@





       
ENGLISH
In preparation
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
ログイン

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失

輸送船勝鬨丸の最後 高崎 廣

  • このフォーラムに新しいトピックを立てることはできません
  • このフォーラムではゲスト投稿が禁止されています

投稿ツリー


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2011/8/9 6:49
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 はじめに

 スタッフより
  
 この投稿の掲載につきましては、高崎 廣様のご家族のご承諾を頂戴しております。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 輸送船勝鬨丸の最後

 近衛歩兵三聯隊十中隊
 高 崎  廣

 昭和十九年六月十六日、分隊長堀篭但馬軍曹は昭和十五年出征以来、南支、彿印、シンガポール攻略、スマトラそしてこの印度洋アンダマン諸島と歴戦の勇士も病魔には勝てず、看護の効なく、病院の窓から河西大艇、(四発機)が着くのを見るたび「あれに乗って帰りたい」と云って居りましたか、ポートプレーアーの野戦病院の隔離病棟で亡くなり最后を看とる。通常ならば古年次兵に命ぜられるのが病院長から私か良く看護したとの報告に依ったと思われるのですが遺骨を宰領してシンガポール迄行く様に命ぜられる。出発直前に清水晋作氏の死亡の報入る。アンダマン在駐の各獨立大隊より一名宛計三名から成る遺骨宰領者は各人十二柱を奉じてポートプレーアーを昭和十九年八月出港す。本船には戦況の緊迫により慰安所従業婦等もシンガポール方面に引き揚げるために各部隊将校等の見送り殊の外に盛大なり。若い将校さんから乗船する慰安婦にラブレターを渡して呉れと頼まれたのにはその純心さに驚かされた。

 約一週間の航海は何事もなくシンガポール到着後は遺骨は東本願寺に安置され供養を受ける。サイパン陥落の報至る。シンガポール兵站宿舎に入るも離島から来た者には特に優遇されてる様子なり。又各地より多数の新兵か来るも大分「ボカチン」を喰った者が多いように見受けられる。食事時に食堂に入ると大きな飯櫃が御飯を山盛りして机の上に置かれて居り自由に取って艮いとの事、アンダマンから僅かな距離の所で此れほどにも違うものかと食糧不足に悩む戦友を思い感無量である。

 シンガポール待機中に色々と私物情報が入るサイパンは陥落したが四発の陸上飛行機が五百機で飛来して此れから總反撃に転ずる等々嘘をつけと云ひたくなる。何んで一、二時間の飛行距離のアンダマンに一機も居ないのだ我々が苦労して作った滑走路があるのに、せめても輸送船が入る時丈でも来て呉れたら、夜間の揚陸作業しか出来なくて、目の前で冷凍野菜を積んだ船か敵潜水艦に沈められるくやしさ、飛行掩護かできないのだ。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/10 6:17
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 愈々当時としては最高の護衛艦、タンカー船、貨客船十二隻からなる最高八ノットの船団七七二号は堂々の出港をしました。九州都城出身の武田軍曹が我等八名の長となる。彼はシンガポール暁部隊から来るも宿舎が近くの島にあり通勤する。現地人の下男、女中を使って居たとの事。我等にとっては夢物語なり。行李の私物を五ケも六ケも積込む何たる矛盾。我等が乗船した船は一万五百頓の貨客船「勝鬨丸」と云い開戦時に揚子江にて拿捕された英国籍の貨客船で此れを追跡座礁させた管船長はその快挙にて有名になりましたが終戦直前に東京湾外にて乗船して居た獨逸戦艦の艦長を接触された米潜水艦に引渡しその責任を感じ見事自決されたのでした。

 シンガポール出港前に遺骨は全部上甲板の部屋に安置され東本願寺の僧侶の読経を受ける。出港后白木の箱は六作宛を細引きにゆわきその上に救命胴衣を結びつけ各人は六作宛を両脇に抱えていざの場合は海に飛び込む事とした、一人で十二体を護るのです。出港時本船の輸送指揮官の訓示によれば本船は必ず沈むもの故に各人はその覚悟をする様との事、時昭和十九年九月六日午前六時三十分、サイパンは既に陥落し、台湾沖航空機で惨敗を喫した直後でした。始めの一週間ほどは護衛機は無かったのですが何事も無く順調な航海を続けました。九月十一日午前九時一〇分、マニラからの船団マモ〇三号、吉備津丸三隻と合流し遂に二十杯の大船団となりました。吉備津丸は砲を備えた新鋭船でフィリピンのダパオからの最后の引揚げ船で婦女子が一杯乗って居りました。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/11 8:02
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
 翌十二日船団は快速で海南島東方航行中に果然敵潜水艦の攻撃を受けました。始めはタンカーを狙い打ちにしました、魚雷が命中したタンカーは魂を揺さぶる様な爆発音と共に燃上し直昼の様に本船を照らし出します。直ちに船団を解き各船独自のスピードにて魚雷回避の蛇行運動を始めました。燃えさかるタンカーは本船ギリギリに舷々相摩して危うく衝突するばかり早く離れてくれないかと気があせるばかりです。

 各船勿論灯火管制して居りますが潜水艦発見と同時に護衛艦のマストに赤いランプがともり敵潜の方向にむけて曳光弾を発射します。その内に青いランプがつきました。これは敵潜がどこかに行ってしまったのかと思う間もなく赤と青が同時につきました。右舷、左舷の区別だったのです。両舷に現れた潜水艦は十杯も居たのではなかったかと思われる程でした。炎上したが沈まなかったタンカーは翌朝護衛艦の砲撃により撃沈させられた。連日の魚雷攻撃に睡眠不足、一番下の甲板のハッチ船艙のふたに腰かけ両脇に遺骨を抱えて思わずウトウトして居る時、二二時五四分頃いきなりグワーンと云う爆発音と共に直下に魚雷が命中しました。
 船艙のふたと共に飛ばされた遺骨を拾い集めるのがやっとでした。併し本船はその後も約四〇分程は走り続けました。ついにエンジンルームの船員が額にランプをつけたまま上がって来ました。

 「早く灯を消せ」とどなられながら「エンジンルームが水に浸ったからもう駄目だ」と云われ、何と云っても当方は遺骨を十二体抱えて居り身一つではありません。上部甲板から我々の居る一番下の甲板に降りるプリッヂ、艦橋が前にあり、多数の人がどっと降りて来て手摺りまでをふさいでしまいました。前に出られません。本船は殆ど速力を落としエンヂンの音も聞こえなくなりました。船室からは担送患者の助けを呼ぶ声も聞こえますがどうする事もできません。

 いざとなると今まで乗って居た船を離れるのがおそろしいのか前に立ちふさがった者達は仲々海に飛び込もうとしない為に前に出られない。前もって確かめて置いた艦橋の後ろの隙間から身を横にしてすり抜けて手摺りに達する。前の手摺りにつかまって居る一人をボンと押し出してやる。
 飛び込むと云うよりは遺骨を両脇に足で手摺りを蹴り出して舷側を離れる。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/12 8:08
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 今迄の張りつめた体に名も知れぬ夜光虫の光る海の水は適度に気持良く仰げば満天の星が降りそそぐ様です。振りむくと船は三、四百米は走ったのでしょうか、今や船尾を下に海底に引き込まれる様に沈んで行く処でした。何かスローモーションの外国映画の一シーンを見て居る様な感じです。流れて来た筏に遺骨を上げてよじ登る。後から流れて来る者を引き上げて居ると直ぐに筏は一杯になる。

 捕虜のオーストラリア兵も流れて来る彼等は救命胴衣は着けて居ない手を差し伸べてくるのを助け上げてやる。後から来た日本兵が上がれずにおこる、ゴボー剣で刺せと云うものも居る、面と向かった彼等を殺すことも出来ず、彼等は一かたまりになって浮かんで居る。元気付けの為に停虜連は歌を歌い始める、我々は今や原隊を離れた烏合の衆でそれを感心して聞いて居る。その内に闇夜の海上に敵潜水艦が浮上して来るのが見える、捕虜の歌声が敵船に聞こえて我々が機銃掃射を受けるから止めさせろとどなる者、聞こえる筈がないのだと馬鹿らしくなるがその時は真剣にそう考えて居たかもしれない。

 夜が明けて熱帯の太陽が昇り始める、護衛艦の救助は夜には行われない、暗夜に停止して居ると格好の敵潜の標的になるからだ。水平線の彼方に黒い点が二つ見え始める、段々とマストが船体が浮かび上がって来る。地球は丸いものだと実感で判る。護衛艦の救助は夜明けと共に始まる。シンガポールからの女性の軍雇員らしい人、駆逐艦から降ろされたローブにすがりつくも途中まで揚げると手を離してポチャンと落ちてしまう。何回か繰り返した後にやっと甲板に上がる。救助は両側から始まったが丁度真ん中に居た為に正午頃にやっと引き上げられる。重油の中に丁度十二時間浮いて居た為に、出された牛乳や握り飯ものどを通らない甲板にへたって居ると「敵潜の魚雷発見に」水兵適は甲板にごろごろして居る我々を蹴っ飛ばして爆雷発射の準備にかかる幸い魚雷は少し前方をすり抜けて行く雷跡を見てほっとする。

 マレーから来た兵、兄貴が戦死してその兄嫁と結婚して田舎の農家跡をつぐと云って居たが、泳ぎが全然出来ないがどうせ何処かに泳ぎ着くと云う訳ではないし、魚雷を受けた後も私の前に居た君は遂に上がって来なかった。
 泳げなかった為に飛び込む機会を逸して船に巻き込まれたのか、もう一人アンダマンから釆た関西部隊の兵は腕を骨折したが他船に助けられたとの話。

 ニューギニアから来たと云って居た足腰の立たない担送患者の助けを呼ぶ声、船舶の下に居た英濠軍捕虜、勿論救命胴衣は持って居なかった、又幸いにして浮上したとしても潜水艦に助けられたろうか。

 駆逐艦は全速力で走る、夜は新南群島と思われる現在の南沙諸島からの島影に一泊し翌日海南島三亜港に上陸。

 海軍の半袖シャツと半ズボン支給されるも体に侵み込んだ重油かとれずその白い服も薄汚れてしまう、海軍司令官の検閲を受ける、敵潜水艦の心配もなくやっとその夜はゆっくり眠れる。長く居られるかとの期待に反して三日後に出発命令下り、喜備津丸に乗船する。本船は砲を備えた貨客船でフィリピンのダバオから引揚げ婦女子を乗せて居り他に四隻をもって船団を組み次の寄港地台湾基隆を目指す。

 後で判った事だがその時にはグワム、サイパンは既に陥落し、台湾沖航空戦で我が軍は手痛い打撃を蒙って居たのであった。そして米軍はフィリピンを目指して居た。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/13 8:15
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 乗組船員の話では制海空権とも殆どなく電波探知器もマニラで米軍のを拿捕して研究して作ったものがあるが性能が悪く余り遠くまでは届かない。どう考えても勝ち目はないとの絶望的な意見を聞かされる。

 台湾海峡に入った夜、中国に向かう米軍機の空襲を受け僚船に命中。台湾基隆港に入港するも直ちに出港する。砂糖の支給を受ける。遺骨は救命ボートと一緒で最上甲板に安置されている。雲が深くたれ込めて時折雨が落ちてくる。突然頭上に爆音がとどろき、隣の船に爆弾が命中燃え上がる。

 本船もねらわれて居るらしい。皆物陰にかくれる爆撃されればどうにもならない。遺骨を救命ボートの中に移す。声かけて基隆で積み込んだ砂糖の袋を何んとかボートの中に移そうとするも皆気が動転して居るのかウロウロして居る丈で雑嚢に何かを入れたり出したり、立ったり座ったり意味のない行動をして居る。

 そして「こんな場合に砂糖とは何んだ」と怒る「こんな場合だからこそ遺骨が助かれば貴重な砂糖も助かるのだから積み込むのを手伝え」と云い返す。どうやら敵機は行ってしまったらしい。

 九州の燈火が見えて来た。明日は内地に着くかと思うと眠られずウトウトとすると物凄い爆発音と共に海岸寄りに走って居た駆潜艇が火柱となりそれがさっと引くと後には何も残らない。内地の海岸が見えて居るのに何んとも残念な事だ。

 シンガポールを出港そしてマニラからの船団と合流二十二杯の大船団は僅かに二隻となり門司港に入る。白木の箱を胸に、岸壁に船がガツンと着くやっと帰って来たとの実感が湧く。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/14 6:49
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 遺骨を在京留守部隊の出迎えに渡して門司市内の宿舎に入る。ジャングルから出て来たので内地女性が皆奇麗に見える。余り化粧もして居ないのに道の向側を通っても所謂脂粉の香りと云うのか女の匂いがする浅間しい事だなと思う。

 留守部隊は最早近衛ではないので世田谷駒場の部隊で慰霊祭を終わり二度と帰れるとは思ってなかった自宅に帰る。

 大本営は三宅坂と思って居たのが市ヶ谷にあり出頭して大隊本部から大本営宛の書類があったが雑のうの仲にシンガポールで買った石鹸や革製品と共に入れて居たが船が沈没して遺骨を持って泳ぐのが精一杯で流してしまったと報告する。

 アンダマンから良く還って来たものだと感心される。正午になり昼食を食べさせてくれる様に頼むも断られる一般の雇員、事務員等多数の人が食堂に居るのに遠来の客になんたる仕打ちぞや。今や原隊も近衛でなくなった悲哀をかみしめる。

 帰りに銀座四丁目の外食券食堂に軍服姿で並んで居ると同情されて一番前に出してくれる。戦友の留守宅を尋ねて現地の苦労をお伝えする。
 十二月始め門司に出頭する様呼び出しの電報来る。今度ばかりは万が一つにも無事帰れるとは思われず覚悟を決める。併し一度は家にも帰えれたし家族にも会えた。今も遠くアンダマン島に苦闘されてる戦友をおもえば何も思い残すことはない。此れも一重に戦友の遺骨が護ってくれたものと考えずに居られません。
 東京駅発東海道線で門司に向かう。

 戦時中公表されなかったが、近畿東海地方に東南海地震が起こり、清水の街が火災で燃えて居る静岡以西は鉄橋が不通との事、静岡の従姉妹の家に一泊し翌日身延から中央線で名古屋に廻り門司に着くも船は三池炭鉱港に行っていてやっと追いつく。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/15 6:28
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 十二月二十五日、三池港出港、乗船した船は戦時標準型船で内部は殆んど仕切りがなく船側に居ると直かに波が当たるのが聞こえる。魚雷一発で沈むであろう。雪が降ってくる。南に行くのに、敵潜水艦を避けて中国大陸寄りを航行し台湾高雄港に入港する。

 サイゴン行きの船団に加わり出港となるがエンジン故障にて動かず他の船は出てしまう。

 最も後で聞くと出た船団も殆ど途中でやられてしまった様子。

昭和二十年一月一日から五日までの間にフィリピンからの米軍機の爆撃により高雄港在泊の船は全部やられてしまう状態となり原隊復帰は絶望となった。昭和二十年一月、台南兵站宿舎に原隊に帰れぬ兵隊として宿泊して居ると在台の旧い部隊で蓬部隊五十師団司令部の士官学校出の将校が来て、彼は足を負傷して居りビッコをひいて居た。師団司令部に来るかと云われる。塹壕掘りでなければと云うと、空襲を受けたときの米軍機乗員捕虜の訊問をするのだと云うので同部隊転属になる。結局墜落機のパイロットは地上に激突するか海上に漂流して敵潜水艦に助けられるかで当方は手出しが出来なかった。

 パイロットが敵潜に助けられた後のボート内の残留物が司令部に届く。但しチョコレート等は盗られてない。不時着時の注意書小冊子を見ると墜落機の処置、星の位置の見かた、野生物の喰べられるものの見分け方等詳細を極めて居りその取り組み方に彼我の差を見せつけられる。

 昭和二十年八月十五日東海岸枋寮海岸線で司令部陣地構策中敵戦舶機の銃撃を受ける。敵パイロットの顔が見える至近距離、やがて終わった終わったと叫びながら数人の兵、何が終わったのだと云えば、戦争は終わったのだ。

 昭和二十年十二月、南方孤島の引き揚げを優先するので、台湾は状況が良いから三年先になると予測されたが早まったので十二月末に高雄港に集結し引揚船を目前にする。

 五十師国司令部には進駐米軍に対する通訳として将校一名(文理大出)、私下士官一名、兵一名(東大英文科卒)が居り台湾民留民引揚げ業務援護の為に通訳一名を残す事となったが将校は師国長を脅かして帰るから私に残れと云われる。南方転戦四年の私にとは、と断ると兵を残すと云う。それならばと私が志願して残留を決める。

 昭和二十一年四月二十九日最后の膨湖島民留民と共に宇品に引揚げ復員する。皮肉にも出征する時に出た宇品の凱旋館に入る。
  条件検索へ