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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録6

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録6

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/10/21 11:32
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 遺体の行方-仮埋葬から慰霊堂へー その1

 昨年暮れ、戦時中青山北町に住んでいたという男性の訪問を受けた。昭和二十年五月、このかたはまだ小学生で、父親を残して能登半島に縁故疎開していたそうだ。父親は青山車庫で働いていたが、空襲のとき表参道の銀行の方へ行くのを職場の同僚が見ている。そのまま行方不明になった。母親が探しに上京したのは二か月後で、隣組の人の話でもわからないということだった。母親は多くを語ることなくやがて亡くなった。ご本人は父親は銀行前で亡くなったと思い、近くの善光寺に時々栃木からお参りに来ているという。横網町の慰霊堂のことも、空襲犠牲者名簿のことも何もご存じなかった。当時子どもだった人、東京から離れて情報が入らなかったこのような人たちは、今でも大勢おられることと思う。

 五月二十五日から二十六日にかけての空襲で、青山、原宿の表参道周辺では多くの人が火炎に巻かれ亡くなった。翌朝、身元が識別できるような遺体は道路に並べられたが、銀行前に山と積まれた遺体や道路や防空壕の焼死体は、軍のトラックが来て、荷台にシャベルで投げ込まれ、青山車庫(一時的)や青山墓地などに運ばれた。探し回っている遺族がこれから見にくるかもしれないのに、早々とまるでゴミを片付けるかのような扱いだった。仮埋葬地は赤坂区では青山墓地、渋谷区では大山公園が主なようだったが、寺院などでも手厚く埋葬した所があったようだ。
              
 当時、赤坂区田町にあった成満寺(じょうまんじ)では、五月二十四日と二十五日の空襲の後、近所で収容された焼死体が境内に運び込まれた。検分に見えた遺族も何人かおられたが結局無縁仏になった遺体何体かを地中に埋葬し、墓石を積み石碑を建てた。成満寺が昭和三十七年に聖蹟桜ケ丘に移転する時には、墓地を掘り数十体土葬骨とともに運んだ。何名かの方々からお申し出もあったが、それから三十年以上を経て、平成になって改めてまとめて納骨し、永代供養しているという。


 青山墓地 (現港区南青山二丁目)

 正式には都立青山霊園という。面積二十六万平方メートルある敷地の南東のはずれに仮埋葬地があったといわれる。その跡地には昭和三十二年に都立高校が建てられた。青山墓地が自宅から見える所に戦時中から住んでいる人の話では、三月十日の空襲直後から遺体が運ばれてくるようになった、遺体を北側を頭にして並べているのを見たという。最近、霊園事務所の人に聞いたが、仮埋葬など聞いたこともないし、記録もないといわれた。

 東京都編集の「東京都戦災誌」によると、青山墓地には当時の京橋、神田、大森、四谷、麻布、赤坂、目黒、芝、淀橋の各区内で発生した遺体を仮埋葬したとある。


 大山公園(現渋谷区西原二丁目)

 当時の都立公園で、渋谷区内で発生し引き取り先のない遺体を仮埋葬した。六十五年後の今、訪ねてみると、公園入り口近くには大木があり奥に野球場がある。多分その一画ではないかと想像した。事務所の人に聞いてももちろん何もわからない。

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