波病院医局は内科三、小児科、歯科各二、産婦人科、皮膚泌尿器科、眼科、耳鼻科各一、薬剤師二の構成で、産婦人科医長が院長、小児科医長が副院長、内科の一人と歯科とは朝鮮人だった。内科の一人は敗戦直前に応召したので、八月十五日以後の内地人医師は十人で小児科の一人は女医さんだった。
内科医長の私は昭和十三年、外科医長は十四年、まだ工場内医務室の時からの古参者で、他の八人は十六年病院開設前後にきた人たちである。工場は十二年の創業なので、私が赴任した頃からの従業員には草創期《そうそうき=くさわけ》に一つ釜の飯を喰った同志感の繫《つな》がりがあった。
日本が負け工場の仕事の様子は変わったようだが、病院は電気、水道等の係と同じように仕事を続けた。内科には赤痢の入院患者もいた。しかし二十三日にロスケがきてからは医療のことなどは論外の混乱状態になり、八月の末に病院は解散、高周波病院は消滅した。
解散後の私のことは、すでに記した。
抑留邦人が十数人の残留者を除き二十一年十一月に城津《ソンジン》を引き揚げるときは、婦、歯、外、内科の四人の医師が残っていた。婦、歯の二人は脱出を失敗して残されていたので、最後まで自発的に残留をしたのは外、内の二人である。
ドイツ語で内科、外科の二つをグロース(大)ファッファ(科)という。日本では古くから内科は本道と呼ばれていた。私たち二人は別に申し合わせた事はないが、混乱のときにもずっと仕事を続けていた。
私としては医の本道の矜持《きょうじ=自負》であり、全く想像もしていなかった未曾有《みぞう=いまだかってない》の状況に当たって対処すべき「医師のあり方」は、一つしかないと迷うことはなかった。
他の六人が取ったいき方に、私には容認出来ない事があったが、ここではこれ以上記すのを止める。
以上の文だけでも ここに入れ印刷しようと思ったがそれも止めにした。
追記
記念誌を印刷するときに、(イズレ書クコトニナロウ)を消さずにしまい、「同僚医師の選んだ道」は表題だけになった。高周波病院の所で高田さんのことを載せただけで、断りを書いた。
以下の記載は自家の記念誌の末尾につけて置くものとして残す。事情を知っている安藤、本庄君の二人には送っても良いだろう。
1
敗戦直後まだ鉄道が動いていて、北からの朝鮮人が多数南におりているとき、いち早く同僚の外科医員がいなくなった。予備役軍医大尉で大学は私の後輩になる。戦地の経験から敗戦がどんなものか知っているのだろう。ロスケの来る前にまだ小さな子供と細君を連れての決断だった。京城《ソウル》に行けたものと思っていたが、ずっと後になって知った話しでは三十八度線を抜けられずに北朝鮮で冬を越し、自分も発疹チフスにかかり、大変な苦労をしたと言う。
2
病院社宅から立ち退きを言はれ、引越しをして間もない十月の朝、二軒さきの家にいる看護婦養成所の生徒が「目をさましたら家の人たちが居なくなっている」と言ってきた。
耳鼻科と皮膚科の二家族が引越し先で同居していて、これと歯科医員の家族とが親戚の会社の技術系課長一家と計画した闇船で脱出に成功した。身寄りの無い子供らを職員が預かって面倒を見る事にしていたのだが、生徒らは置き去りにされた。この一行は無事南鮮に着き、京城《ソウル》出て年内に内地に還えった。帰国後一人は細君を亡くした。また一人は早く亡くなり会わずに仕舞った。
3
ロスケの乱暴、狼藉《ろうぜき》が始まると、百人余りの者は、人民委員会から朝鮮復興に協力を求められた。病院の医師では小児科医二人は外されていた。
一人は女医さん。ロスケにとっては、医師も看護婦も若い女として狙《ねら》う対象に変わりはない。独身で両親と同居していたが、ひたすら身を潜《ひそ》めていて、年が明けて無事帰国した。東京で私の一年上の先輩で立正会の友人と結婚し、その後も何回か会っている。
も一人の小児科医は副院長、工場の幹部の家族と朝鮮人の工員の家族との診察態度の違いが気に入らぬので私は嫌いだった。私たちには慇懃《いんぎん=丁寧》であり、細君も社宅では内助の功に励んでいる感じだった。私は副院長就任はその人に非ずと反対したが、敗戦の非常の時に院長を助けることはなく、北から逃避中の患者さんからは不満の声を聞いた。ロスケが来てからは、病人を診ることはしなくなり、年が明けて一般の者と一緒に闇船で帰国した。
帰国後は東北の港街に精神病院を経営していたようだ。三十四年頃に全国の医師名簿を調べたとき、経歴に城津《そんじん》高周波工場付属病院長とあった。この人らしい「故意の誤植だな」とおかしくなった。城津の仲間でこだわりのない細君たちが訪ねていき、一番羽振りが良くて大いに歓待されたと話してくれたが、私は近くに観光に行ったときも声をかけなかった。歯科医長の葬儀のときに初めて会ったが話はしなかった。
5
歯科医長と高田さんについては先に記した。
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伊豆 下田 安良里 その1
昭和二十二年《1947年》~二十八年
二十一年十二月末佐世保に着き船内で足止めを受けて二週間目、年が明けて上陸、桟橋を下り、「日本の土」を踏みしめて収容所に入った。
初めは引揚船、栄豊丸の狭い船室から甲板に出ては、緑の濃い島々を眺め、ここが日本なのだと思いながらのじれったい毎日だった。一週間たって兵隊たちと分けられて別な船に乗り替え、この船で又一週間を過ごした。今度のアメリカの船は船倉《せんそう》が広く、天井も高く明るく、気持ちも和らいだ。私たちは医務室で診療を始めたので幾らか張りのある日々を送ることが出来た。正月には医務室の者は船長の招待を受け、久しくなかったご馳走にあずかった。
洋子の手を引いて、ここが日本なのだよと言いながら、日本の土を踏みしめた。上陸して更に一週間、隣の寮に入っている台湾からの引揚者がきれいな服装で、物も沢山持って明るくしていたのが、乞食《こじき》のような朝鮮組には非常な驚きだった。
父は疎開の用意が出来たところを東京の大空襲にあい、伊豆に行って暮らしていることは分かっていたので、沼津までの汽車の切符をもらい、南風崎《はえのさき=佐世保市》駅から引揚列車に乗った。初めの間はよかったが、途中からどんどん乗り込んでくる人で身動きもできないようになった。引揚者だけのゆっくりした道中などの甘い考えはふっとばされた思いをしたほかに、途中の記憶はない。三池子は下関で雲丹《うに》を買った覚えがあると言っている。
沼津に太郎彦君(三池子の弟)が迎えに来てくれていた。山本一家は皆無事に帰国し、土浦《=茨城県》の引揚者寮にいると言う。太郎彦君は城大在学中、学徒出陣《がくとしゅつじん=太平洋戦争下学生の徴兵猶予を停止し軍に入隊・出生させた》で海軍航空隊に入り台湾から復員し、丁度仁科《にしな=静岡県》にきていた。
長谷川一家は父と妹幸子とが仁科に居り、末妹典子は金沢の昭のところへ行っていた。
弟昭は和歌山の学校を辞めて金沢に移り結婚したという。長姉総子は、神戸で度々空襲に焼け出されながらも三人とも無事で、甲南病院の中に住んでいる。次姉保子一家は、北鮮平安北道《ピョンアンプット》安州から闇船で京城《ソウル》に出て、四人の子供も皆無事に連れて帰り、赤井の本籍地和歌山に住んでいる。妹の光子一家は、広島で泉蔵君が亡くなり、その後に原爆をうけた。子供三人無事で泉蔵君の家、浜寺に移ったあと、光子は浜辺で拾ってきた焚《た》き物の爆発で両眼を失明したと言う。子供らを浜寺に預け、自分は神戸で六さん(姉総子の亭主、眼科医)に面倒を見て貰っている。仁科は、伊山伯父様は亡くなられ、レイ伯母様がおられ、父は寺の離れをお借りしている。東京の家財のほとんどは送ることの出来ぬまま空襲で焼いてしまったので、売り喰いの材料もなく暮らしていた。
私たち四人は一月の末仁科に着いたが、この「家」にゆっくり骨を休める余裕はない。朝鮮を出るとき日本円を一人千円ずつ持って帰られたのだが、慌ただしい出発で現金をつくる暇はなかった。荷物はリュックに詰めたものだけ、帰国後の伊豆では朝鮮以上になけなしの売り喰いになる。
一日も早く収入の道を掴《つか》まねばならない。高周波の工場が東京北品川にあるので上京して千歳烏山《ちとせからすやま=東京世田谷区》の会社の寮に泊まり、元院長の高田さんや一緒に帰国した者たちと会社に交渉したが何も得るものはなかった。城津《ソンジン》では二万円余りの退職金の証書を渡されたが(その頃の月給は四百円位だった)、会社の資産は凍結された由で退職金は出ない。会社に就職のあてもない。
大学の内科教授の所に行った時には、田舎の食べ物の有るところにいるようにと言われた。戦後元の陸海軍病院が国立病院になり城大の教授は帰国後諸所で院長になっておられ、多数の城大関係者が就職していた。私の帰国したときはもう入り込む余地はなく、訪ねて行った久里浜《=神奈川県横須賀市》国立病院にも五人いた。
クラスの丹羽が横須賀に、宮田が逗子《ずし》に引揚げているので会いに行ったが仕事の宛は無い。丹羽はフィリッピンから復員し東京の病院勤務、宮田は平壌《ピョンヤン》から脱出し引揚者寮の一室で開業をしていた。
土浦にも行った。山本一家は大房の引揚者寮の中の桃源寮の一部屋に住んで、
おじいさんはここから東京に通って警視庁で外人相手の通訳の仕事をしておられた。このお仕事は都知事安井さんの世話ときいた。非番の日にはお茶の水にある大学予備校でも働いておられた。ここの引揚者寮にも開業医がいた。
無一文で開業の宛はなく、自力で就職する宛もない。山本のおじいさんが骨折ってくださり、松崎町《=静岡県伊豆》の佐藤弾さんの紹介で下田町の河井病院に就職することが出来た。ここは外科と耳鼻科とをご夫婦でやっておられ、私のために内科の診察室を新たに設けてくださった。弾さんはおじいさんの従兄で、院長ご夫婦のお父様と親しくしておられた。色々と無理な事があったろう、どなたにも大変な御思を受けている。
下田には私一人が先に行き母屋の一部屋を当てて下さった。何時ごろだったかはっきりしないが二月の末だったと思う、火鉢に火がいれてあった。間もなく病院に近い了仙寺横の貸家を借りてくださったので妻子四人の暮しになった、六、三、二畳の家だった。
父と幸子とはそのまま仁科にいて貰うつもりだったが、腎臓を悪くした典子が金沢から戻ってきて三人が下田に引越してきた。このあたりのいきさつは分からない。そのうち神戸からオオクン(長姉)が衰弱した光子の手を引いて連れてきた。このあたりのいきさつも分からない。
どこも困りきっていたときなので、しわ寄せは全部長男の身に掛かってきたのだろう。
一番苦労したのは三池子だ。狭い家に八人。舅《しゅうと》、小姑《こじゅうとめ》のそれも盲《めしい》と病人の二人がいる。収入は病院からの俸給だが、開いて間もない内科には患者さんは何人もない。切り売りする物はなく、配給の米などは麦に代え、金に替えた。五歳と三歳の子供を抱えて死に物狂いの毎日だったろう。七月には ななこが生まれた。
典子の手術は河井先生のおかげで、幸いに医師会の講演で下田に見えられた千葉大学の中山教授(河井先生の同期)に執刀《しっとう》して戴くことが出来た。河井先生は手術、入院の費用も請求してくださらず、「地獄で仏に会う」とは正にこの事である。父が弾さんからお借りしてきたお礼のお金を教授にだしたが、受け取ろうとはなさらず、私にこれの分は河井病院のために働いてくれと言われた。中山恒明教授は当時日本の外科の第一人者と言われている方だった。
典子は順調に快復して、後に河井先生のお父様のお世話で下田税務署に勤める事が出来た。三池子が頑張ってくれて光子も元気になり、ななこも栄養失調にもならず肥立《ひだつ=日がたつ》ってくれた。この間の苦労について三池子は何も言わない、どんなに辛かったことかと思う。
内科の患者さんが段々増えてきていた頃、九月に突然河井先生から西伊豆に村医の空いた所がでたので行かないかと言われた。有難いお話だが、私のために内科を開いてくださり、ようやく患者さんが増えてきているときに出て行くのは申し訳けないことと思った。それは構わないし行く方が良いと言われるのでご厚意に甘えることにした。当時郡医師会の副会長をしておられ、後任の推薦に有力だったのだろう。
加茂郡安艮里(アラリ)村は伊豆西海岸にある千人余りの漁村、土地の有力者の婿《むこ》さんが復員して開業していたのが急逝《きゅうせい=急に死去する》されたのだと言う。村有の村医住宅があって無料で貸してくれ、経営は自営で収入は全部自分のものになる。電話も村もちだったが後になって自分もちにしてくれといわれた。
診療所には前からの薬品が置いてあるので、これを買い取ることにして薬屋に値段を付けて貰った。支払いはすぐにではないので全くの無出費、借金無しに診療所を持つことが出来た。落ち着いた後に、父に「安艮里診療所」の表札を書いて頂き玄関に出した。
行くと決まると、すぐに赴任した。典子は仕事があるので父たちと下田に残り、家族五人が船で安艮里に行った。港に着いたとき、村のおかみさんたちが大勢ショィコを着けて迎えにきてくれていた。私たちの引越し荷物は布団の他は両手に持ったものだけ、村の人たちは何と思ったことだろうか。
昭和二十二年《1947年》~二十八年
二十一年十二月末佐世保に着き船内で足止めを受けて二週間目、年が明けて上陸、桟橋を下り、「日本の土」を踏みしめて収容所に入った。
初めは引揚船、栄豊丸の狭い船室から甲板に出ては、緑の濃い島々を眺め、ここが日本なのだと思いながらのじれったい毎日だった。一週間たって兵隊たちと分けられて別な船に乗り替え、この船で又一週間を過ごした。今度のアメリカの船は船倉《せんそう》が広く、天井も高く明るく、気持ちも和らいだ。私たちは医務室で診療を始めたので幾らか張りのある日々を送ることが出来た。正月には医務室の者は船長の招待を受け、久しくなかったご馳走にあずかった。
洋子の手を引いて、ここが日本なのだよと言いながら、日本の土を踏みしめた。上陸して更に一週間、隣の寮に入っている台湾からの引揚者がきれいな服装で、物も沢山持って明るくしていたのが、乞食《こじき》のような朝鮮組には非常な驚きだった。
父は疎開の用意が出来たところを東京の大空襲にあい、伊豆に行って暮らしていることは分かっていたので、沼津までの汽車の切符をもらい、南風崎《はえのさき=佐世保市》駅から引揚列車に乗った。初めの間はよかったが、途中からどんどん乗り込んでくる人で身動きもできないようになった。引揚者だけのゆっくりした道中などの甘い考えはふっとばされた思いをしたほかに、途中の記憶はない。三池子は下関で雲丹《うに》を買った覚えがあると言っている。
沼津に太郎彦君(三池子の弟)が迎えに来てくれていた。山本一家は皆無事に帰国し、土浦《=茨城県》の引揚者寮にいると言う。太郎彦君は城大在学中、学徒出陣《がくとしゅつじん=太平洋戦争下学生の徴兵猶予を停止し軍に入隊・出生させた》で海軍航空隊に入り台湾から復員し、丁度仁科《にしな=静岡県》にきていた。
長谷川一家は父と妹幸子とが仁科に居り、末妹典子は金沢の昭のところへ行っていた。
弟昭は和歌山の学校を辞めて金沢に移り結婚したという。長姉総子は、神戸で度々空襲に焼け出されながらも三人とも無事で、甲南病院の中に住んでいる。次姉保子一家は、北鮮平安北道《ピョンアンプット》安州から闇船で京城《ソウル》に出て、四人の子供も皆無事に連れて帰り、赤井の本籍地和歌山に住んでいる。妹の光子一家は、広島で泉蔵君が亡くなり、その後に原爆をうけた。子供三人無事で泉蔵君の家、浜寺に移ったあと、光子は浜辺で拾ってきた焚《た》き物の爆発で両眼を失明したと言う。子供らを浜寺に預け、自分は神戸で六さん(姉総子の亭主、眼科医)に面倒を見て貰っている。仁科は、伊山伯父様は亡くなられ、レイ伯母様がおられ、父は寺の離れをお借りしている。東京の家財のほとんどは送ることの出来ぬまま空襲で焼いてしまったので、売り喰いの材料もなく暮らしていた。
私たち四人は一月の末仁科に着いたが、この「家」にゆっくり骨を休める余裕はない。朝鮮を出るとき日本円を一人千円ずつ持って帰られたのだが、慌ただしい出発で現金をつくる暇はなかった。荷物はリュックに詰めたものだけ、帰国後の伊豆では朝鮮以上になけなしの売り喰いになる。
一日も早く収入の道を掴《つか》まねばならない。高周波の工場が東京北品川にあるので上京して千歳烏山《ちとせからすやま=東京世田谷区》の会社の寮に泊まり、元院長の高田さんや一緒に帰国した者たちと会社に交渉したが何も得るものはなかった。城津《ソンジン》では二万円余りの退職金の証書を渡されたが(その頃の月給は四百円位だった)、会社の資産は凍結された由で退職金は出ない。会社に就職のあてもない。
大学の内科教授の所に行った時には、田舎の食べ物の有るところにいるようにと言われた。戦後元の陸海軍病院が国立病院になり城大の教授は帰国後諸所で院長になっておられ、多数の城大関係者が就職していた。私の帰国したときはもう入り込む余地はなく、訪ねて行った久里浜《=神奈川県横須賀市》国立病院にも五人いた。
クラスの丹羽が横須賀に、宮田が逗子《ずし》に引揚げているので会いに行ったが仕事の宛は無い。丹羽はフィリッピンから復員し東京の病院勤務、宮田は平壌《ピョンヤン》から脱出し引揚者寮の一室で開業をしていた。
土浦にも行った。山本一家は大房の引揚者寮の中の桃源寮の一部屋に住んで、
おじいさんはここから東京に通って警視庁で外人相手の通訳の仕事をしておられた。このお仕事は都知事安井さんの世話ときいた。非番の日にはお茶の水にある大学予備校でも働いておられた。ここの引揚者寮にも開業医がいた。
無一文で開業の宛はなく、自力で就職する宛もない。山本のおじいさんが骨折ってくださり、松崎町《=静岡県伊豆》の佐藤弾さんの紹介で下田町の河井病院に就職することが出来た。ここは外科と耳鼻科とをご夫婦でやっておられ、私のために内科の診察室を新たに設けてくださった。弾さんはおじいさんの従兄で、院長ご夫婦のお父様と親しくしておられた。色々と無理な事があったろう、どなたにも大変な御思を受けている。
下田には私一人が先に行き母屋の一部屋を当てて下さった。何時ごろだったかはっきりしないが二月の末だったと思う、火鉢に火がいれてあった。間もなく病院に近い了仙寺横の貸家を借りてくださったので妻子四人の暮しになった、六、三、二畳の家だった。
父と幸子とはそのまま仁科にいて貰うつもりだったが、腎臓を悪くした典子が金沢から戻ってきて三人が下田に引越してきた。このあたりのいきさつは分からない。そのうち神戸からオオクン(長姉)が衰弱した光子の手を引いて連れてきた。このあたりのいきさつも分からない。
どこも困りきっていたときなので、しわ寄せは全部長男の身に掛かってきたのだろう。
一番苦労したのは三池子だ。狭い家に八人。舅《しゅうと》、小姑《こじゅうとめ》のそれも盲《めしい》と病人の二人がいる。収入は病院からの俸給だが、開いて間もない内科には患者さんは何人もない。切り売りする物はなく、配給の米などは麦に代え、金に替えた。五歳と三歳の子供を抱えて死に物狂いの毎日だったろう。七月には ななこが生まれた。
典子の手術は河井先生のおかげで、幸いに医師会の講演で下田に見えられた千葉大学の中山教授(河井先生の同期)に執刀《しっとう》して戴くことが出来た。河井先生は手術、入院の費用も請求してくださらず、「地獄で仏に会う」とは正にこの事である。父が弾さんからお借りしてきたお礼のお金を教授にだしたが、受け取ろうとはなさらず、私にこれの分は河井病院のために働いてくれと言われた。中山恒明教授は当時日本の外科の第一人者と言われている方だった。
典子は順調に快復して、後に河井先生のお父様のお世話で下田税務署に勤める事が出来た。三池子が頑張ってくれて光子も元気になり、ななこも栄養失調にもならず肥立《ひだつ=日がたつ》ってくれた。この間の苦労について三池子は何も言わない、どんなに辛かったことかと思う。
内科の患者さんが段々増えてきていた頃、九月に突然河井先生から西伊豆に村医の空いた所がでたので行かないかと言われた。有難いお話だが、私のために内科を開いてくださり、ようやく患者さんが増えてきているときに出て行くのは申し訳けないことと思った。それは構わないし行く方が良いと言われるのでご厚意に甘えることにした。当時郡医師会の副会長をしておられ、後任の推薦に有力だったのだろう。
加茂郡安艮里(アラリ)村は伊豆西海岸にある千人余りの漁村、土地の有力者の婿《むこ》さんが復員して開業していたのが急逝《きゅうせい=急に死去する》されたのだと言う。村有の村医住宅があって無料で貸してくれ、経営は自営で収入は全部自分のものになる。電話も村もちだったが後になって自分もちにしてくれといわれた。
診療所には前からの薬品が置いてあるので、これを買い取ることにして薬屋に値段を付けて貰った。支払いはすぐにではないので全くの無出費、借金無しに診療所を持つことが出来た。落ち着いた後に、父に「安艮里診療所」の表札を書いて頂き玄関に出した。
行くと決まると、すぐに赴任した。典子は仕事があるので父たちと下田に残り、家族五人が船で安艮里に行った。港に着いたとき、村のおかみさんたちが大勢ショィコを着けて迎えにきてくれていた。私たちの引越し荷物は布団の他は両手に持ったものだけ、村の人たちは何と思ったことだろうか。
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伊豆 下田 安良里《あらり》 その2
村医住宅は診察室、手術室、薬局、待合室のほか、六、十、七・半、十帖の畳の部屋と六帖の板の間、台所に風呂、便所が二か所、広々としすぎる。家財道具は何もないので、食事は六畳で蜜柑箱の上でとった。どの部屋にも何も置くものはない。
手術場は一番日当りがいいので、床板を張ってもらって診察室にし、薬局は元の診察室に移した。後日ここにレントゲンを置き、元の薬局は女中部屋に使った。父と光、幸、典の四人が下田から移って来て、奥の十帖と七帖半の二間をつかった。ここは病人を収容するための部屋だが、とうとう入院はなしで通した。
引越しの次の日に早速往診を頼まれ、腹痛が安良里《あらり=西伊豆》の第一号患者だった。
村には他に医師はいないのでいわゆる全科診療だが、お産と赤んぼとは困る。
北に一里《4キロメートル》の宇久須《うぐす》、南に一里の田子に古くからの開業医がおられ入院設備もある。もっと南の松崎町には何人もの開業医がいる。村人は随意診て貰いに行っていた。私も内科以外はそうして欲しいと話したが、診療所はよく繁盛した。
赤んぼは手におえぬが子供はなんとか相手をした。幸い大きな怪我《けが》人はなかったが、ちょっとした怪我などの縫合《ほうごう》、切開はやった。外科の本を見ながら、顎《あご》の脱臼《だっきゅう=骨の関節がはずれる》を整復したこともある。皮膚科も眼科も手におえそうなことはなんとかやってみた。特に眼科は六さん(義兄 信六 眼科医)に、結膜炎にトリパフラビンが効くと教えてもらったのでやってみると、よく治り、評判になったのか遠方からも患者さんがきた。東海岸に東大名誉教授の石原忍先生がおられるので、眼科の名医と間違えられたこともある。世の中は恐ろしいものだと思う。
患者さんは内科が主で、朝早くから来て玄関を開けるのを待っている。夜中だとて容赦《ようしゃ》しないし、休みの日に寝ている部屋まで入ってこられたこともある。帰国以来の窮乏《きゅうぼう=金や物が著しく不足する》生活から抜け出すにはやり抜かねばならない。父が薬局を手伝ってくださり、三池子は洋裁の看板を出した。初めの一、二年は無我夢中だった。
収入の目度がついたので、すぐに顕微鏡《けんびきょう》を買った。回虫による腹痛が多いので虫卵確認が必要だし、又虫垂炎《=俗にゆう盲腸炎》は白血球計算をして診断を決め早く外科に送らねばならぬし、一日も早くほしかった。次いでポータブルながらレントゲンを備え、ようやく内科らしい診療が出来るようになった。はっきりした記憶にないが二年後位の早い時期に思い切って購入した。
追々生活のゆとりが出来てきたので、洋子のためにオルガンを買った。年が開けて二十三年の小学一年生のときではなかったろうか。これは当時の唯一の名残になって八が岳の周光荘においてある。時には誰か弾《ひ》いてくれることもあろう。(コレハ間違イデ三池子ノ話デハ、オルガンヲ買ッタノハ土浦ニ行ッテカラダト言ウ。以下ニモコンナ思イ違イガ沢山アルカモシレナイガ、コノ儘ニ思イ出スママヲ書イテオク。)蓄音機とラジオを買ったのは何時ごろか、沼津に出たときに買ったゲルハルト・フィッシュのレコードはまだ捨ててはいないと思う。
二十四年夏、皆をおいて、帰国後初めて三池子と二人で旅行にでた。洋、周はオカンチャン(手伝いにきて貰っている土地の人、小田木かんさん)に頼み、ななこは土浦まで連れて行きオバアチャマに預かって頂いた。先祖、母の墓参りをし、二人の姉と弟とに会うためで、金沢、神戸、和歌山と回ってきた。
金沢の野田山の墓には戦前にも来たことはなく初めてのお参りである。弟の昭の嫁のふみと土田の御両親とに初対面をした。神戸には十七年に上京したときに寄っているので三池子は二度目の事になる。
和歌山の赤垣内《あかがいと》では、次姉の赤井定一一家に会ったが定一さんとはこの時が最後になった。
和歌山の帰りに奈良に一泊した。何故奈良にしたのか、朝鮮育ちは日本のことは分からないので、まず古い昔の姿に触れ、戦争で破壊されなかった日本の町に触れてみることから、「日本」を探していこうとした心づもりがあった為と思う。
帰国当初からなんとも周囲に違和感がある。引揚者と呼ばれ、住み着いてきた日本人=内地人とは違う異邦人《=異国人》だった。ヒキアゲシャは無一物の身ではあったが、戸惑うことはあっても、プライドは捨てないで通おしてきたと思っている。
二十五年、大阪の内科学会に戦後初めて参加した。洋子、周而を連れて行き、神戸で厄介になった。行きに沼津で特急に乗り、食堂車で昼の定食を食べさせるために、かなりな順番待ちをしたのを覚えている。
二十六年四月、東京で戦後二回目の医学総会に出席した。この時初めて城大の同窓会があり、続いて城七会(医学部第七回卒業)の第一回総会を銀座で開いた。宿をどうしたか覚えていないが、生活にかなりなゆとりが出来ていたのだろう。
二十三年四月に洋子、二十六年四月に周而が小学校入学。二十八年三喜誕生。二十八年に私も安良里を去って土浦に移ったが、その前までに妹たちは次々に村を出ていった。
一番初めに典子が東京に出て、郁さん(私の従兄弟)の所に世話になりタイプ学校に入学、幸子は二科の延命寺に手伝いに、光子は静岡盲学校に入学した。
父はゆとりができて来ると共に、東京、桐生、静岡などに出かけるようになり、謡《うたい》のお弟子さんが増えてきた。戦前からの東京の佐野巌先生のところに、自分も謡の稽古《けいこ》に行くようになって、ようやく張りのある生活に戻られた。
静岡のお弟子さんたちが奔走《ほんそう=駆け回って》されて、住宅難の時に静岡の県営住宅を借りて下さったので、幸子と引っ越して行った。ここが根拠になって光子は盲学校卒業後、敷地内に家を建ててマッサージを開業し、浜寺に面倒をみて貰っていた子供三人を引き取った。幸子は盲学校に就職して後日静岡の増田と結婚。典子はタイプ学校卒業後岡日興証券KKに就職し、父幸と三人で暮らし、後日、焼津の柴崎と結婚した。
二人の結婚式はどちらも父が取り仕切ってくださり、私たち二人は安良里から式に出席した。また七十七の祝いを興津《こうず》の水口屋でしたときも、父は一人で一切を運び、神戸の姉夫婦、和歌山の姉と子供らも出てきた。三喜はまだ生まれていなく、周而は土浦に行っていたので、洋、ななの二人を連れて安良里から出ていった。この後、姉二人は興津から安良里まで足を延ばしてくださった。
下田での暮らしは悪夢となって去り、幸せな日が帰ってきた。
私は、ゆっくり休む間の無い明け暮れを初めは夢中で働きつめていた。段々経済的なゆとりは出来てきて内科学、結核病学会に入り、学会には毎年行けるようになり、医学雑誌も毎月とっているが、村でただ一人の医師、語ル人ナキ寂シサと医学の進歩に取り残されそうな苛立《いらだち》ちとが年と共につのって来る。また、子供らが学校に通うようになり、ここの中学校に入れるのは先々が心配になる。
洋子は小学校五年になったとき父の所に預け、静岡の学校に転校させた。私自身も都市にでることを二十六、七年ごろから考えるようになっていた。静岡の鐘紡工場の医務の話があったので、大阪本社に行ってみたが病院ではないので止めにした。岩井先生から神奈川の農協病院の話があり、院長と農協役員とに会いに行ったが気が進まず断った。水戸の先にある病院の誘いは個人病院なので断った。
山本のおじいさんが、霞が浦《=茨城県》国立病院の伊藤院長に会ったとき、私が伊豆を出たいと言うことを話したことがあったようだ。二十八年の秋に副院長の伊東さんから誘いがきたので土浦に出ていき院長に会った。もとの城大第二内科教授で私を知っておられた。話は内科医が辞めるのですぐに来て欲しいこと、待遇は内科医員、報酬は今の三、四分の一位になることだった。勉強をしにいきたいので責任者になるのはこちらから断るつもりだし、収入が減るのも承知の上なので赴任する事にすぐ決めた。精神科の伊東さん、外科の妹尾さんは城大の先輩で城大では助教授をしていた。内科に私の後輩がおり、皮膚科も城大の助手だったという。各科が揃っており、旧知の人がいるので色々勉強出来るだろうと思った。
安良里に帰る途中、岩井先生を訪ね了解と推薦とをお願いした。
以上
村医住宅は診察室、手術室、薬局、待合室のほか、六、十、七・半、十帖の畳の部屋と六帖の板の間、台所に風呂、便所が二か所、広々としすぎる。家財道具は何もないので、食事は六畳で蜜柑箱の上でとった。どの部屋にも何も置くものはない。
手術場は一番日当りがいいので、床板を張ってもらって診察室にし、薬局は元の診察室に移した。後日ここにレントゲンを置き、元の薬局は女中部屋に使った。父と光、幸、典の四人が下田から移って来て、奥の十帖と七帖半の二間をつかった。ここは病人を収容するための部屋だが、とうとう入院はなしで通した。
引越しの次の日に早速往診を頼まれ、腹痛が安良里《あらり=西伊豆》の第一号患者だった。
村には他に医師はいないのでいわゆる全科診療だが、お産と赤んぼとは困る。
北に一里《4キロメートル》の宇久須《うぐす》、南に一里の田子に古くからの開業医がおられ入院設備もある。もっと南の松崎町には何人もの開業医がいる。村人は随意診て貰いに行っていた。私も内科以外はそうして欲しいと話したが、診療所はよく繁盛した。
赤んぼは手におえぬが子供はなんとか相手をした。幸い大きな怪我《けが》人はなかったが、ちょっとした怪我などの縫合《ほうごう》、切開はやった。外科の本を見ながら、顎《あご》の脱臼《だっきゅう=骨の関節がはずれる》を整復したこともある。皮膚科も眼科も手におえそうなことはなんとかやってみた。特に眼科は六さん(義兄 信六 眼科医)に、結膜炎にトリパフラビンが効くと教えてもらったのでやってみると、よく治り、評判になったのか遠方からも患者さんがきた。東海岸に東大名誉教授の石原忍先生がおられるので、眼科の名医と間違えられたこともある。世の中は恐ろしいものだと思う。
患者さんは内科が主で、朝早くから来て玄関を開けるのを待っている。夜中だとて容赦《ようしゃ》しないし、休みの日に寝ている部屋まで入ってこられたこともある。帰国以来の窮乏《きゅうぼう=金や物が著しく不足する》生活から抜け出すにはやり抜かねばならない。父が薬局を手伝ってくださり、三池子は洋裁の看板を出した。初めの一、二年は無我夢中だった。
収入の目度がついたので、すぐに顕微鏡《けんびきょう》を買った。回虫による腹痛が多いので虫卵確認が必要だし、又虫垂炎《=俗にゆう盲腸炎》は白血球計算をして診断を決め早く外科に送らねばならぬし、一日も早くほしかった。次いでポータブルながらレントゲンを備え、ようやく内科らしい診療が出来るようになった。はっきりした記憶にないが二年後位の早い時期に思い切って購入した。
追々生活のゆとりが出来てきたので、洋子のためにオルガンを買った。年が開けて二十三年の小学一年生のときではなかったろうか。これは当時の唯一の名残になって八が岳の周光荘においてある。時には誰か弾《ひ》いてくれることもあろう。(コレハ間違イデ三池子ノ話デハ、オルガンヲ買ッタノハ土浦ニ行ッテカラダト言ウ。以下ニモコンナ思イ違イガ沢山アルカモシレナイガ、コノ儘ニ思イ出スママヲ書イテオク。)蓄音機とラジオを買ったのは何時ごろか、沼津に出たときに買ったゲルハルト・フィッシュのレコードはまだ捨ててはいないと思う。
二十四年夏、皆をおいて、帰国後初めて三池子と二人で旅行にでた。洋、周はオカンチャン(手伝いにきて貰っている土地の人、小田木かんさん)に頼み、ななこは土浦まで連れて行きオバアチャマに預かって頂いた。先祖、母の墓参りをし、二人の姉と弟とに会うためで、金沢、神戸、和歌山と回ってきた。
金沢の野田山の墓には戦前にも来たことはなく初めてのお参りである。弟の昭の嫁のふみと土田の御両親とに初対面をした。神戸には十七年に上京したときに寄っているので三池子は二度目の事になる。
和歌山の赤垣内《あかがいと》では、次姉の赤井定一一家に会ったが定一さんとはこの時が最後になった。
和歌山の帰りに奈良に一泊した。何故奈良にしたのか、朝鮮育ちは日本のことは分からないので、まず古い昔の姿に触れ、戦争で破壊されなかった日本の町に触れてみることから、「日本」を探していこうとした心づもりがあった為と思う。
帰国当初からなんとも周囲に違和感がある。引揚者と呼ばれ、住み着いてきた日本人=内地人とは違う異邦人《=異国人》だった。ヒキアゲシャは無一物の身ではあったが、戸惑うことはあっても、プライドは捨てないで通おしてきたと思っている。
二十五年、大阪の内科学会に戦後初めて参加した。洋子、周而を連れて行き、神戸で厄介になった。行きに沼津で特急に乗り、食堂車で昼の定食を食べさせるために、かなりな順番待ちをしたのを覚えている。
二十六年四月、東京で戦後二回目の医学総会に出席した。この時初めて城大の同窓会があり、続いて城七会(医学部第七回卒業)の第一回総会を銀座で開いた。宿をどうしたか覚えていないが、生活にかなりなゆとりが出来ていたのだろう。
二十三年四月に洋子、二十六年四月に周而が小学校入学。二十八年三喜誕生。二十八年に私も安良里を去って土浦に移ったが、その前までに妹たちは次々に村を出ていった。
一番初めに典子が東京に出て、郁さん(私の従兄弟)の所に世話になりタイプ学校に入学、幸子は二科の延命寺に手伝いに、光子は静岡盲学校に入学した。
父はゆとりができて来ると共に、東京、桐生、静岡などに出かけるようになり、謡《うたい》のお弟子さんが増えてきた。戦前からの東京の佐野巌先生のところに、自分も謡の稽古《けいこ》に行くようになって、ようやく張りのある生活に戻られた。
静岡のお弟子さんたちが奔走《ほんそう=駆け回って》されて、住宅難の時に静岡の県営住宅を借りて下さったので、幸子と引っ越して行った。ここが根拠になって光子は盲学校卒業後、敷地内に家を建ててマッサージを開業し、浜寺に面倒をみて貰っていた子供三人を引き取った。幸子は盲学校に就職して後日静岡の増田と結婚。典子はタイプ学校卒業後岡日興証券KKに就職し、父幸と三人で暮らし、後日、焼津の柴崎と結婚した。
二人の結婚式はどちらも父が取り仕切ってくださり、私たち二人は安良里から式に出席した。また七十七の祝いを興津《こうず》の水口屋でしたときも、父は一人で一切を運び、神戸の姉夫婦、和歌山の姉と子供らも出てきた。三喜はまだ生まれていなく、周而は土浦に行っていたので、洋、ななの二人を連れて安良里から出ていった。この後、姉二人は興津から安良里まで足を延ばしてくださった。
下田での暮らしは悪夢となって去り、幸せな日が帰ってきた。
私は、ゆっくり休む間の無い明け暮れを初めは夢中で働きつめていた。段々経済的なゆとりは出来てきて内科学、結核病学会に入り、学会には毎年行けるようになり、医学雑誌も毎月とっているが、村でただ一人の医師、語ル人ナキ寂シサと医学の進歩に取り残されそうな苛立《いらだち》ちとが年と共につのって来る。また、子供らが学校に通うようになり、ここの中学校に入れるのは先々が心配になる。
洋子は小学校五年になったとき父の所に預け、静岡の学校に転校させた。私自身も都市にでることを二十六、七年ごろから考えるようになっていた。静岡の鐘紡工場の医務の話があったので、大阪本社に行ってみたが病院ではないので止めにした。岩井先生から神奈川の農協病院の話があり、院長と農協役員とに会いに行ったが気が進まず断った。水戸の先にある病院の誘いは個人病院なので断った。
山本のおじいさんが、霞が浦《=茨城県》国立病院の伊藤院長に会ったとき、私が伊豆を出たいと言うことを話したことがあったようだ。二十八年の秋に副院長の伊東さんから誘いがきたので土浦に出ていき院長に会った。もとの城大第二内科教授で私を知っておられた。話は内科医が辞めるのですぐに来て欲しいこと、待遇は内科医員、報酬は今の三、四分の一位になることだった。勉強をしにいきたいので責任者になるのはこちらから断るつもりだし、収入が減るのも承知の上なので赴任する事にすぐ決めた。精神科の伊東さん、外科の妹尾さんは城大の先輩で城大では助教授をしていた。内科に私の後輩がおり、皮膚科も城大の助手だったという。各科が揃っており、旧知の人がいるので色々勉強出来るだろうと思った。
安良里に帰る途中、岩井先生を訪ね了解と推薦とをお願いした。
以上
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編集者 (代理投稿)
HI0815
投稿数: 1
ホームページを本日はじめて拝見しました。9月25に書かれてた中に、尹泰東の名前がありましたが、それは私の外祖父《がいそふ》です。外祖父の尹泰東はここにも書かれている通り、東大卒後、京城《ソウル》帝大で一時期教鞭《きょうべん》をとったことがあると聞いています。「その後の行方がわからない」との記述がありますが、その後尹泰東は満州、間島省で民政局長を経て省長となりました。(その経緯はわかりません)。終戦後、間島から平壌《ピョンヤン》、そして実家のある忠州へと逃れてきたのですが、ソ連軍により中央アジアへ強制移住させられ、その後の行方が私たちにもわかりません。
私は外祖父に関わった方々がこうした形で歴史に残していただいていることをとてもありがたく思っております。『朝鮮生まれの引揚者の雑記』の著者である方のご家族にお会いする機会などございましたら、外祖父がその後どうなったかをお伝えしていただければ幸いです。
HI0815
私は外祖父に関わった方々がこうした形で歴史に残していただいていることをとてもありがたく思っております。『朝鮮生まれの引揚者の雑記』の著者である方のご家族にお会いする機会などございましたら、外祖父がその後どうなったかをお伝えしていただければ幸いです。
HI0815