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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録7

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録7

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/10/22 7:49
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 遺体の行方-仮埋葬から慰霊堂へー その2


 仮埋葬

 戦災で亡くなったかたの遺体で引き取られたもの、現場で火葬したものを除いた遺体は仮埋葬された。氏名が判別できる遺体は個別に埋葬し、身元がわからない遺体は六尺の穴の中に約三十体を何層にも重ねて合葬した。仮埋葬された遺体数は統計によって異なるが、東京区部全体で一三〇か所、遺体数は八万一六四体、遺体数は頭蓋骨から調べた。場所は都立の公園、学校、広場、民有地の寺院など。区外の多摩、八柱都営墓地や多摩の奥地の山林などに埋められたという話も聞く。管理は都公園課霊園係が行った。混乱のなか、無断で埋葬し、仮埋葬ではなく、埋められたままになった遺体も多いのではないだろうか。


 改葬、遺骨の処理

 仮埋葬された屍体は昭和二十三年から三年間にわたり発掘された。発掘は冬季間の十二月から三月まで、周囲に大きな幕を張って人目を避けて行われた。作業に従事する人は日雇い人夫であり、動員された囚人などであった。

 掘り上げられた屍体はそれぞれの火葬場に送られ改葬された。
名前の判明している屍体は個別に火葬して個別の白木の骨箱に納められ、判明していない屍体はまとめて火葬をし、埋葬地別にして焼骨を大きな骨壷一つに二百体ぐらい、全部で約四百五十個の骨壷に納められ慰霊堂に移された(末尾表参照)。


 東京都慰霊堂と「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」

 墨田区の都立横網町公園の中に東京都慰霊堂がある。この公園は、関東大震災の時に多くの人が焼死した被服廠の跡地である。東京都は震災遭難者の遺骨を納めるために震災記念堂を公園内に作った。戦後、東京大空襲により仮埋葬され改葬された約十万五千人の遺骨を震災記念堂の後室に安置することになり、昭和二十六年九月、名称を東京都慰霊堂と改めた。毎年九月一日と三月十日に慰霊大法要が行われている。
 平成十三年三月、「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」が公園内に建立された。碑の周り斜面は花で覆われ、内部には東京空襲犠牲者名簿が納められている。ただし名簿はケースの中に置かれ、中を見ることはできない。


 東京空襲犠牲者名簿の作成

 平成十一年度から東京都は名簿の作成を始めた。しかし広く都民に呼びかけるのではないので、慰霊堂を訪れた人、知人から聞いた遺族にしか知ることができない。
 「東京空襲犠牲者名簿登載申出書」は横網町公園事務所、または東京都生活文化スポーツ局文化振興部文化事業課で取扱っている。すでに七万八千八百六十八名が登録されているという。申出書に記入し提出すれば登載されるが、知人が登載されているか調べたくても見せてはくれない。
 この名簿は三月十日の空襲犠牲者に限らず、東京全域での空襲犠牲者を対象にしている。


 遺骨の引取り

 遺骨を骨壷に納めた昭和二十六年頃から、身元が判明している七千三百八十六人(東京都戦災誌)の遺族に通知をし、引取りを望む人には引渡しをしている。
 身元判明者の遺骨名簿は、慰霊堂内の復興記念館事務所に事前に連絡すれば閲覧はできる。
 また、氏名が不明で合葬された遺骨についても、希望する場合には分骨している。
 身元判明者で、その後遺族に引取られたのは約半数で、三千七百五十一人(平成十八年現在)がまだ慰霊堂に置かれている。さらに名前さえわからない多くの白骨が眠っている。(現在時点で何人引取られたか確認できなかった)。
 慰霊堂に集められただけでもこれだけ膨大な数とすると、戦災による死者は、実際はどの調査よりもはるかに多い数だったのではないか、山の手地域でも、と思う。


 戦後、国も東京都も空襲犠牲者の調査をしてこなかった。沖縄、広島のような刻銘碑もない、戦災都市にあるような平和館も記念館も、最も空襲犠牲者の多かった首都東京には何もない。かって東京都平和祈念館の建設を財政難を理由に中止した時、その時集められた三百三十人の証言ビデオがそのまま今も封印されているということを最近知った。戦災の記録は広く伝えるべきものである。そして無念の死を遂げた多くの犠牲者の叫びを受け止めるのは、生き残ったもの、あとを継ぐものの責任ではないだろうか。

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