特攻インタビュー(第3回) ・その22
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編集者
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海軍航空特攻 江名武彦 氏
◆特攻とは何であったか
--------江名さんが戦場に出られた頃は、特攻が当たり前のようになっていて、それが終戦ま続いたわけですけど、特攻作戦が行われた背景というものについて、江名さんは何かお考えがありますか?
江名‥非常に難しいご質問ですけど。先程ちょっと申しましたように、ミッドウェイから、昭和17年6月から連戦連敗ですよね。それで当時のベテランの搭乗員が昭和18年になると、ほとんどゼロになりました。
そこで、海軍は慌てて予科練の大量募集。予科練の甲13期は2万人採ってるんですよ。予備学生は13期で5千名、14期で3千名でした。それだけの機材や燃料をどうしようと思って集めたのか分かりませんけどね。必要だったでしょうけど、残念ながら機材もないし燃料もないから、戦場に出るだけの技量も備えぬまま特攻戦死しました。
先程申しましたように、昭和19年6月ですか、マリアナ沖海戦では373機のうち350機以上が落とされて、しかも戦果ゼロなんですね。一応なけなしのパイロット、300時間以上の訓練を受けたパイロット達を集めて新鋭機で攻撃に行って壊滅なんですよ。
その前に「回天」とか「桜花」は計画されていましたから、別の次元で、特攻作戦を海軍は研究した訳ですけども。その頃、現地部隊では攻撃に行きましても、特に艦攻、艦爆なんていうのは全機落とされましたので、現地でも特攻作戦の考え方が起きましたし、大本営も"外道の作戦″をやらざるを得ないところまで追い込まれたと私は思います。通常攻撃で撃ち落されてしまうなら、爆弾を抱えての特攻の方が、まだ戦果があるんじゃないかという発想だったと思います。特攻は人員、機材がいずれトータル・ロスとなり、作戦とは言えませんが。
--------江名さんは、特攻作戦の第一線に立たされた、まさにそういう世代にめぐり合ったわけですが、江名さんにとって特攻とは何か。例えば今振り返って、ご自分の特攻体験がその後の人生に影響を与えたことはありますか。
江名‥そうですね、それは人さまざまだと思います。戦後、特攻に対する考え方はいろいろで、相当、幅がありますね。私の場合は、やはり日本という共同体(ゲマインシャフト)の中に住んでて、学徒として徴兵猶予の恩典まで与えられて戦争の最中、学業を続けられた。それで、私達の小学生の幼なじみはもう戦場に行き、戦死してるんです。そこにね「ノーブレス・オブリージエ」 ですか。与えられた特権に対しては義務と責任があると。この国がまさに滅びようとする時に、やはりその特権を与えられた我々は、まあ悔しいけれども、自己犠牲……自己犠牲する事を苦しいけど自分自身に納得させて、柩となる自分の飛行機に乗るという考え方を私ども14期予備学生は共有しました。
外道の作戦とはいえ、危急存亡の時に若者がそういう気持ちになっておりました。特攻戦死した戦友のことを思うと辛くて、彼らの鎮魂・慰霊に一生尽さなきやいけないという気持ちが強いんですよね。非道な、やってはいけない作戦でしたが、予科練の若い人達も含めまして、特攻の命令に対して自己犠牲で応じたことに、ただただ、もう頭が下がるばかりです。だから、特攻隊負っていうのは、基地を飛び立って、それで還ってこない人が真の特攻隊員だと思います。私のように還ってきた者が"特攻隊員″と名乗るのは、ちょっと借越だと思いますね。私は特攻隊員じゃないんです。特攻隊員って言うのは、やはり基地を飛び立って還ってこない戦友のことを、私は言うべきだと思うんですね。