続 表参道が燃えた日 (抜粋)
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- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 編集後記 (編集者, 2011/10/30 7:04)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録14 (編集者, 2011/10/29 6:57)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録13 (編集者, 2011/10/28 7:26)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録12 (編集者, 2011/10/27 7:55)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録11 (編集者, 2011/10/26 7:07)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録10 (編集者, 2011/10/25 6:43)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録9 (編集者, 2011/10/24 6:46)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録8 (編集者, 2011/10/23 7:42)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録7 (編集者, 2011/10/22 7:49)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録6 (編集者, 2011/10/21 11:32)
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編集後記
六十五年も経ってからの戦災体験記づくりに疑問を呈するかたがおられます。けれども六十五年経ったからこそ語れるかたもおられるし、それでもまだ語れないかたもおられます。記憶も薄れてきましたけれども、決して忘れることのできない強烈な記憶があります。戦災の記憶を記録にしたいと、昨秋、「表参道が燃えた日」の続編の企画をたてました。
次から次へと執筆して下さるかたが増え、字数制限をしたことが申訳ないようにあれもこれも書き残したいということで、完成が遅れましたがいい体験集ができました。
付録に「五月二十五日の空襲について」と「仮埋葬」についての資料を加えました。五月二十五日の空襲がどの範囲のものだったのかご存じないかたが多いことと、また、未だに行方不明になった家族や知人を案じておられるかたのために参考資料としました。
どこの国と戦争をしたか知らない、華やかな表参道に死体がいっぱいだったなんて「ウッソー」と思われる若い人たちにぜひ読んでいただきたい、再び愚かな殺戦の戦争を繰り返さないために、と思います。
三月十一日、東日本に末曽有の震災が発生しました。津波が去った荒涼とした光景は戦災で灰燼となった光景と重なります。震災は天災、戦災は人間がおこしたものです。天災も 「想定外」といわず、ある程度人間が防御できるものですし、ましてや戦災は人間が克服できるものと信じます。
終わりに、穂積和夫様には今回も挿絵を描いていただいたことを感謝いたします。また、戦時中の貴重な写真を提供いただいたかたがたにお礼を申し上げます。
編集委員会は児玉昭太郎氏が病没し、榎本新一氏が高齢のため勇退されましたので、泉宏氏に新たに加わっていただきました。
二〇一一年五月
「表参道が燃えた日」 編集委員会
編集委員 (五十音順) 泉 宏
谷 美和子
長崎美代子
比留間相子
増間 加代
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参考資料
「東京大空襲・戦災誌」第一~第五巻「東京大空襲・戦災誌」編集委員全編(一九七五)同委員会
「東京都戦災誌」(復刻版)東京都編集(二〇〇五)明元社
「東京大空襲の記録」東京空襲を記録する会(八刷一九九五)三省堂
「日本の空襲」一~十補巻(資料篇)日本の空襲編集委員会(一九八一)三省堂
「図説 東京大空襲」早乙女勝元(二刷二〇〇七)河出書房新社
「新版東京を爆撃せよ」-米軍作戦任務報告書は語る-奥住喜重・早乙女勝元(二〇〇七)三省堂
「戦災挟死者改葬事業始末記」関係者座談会 東京都慰霊協会(昭和五十七)非売品
「新修 港区史」 (昭和五十四)港区
「写された港区一~四、抄」(一九八一~一九九三)港区立みなと図書館
「港区史跡散歩」俵元昭(昭和五十三)学生社
「港区の歴史」東京ふるさと文庫 俵元昭(昭和五十四)名著出版
「新修 渋谷区史 下巻」 (昭和四十一)渋谷区
「渋谷区の歴史」東京ふるさと文庫 林陸郎ほか(昭和五十三)名著出版
「渋谷区史跡散歩」東京史跡ガイド 佐藤昇(一九九二)学生社
「語りつぐ平和の願い」新宿区平和都市宣言五周年記念誌(一九九二)新宿区
「戦災の跡をたずねてー東京を歩く」長崎誠三(一九九八)アグネ技術センター
「明治神官戦後復興の軌跡」 (平成二十)明治神官社務所
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昭和18(1943) つづき
4. 13 山本五十六連合艦隊司令長官戦死
5. 29 アッツ島の日本守備隊玉砕
9. 8 イタリア無条件降伏
10. 21 神宮外苑で出陣学徒壮行会
昭和19(1944)
6. 6 連合軍ノルマンディーに上陸
6. 19 マリアナ沖海戦で日本制海権を失う
7. 18 サイパン陥落。東条内閣総辞職
7. 22 小磯・米内協力内閣成立
8. 3 テニアン島の守備隊玉砕
8. 11 グアム島の守備隊玉砕
10. 23 レイテ沖海戦、「武蔵」はじめ多くの艦船を失う
10 26 フィリピン沖海戦で神風特攻隊、初出撃
11. 24 B29東京への本格的空襲始まる
昭和20(1945)
2. 4 米英ソ、ヤルタ会談(~11日)対日処理を協定
3. 10 B29東京下町を大空襲
3. 22 硫黄島守備隊、1か月の死闘の末玉砕
4. 1 米軍、沖縄本島に上陸開始
4. 5 小磯内閣総辞職、鈴木貫太郎内閣となる
5. 7 ドイツ、連合国に無条件降伏
5. 25 東京山の手大空襲。東京区部の大半が焦土化
6. 6 天皇臨席の最高戦争指導会議、本土決戦方針決定
6. 11 国民義勇兵役法成立。義勇隊結成のため大政翼賛会
その傘下団体および大日本婦人会解散
6. 23 沖縄守備軍全滅
7. 17 米英ソ、戦後処理についてポツダム会談(~8.2)
7. 26 米英ソ華、ポツダム宣言を発表
8. 6 米空軍、広島に原子爆弾投下
8. 9 米空軍、長崎に原子爆弾投下。ソ連対日参戦、満州に侵入
8. 14 日本、ポツダム宣言を受諾
8. 15 天皇、終戦の詔勅放送。鈴木内閣総辞職
9. 2 ミズーリ艦上で降伏文書調印
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略年表(昭和11年~20年)その1
昭和11(1936) 2・26 皇道派青年将校らによるクーデター(2・26事件)
昭和12(1937) 6.4 近衛文麿内閣発足
7.7 盧溝橋で衝突、日中戦争始まる
12.13 日本軍、南京占領
昭和13(1938) 4.1 国家総動員法公布
10.27 日本軍、武漢を占領
昭和14(1939) 5.12 ノモンハン事件起こる
8.28 独ソ不可侵条約締結
9. 1 独軍ポーランド侵入、第二次世界大戦始まる
昭和15(1940) 6.22 フランス、ドイツに降伏
8.1 近衛内閣、「大東亜共栄圏」を唱える
9.27 日独伊三国同盟条約調印
10.12 大政翼賛会発会
昭和16(1941) 4.13 日ソ中立条約成立
4.16 米、日米了解案を提示(日米交渉開始)
7.28 日本軍、南部仏印に進駐
8. 1 米、日本への石油輸出を禁止
10.18 東条英機内閣成立
11.22 国民勤労報国協力令公布
11.26 米ハル長官、日本の最終案を拒否し、新提案
12. 8 日本軍真珠湾を奇襲、太平洋戦争始まる。
日本軍、マレー半島進攻、米英蘭に宣戦
昭和17(1942) 1.2 日本軍マニラ占領
1.9 学徒勤労動員始まる
2.15 日本軍、シンガポールを占領
3.8 日本軍、ラングーンを占領
4.18 米軍機、東京・名古屋・神戸などを初空襲
6.4 ミッドウェー海戦で日本軍大損害(~7)
8.7 米軍ガダルカナル島に上陸開始
昭和18(1943) 2.1 日本軍ガダルカナル島撤退開始
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東京空襲のあらまし
東京への米軍の初空襲は、昭和十七年四月十八日のドゥリットル爆撃隊長のB25中型爆撃機による空襲である。B25はミッドウェイ島沖の空母ホーネットから十六機が飛び立ち日本上空に侵入、東京のほか川崎、横須賀、名古屋、神戸を爆撃した。その後約二年半、米軍機は東京には姿を見せなかった。
本格的に空襲が始まったのは昭和十九年十一月二十四日からである。米軍は十九年七月にサイパン島を占領すると、サイパン、テニヤン、グアム島の飛行場からB29が飛び立った。二十年二月までは主として軍需工場に対して、昼間、約一万メートルの高々度から、目視による精密爆撃であった。軍需工場の上空が雲に蔽われている目には、市街地に無差別爆撃を行った。焼夷弾爆撃も増えてきて、二月中旬には航空母艦からの艦上機が大量に襲来し、機銃掃射をした。三月から五月にかけては夜間超低空のB29よる焼夷弾無差別攻撃。終戦までの東京周辺のB29よる爆撃、艦上機、P51どによる機銃掃射による攻撃が特徴である。
東京大空襲
一般に「東京大空襲」というと、二十年三月十日の下町への空襲を指す場合が多い。被害の大きさが東京の空襲を代表しているという意味でもある。三月十日午前零時八分に始まったB29百三十四機による二時間半にわたる無差別絨毯爆撃(焼夷弾一六六五トン)で、下町全域は焦土と化し、死者は十万人を超えた。
大戦中、二日の死者が十万人というのは広島に次ぐもので、世界にも例がない。
世界の無差別爆撃による死者数(概算)を示すと、
一九三七年四月 ドイツ軍によるスペイン・ゲルニカ空爆 二千人
一九三八年二月~四三年八月 日本軍による中国・重慶空爆 二万人
一九四〇年九月~十一月 ドイツ軍によるイギリス・ロンドン空爆 四万人
一九四五年二月 米英軍によるドイツ・ドレスデン空爆 三万五千人
三月十日の空襲を指揮したカーチス・ルメイ司令官は、東京以外の都市にも、にも関与した。戦後日本の自衛隊の育成に尽力したという理由で、日本政府から勲一等旭日大綬章が授与された。
二千人二万人四万人三万五千人また広島、長崎の原爆投下にも関与した。戦後日本の自衛隊の育成に尽力したという理由で、日本政府から勲一等旭日大綬章が授与された。
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東京の空襲
戦争への道
日清(明治二十七、八年)、日露(明治三十七、八年) の戦争によって、日本はアジアへの侵出に大きく踏み出した。明治二十八(一八九五)年、台湾を清国より割譲、明治四十三(一九一〇)年、韓国を併合。日本は中国東北部(南満州)の利権をロシアから譲り受け、関東軍を配置した。
第一次世界大戦(大正三~七(一九一四~一九一八)年)に、日本は連合国側として参戦し、対支二十一か条要求を出して、武力によって実現させようとしたのが満州事変(昭和六(一九三一)年)である。昭和七年、日本の傀儡(かいらい)国家満州国が成立。
満州を足場にして領土拡大を図る日本は、十五年戦争の時代に入る。日本では二・二六事件(昭和十一年)が起こり、軍部の政治支配力は著しく強化された。昭和十二年七月七日、虚構橋事件が起き、日中戦争(当時日本側は支那事変といった。日支事変ともいう。「支那」という呼称を日本は第二次世界大戦末まで使う)が始まる。昭和十二年十二月、南京占領、蒋介石率いる国民政府は臨時首都を重慶に移し、中国共産党と抗日民族統一戦線を結成する。
日中戦争が泥沼化すると、日本は豊富な資源をもつ南方進出を計画する。日独伊の三国同盟を結び、東南アジアの仏領、英領、蘭(オランダ)領の植民地への侵攻が始まる。日本の勢力圏拡張の構想はアメリカとも対立することになる。
昭和十五(一九四〇)年九月、仏領インドシナ北部に進駐。十六年四月から日米交渉が始まり、アメリカは日本軍の中国からの撤退を要求、南方への進出を認めなかったが、日本はその年の七月に仏領インドシナ南部にも進駐、アメリカは日本への石油の輸出を禁止。十一月五日の御前会議で英米蘭との戦争を決意、その時期を十二月初頭と決めていた日本の陸海軍は、作戦準備に入っていた。十一月二十六日にアメリカ国務長官ハルが提示した「ハル・ノート」では日本側の拒否回答に対し新提案もしているが、日本側はアメリカの最後通牒とみなして太平洋戦争 (日本政府は大東亜戦争と呼び支那事変も含むとした)に突入した。
十二月八日、日本時間午前二時、英領マレー半島侵攻、三時十九分真珠湾を奇襲、米・英・蘭に宣戦。
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遺体の行方-仮埋葬から慰霊堂へー その2
仮埋葬
戦災で亡くなったかたの遺体で引き取られたもの、現場で火葬したものを除いた遺体は仮埋葬された。氏名が判別できる遺体は個別に埋葬し、身元がわからない遺体は六尺の穴の中に約三十体を何層にも重ねて合葬した。仮埋葬された遺体数は統計によって異なるが、東京区部全体で一三〇か所、遺体数は八万一六四体、遺体数は頭蓋骨から調べた。場所は都立の公園、学校、広場、民有地の寺院など。区外の多摩、八柱都営墓地や多摩の奥地の山林などに埋められたという話も聞く。管理は都公園課霊園係が行った。混乱のなか、無断で埋葬し、仮埋葬ではなく、埋められたままになった遺体も多いのではないだろうか。
改葬、遺骨の処理
仮埋葬された屍体は昭和二十三年から三年間にわたり発掘された。発掘は冬季間の十二月から三月まで、周囲に大きな幕を張って人目を避けて行われた。作業に従事する人は日雇い人夫であり、動員された囚人などであった。
掘り上げられた屍体はそれぞれの火葬場に送られ改葬された。
名前の判明している屍体は個別に火葬して個別の白木の骨箱に納められ、判明していない屍体はまとめて火葬をし、埋葬地別にして焼骨を大きな骨壷一つに二百体ぐらい、全部で約四百五十個の骨壷に納められ慰霊堂に移された(末尾表参照)。
東京都慰霊堂と「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」
墨田区の都立横網町公園の中に東京都慰霊堂がある。この公園は、関東大震災の時に多くの人が焼死した被服廠の跡地である。東京都は震災遭難者の遺骨を納めるために震災記念堂を公園内に作った。戦後、東京大空襲により仮埋葬され改葬された約十万五千人の遺骨を震災記念堂の後室に安置することになり、昭和二十六年九月、名称を東京都慰霊堂と改めた。毎年九月一日と三月十日に慰霊大法要が行われている。
平成十三年三月、「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」が公園内に建立された。碑の周り斜面は花で覆われ、内部には東京空襲犠牲者名簿が納められている。ただし名簿はケースの中に置かれ、中を見ることはできない。
東京空襲犠牲者名簿の作成
平成十一年度から東京都は名簿の作成を始めた。しかし広く都民に呼びかけるのではないので、慰霊堂を訪れた人、知人から聞いた遺族にしか知ることができない。
「東京空襲犠牲者名簿登載申出書」は横網町公園事務所、または東京都生活文化スポーツ局文化振興部文化事業課で取扱っている。すでに七万八千八百六十八名が登録されているという。申出書に記入し提出すれば登載されるが、知人が登載されているか調べたくても見せてはくれない。
この名簿は三月十日の空襲犠牲者に限らず、東京全域での空襲犠牲者を対象にしている。
遺骨の引取り
遺骨を骨壷に納めた昭和二十六年頃から、身元が判明している七千三百八十六人(東京都戦災誌)の遺族に通知をし、引取りを望む人には引渡しをしている。
身元判明者の遺骨名簿は、慰霊堂内の復興記念館事務所に事前に連絡すれば閲覧はできる。
また、氏名が不明で合葬された遺骨についても、希望する場合には分骨している。
身元判明者で、その後遺族に引取られたのは約半数で、三千七百五十一人(平成十八年現在)がまだ慰霊堂に置かれている。さらに名前さえわからない多くの白骨が眠っている。(現在時点で何人引取られたか確認できなかった)。
慰霊堂に集められただけでもこれだけ膨大な数とすると、戦災による死者は、実際はどの調査よりもはるかに多い数だったのではないか、山の手地域でも、と思う。
戦後、国も東京都も空襲犠牲者の調査をしてこなかった。沖縄、広島のような刻銘碑もない、戦災都市にあるような平和館も記念館も、最も空襲犠牲者の多かった首都東京には何もない。かって東京都平和祈念館の建設を財政難を理由に中止した時、その時集められた三百三十人の証言ビデオがそのまま今も封印されているということを最近知った。戦災の記録は広く伝えるべきものである。そして無念の死を遂げた多くの犠牲者の叫びを受け止めるのは、生き残ったもの、あとを継ぐものの責任ではないだろうか。
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遺体の行方-仮埋葬から慰霊堂へー その1
昨年暮れ、戦時中青山北町に住んでいたという男性の訪問を受けた。昭和二十年五月、このかたはまだ小学生で、父親を残して能登半島に縁故疎開していたそうだ。父親は青山車庫で働いていたが、空襲のとき表参道の銀行の方へ行くのを職場の同僚が見ている。そのまま行方不明になった。母親が探しに上京したのは二か月後で、隣組の人の話でもわからないということだった。母親は多くを語ることなくやがて亡くなった。ご本人は父親は銀行前で亡くなったと思い、近くの善光寺に時々栃木からお参りに来ているという。横網町の慰霊堂のことも、空襲犠牲者名簿のことも何もご存じなかった。当時子どもだった人、東京から離れて情報が入らなかったこのような人たちは、今でも大勢おられることと思う。
五月二十五日から二十六日にかけての空襲で、青山、原宿の表参道周辺では多くの人が火炎に巻かれ亡くなった。翌朝、身元が識別できるような遺体は道路に並べられたが、銀行前に山と積まれた遺体や道路や防空壕の焼死体は、軍のトラックが来て、荷台にシャベルで投げ込まれ、青山車庫(一時的)や青山墓地などに運ばれた。探し回っている遺族がこれから見にくるかもしれないのに、早々とまるでゴミを片付けるかのような扱いだった。仮埋葬地は赤坂区では青山墓地、渋谷区では大山公園が主なようだったが、寺院などでも手厚く埋葬した所があったようだ。
当時、赤坂区田町にあった成満寺(じょうまんじ)では、五月二十四日と二十五日の空襲の後、近所で収容された焼死体が境内に運び込まれた。検分に見えた遺族も何人かおられたが結局無縁仏になった遺体何体かを地中に埋葬し、墓石を積み石碑を建てた。成満寺が昭和三十七年に聖蹟桜ケ丘に移転する時には、墓地を掘り数十体土葬骨とともに運んだ。何名かの方々からお申し出もあったが、それから三十年以上を経て、平成になって改めてまとめて納骨し、永代供養しているという。
青山墓地 (現港区南青山二丁目)
正式には都立青山霊園という。面積二十六万平方メートルある敷地の南東のはずれに仮埋葬地があったといわれる。その跡地には昭和三十二年に都立高校が建てられた。青山墓地が自宅から見える所に戦時中から住んでいる人の話では、三月十日の空襲直後から遺体が運ばれてくるようになった、遺体を北側を頭にして並べているのを見たという。最近、霊園事務所の人に聞いたが、仮埋葬など聞いたこともないし、記録もないといわれた。
東京都編集の「東京都戦災誌」によると、青山墓地には当時の京橋、神田、大森、四谷、麻布、赤坂、目黒、芝、淀橋の各区内で発生した遺体を仮埋葬したとある。
大山公園(現渋谷区西原二丁目)
当時の都立公園で、渋谷区内で発生し引き取り先のない遺体を仮埋葬した。六十五年後の今、訪ねてみると、公園入り口近くには大木があり奥に野球場がある。多分その一画ではないかと想像した。事務所の人に聞いてももちろん何もわからない。