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ある学徒兵の死 (スカッパー) <一部英訳あり>

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/5/3 21:33
スカッパー  半人前   投稿数: 25
kyoyamo様

お尋ねの公報に記載する 分類ですが 海軍省人事局(のち厚生省
掩護《えんご=援護》局)の定めでは 次の5種類に 分けていたそうです

 戦死
 戦傷死
 戦病死
 公務死
 非公務死

分類内容については 細則は判りませんが 私なりの 解釈では
病死も 戦地であったか 無かったかによるのでは
公務死は交戦以外で 例えば訓練中の殉職或は事故等勤務中での
原因ではないでしょうか
従って 勤務以外を非公務死に分類したのではと思います

又余談ですが戦地の認定に 国家公務員でしたから 戦地勤務
(激戦地)に戦務甲と認定されるところに勤務すると 3倍の加算
 一年の勤務が三年に加算(勤務年数)されましたので
必要に応じ 戦地の認定をしていたのでは と思います

定かでない ご返事で申し訳ありませんが 人事については
専門外で 判りませんので悪しからず

                     スカッパー拝

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/5/4 8:33
スカッパー  半人前   投稿数: 25
kyoyamoさん

色々 建武集団 特にクラーク防衛海部隊について 書かせていただきましたが  何年か前 ご存知のとおり ピナツポ山の噴火により 泥流で 当時の地形 様相が可也《かなり》変わったと聴いております
多くの戦友たちが眠る 現地も その下に 未だに故郷を思いながら眠っている事でしょう しかし その心は 千の風に乗って
私達のいる 空を舞っているのでしょう その英霊《えいれい=戦死者の霊》に対し 私は少しでも 平和な現在の皆さんに当時を知って 戴《いただ》ければ 私に課せられた 心の責任の一端が 晴れるものと 感謝しております
やがては 私も彼らに 再会出来るでしょう それまで命のある限り この想いは続けたい と思っております 御祖父様はじめ 亡き戦友の ご冥福《めいふく》を祈りつつ 終わります 有難う御座いました

                       スカッパー拝
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/5/4 16:27
KyoYamO  新米   投稿数: 13
スカッパー様

たくさんのことを教えていただき、本当にありがとうございました。

祖父の戦死のことを調べ始める前は、戦争については「知らなくても良いこと」だと思っていました。実際、私の祖母や里のご老人たちも過去の体験についてあえて口を開こうとする人はおりませんでした。

しかし、私の身辺に不思議なことがいろいろと起き、祖父の戦死について調べを始めるようになってから、以前のような「知らなくても良いこと」ではない、ということに気がつきました。


戦争の悲惨さを身をもってご存知の世代の方々がだんだんと少なくなっているこのご時勢、戦争を知らない世代の舵《かじ》取りミスでまた悲惨な歴史を繰り返すことがないように、私たちは戦争について「知ること」が必要であると痛感しました。

そのためには、多くの若い世代への啓蒙《けいもう=教え導く》活動が必要です。まだまだご活躍願いたいと思います。どうか、お体をご自愛なさって、後続の我々のためにご指導をよろしくお願いいたします。
KyoYamO 拝
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/5/15 23:00
KyoYamO  新米   投稿数: 13
 今回、祖父の戦死についてさまざまな施設に収蔵されている資料を調査しました。士官《=将校》クラスの人たちの記録ならば比較的よく残っていたのですが、一兵卒の祖父個人についての記録にはたどり着くことが出来ませんでした。ただ、祖父の所属していた部隊の行動や最期の状況については記録が残っていたため、状況の想像をすることができました。

 この掲示板を読んでいらっしゃる方で、私のように戦没した身内の最期の状況を調査したいとお考えの方のために、以下に資料が収蔵されている施設、あるいは調査の方法を挙げておきます。この文章がすこしでもお役に立てば幸いです。

1.厚生労働省 社会援護局 業務課 資料調査室
電話(03)5253-1111(代)
戦没者の情報を知るためには、「情報開示請求」をしなければなりません。請求者は、原則として戦没者の「直系の子孫」だけです。この請求は手続きが大変面倒なため、途中で断念する遺児の方も多いと聞いていますが、戦没者の除籍簿、そして請求者の戸籍謄本、戦没者と請求者の続柄が証明できる公的書類、請求者の住民票、免許証や保険証の写しなどに調査の目的を記した手紙を添えて提出しなければなりません。
調査はすべて厚生労働省側で行ってくれます。自分で資料を閲覧《えつらん》することは不可能です。結果が戻ってくるのは約1ヶ月~1ヵ月半後だそうです。

2.防衛庁防衛研究所 戦史資料室 図書館
http://www.nids.go.jp/
作戦、報告、陣中日記、戦後の手記や研究所など、戦史に関する多くのジャンルの資料が保存されています。慣れていないと検索するのに少々手間取りますから、最もよい方法は同図書館に詰めていらっしゃる「相談員」の方に話を聞いていただくことです。そうすると、検索方法から、どのような資料があるか、までを親切丁寧に教えてくださいます。私もずいぶんと相談員の方々に助けていただきました。

3.国立国会図書館憲政資料室
ここには戦後GHQ《=連合国軍最高司令官総司令部》より返還された資料と、現在アメリカ合衆国国立公文書館に収蔵されている太平洋戦争関連の記録の一部がマイクロフィッシュとして保管されています。一部の資料は前述の防衛庁防衛研究所戦史資料室に所蔵してあるものと重複します。

4.アジア歴史資料センター
http://www.jacar.go.jp/
このデジタル・アーカイブを使うと、前述2.と3.の場所に収蔵してある資料がより効率よく検索できます。また、オンラインで閲覧できる資料もあります。

5.遺族会および戦友会
各方面の遺族会や戦友会では、1~4の機関では調べられない個人の状況について、会員のネットワークで調べていただくことが可能です。フィリピンの場合は、「曙光会《しょこうかい》」という遺族会があります。コンタクトをとると、会員の中に同部隊あるいは近い所属の方がいらっしゃるかどうか、調べてくださいます。
さらに、あまり表には出てこない自費出版の手記などの情報もお持ちです。

6.インターネット検索
ネット上ではありとあらゆるジャンルの情報が手に入ります。この「メロウ伝承館」のようなサイトで関連情報が得られる可能性大です。私の場合はスカッパーさんが祖父と同じルソン島で散華《さんげ=戦死のこと》された方の記録を書き込みしてくださっていました。
ただ、ネット上の情報は、実際に防衛庁に行って調査した結果と違っているものもありました。玉石混交《ぎょくせきこんこう=勝れたものとつまらないものが混じっていること》の状態ですから、取捨選択をする必要があります。

以上、これらの手段を使うと、知りたい情報がかなりの精度で分かるのではないかと思います。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/6/15 0:48
KyoYamO  新米   投稿数: 13
1. 祖父 稲見職知の戦死を調査するきっかけ
 祖父 稲見職知は私の母の父にあたります。祖父は、岡山で鉱山技師をしていましたが、私の母が生まれて1歳と半年で海軍に召集され、フィリピンのルソン島で散華《さんげ=戦死のこと》しました。私の母には3人の兄弟がいたのですが、いずれも幼くして父と別れてしまったため、父と過ごした記憶があまりないそうです。祖父の妻にあたる、私の祖母は10年ほど前に亡くなりましたが、元来寡黙《かもく=言葉数がすくない》な人であったこともあり、私の母たち兄弟は、母(私の祖母)の口から戦死した夫のことを聞かされた記憶がまったくないそうです。かくいう私も、幼少の頃祖母と一緒に暮らしていたことがありますが、その際にも戦死した祖父の話は聞いた覚えがありません。身近なものたちはだれも戦争について語ることをしませんでしたので、私は戦争についての記憶は「知らなくてもよいもの」と思っていました。しかし、あるきっかけで祖父の戦死について調べを始めてから、「知らなくてもよいもの」という認識は大きな間違いであることが分かりました。
 太平洋戦争終結後62年も経つ今頃になって、孫の私ももう中年と呼ばれる年頃にさしかかり、そろそろ次世代の人たちに日本の社会を託す方策を考え始める年代になりました。今後の日本の舵《かじ》取りを決めてゆく上で、戦争体験と其《そ》の記憶は決して風化させてはならないものと認識が出来るようになりました。以下では、僭越《せんえつ=身分を越えて出過ぎた》ながら私が調査した祖父の戦死の記録と、調査によって得られた感想を述べたいと思います。

2. 祖父の戦歴
 上にも書いたように、祖母は戦争についてまったく何も話さずになくなってしまいました。したがって、その子らも、自らの父の死について、何も知らされていませんでした。わずかに、父はフィリピンに行く洋上で船が沈没し、なくなったと聞かされていました。
 ところが、祖母がなくなって、形見を整理していると、昭和41年頃に叙勲《じょくん=勲章を授ける》を受けた記録があり、当時の厚生省から銅版に戦歴を刻んだものが送られてきていました。それによると、
 稲見職知 明治40年12月7日
 昭和19年7月15日 呉海兵団に応召入団 
海軍二等工作兵 充員召集を命令される
 昭和19年7月15日 大竹海兵団附
 昭和19年8月31日 第318設営隊附
 昭和19年9月16日 輸送船「豊川丸」乗船 呉を出発
 昭和19年9月20日 台湾高雄港着
 昭和19年9月26日 高雄港出港
 昭和19年10月12日 フィリッピン ルソン島 マニラ上陸
 昭和20年1月6日 クラーク防衛部 第17戦区隊に編入
   クラーク西方山地に複郭陣地を構築
 昭和20年1月11日 陸軍建武陣地(マバラカット)に入る
 昭和20年1月23日 リンガエン湾からの米軍がクラーク飛行場地区に侵入
 昭和20年1月26日 マバラカット西飛行場占領される
 昭和20年6月10日 フィリッピン ルソン島 
クラーク西方山地において戦死(行年 39歳) 海軍技術兵長

以上です。祖父についての調査を始める前は、上記以外にまったく何の手がかりもありませんでした。特にクラーク防衛隊に入って6月に戦死するまでの記録がまったくないのです。
 この記録のギャップを埋めるために、防衛庁の戦史資料室などに通い、祖父が所属していた部隊の行動についての資料をあつめました。そして、遺族会や戦友会に問い合わせ、祖父の部隊の関係者の生存者情報を集め、手記情報を集めました。
 なにしろ、戦争についてまったく知らないところからの調査でしたので、軍隊の組織構成も知らなければ、用語も知りません。おまけに残務処理の書類には旧漢字や旧仮名遣いの手書き文書が多く、それらの読解はなかなか骨の折れる作業でした。
 しかし、戦争について調査をすすめるにつれ、戦争というものがいかに人々の人生を翻弄《ほんろう》したか、実感として感じ取ることができました。戦地でなくなった方も、復員された方も、遺族の方々も同様に地獄を見たのだ、ということがよくわかりました。

***後に続く***
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/6/15 0:49
KyoYamO  新米   投稿数: 13
3. 史料集めについて
 今回は戦争全般ではなく、海軍設営隊やルソン島に焦点をあてた文献探しを行いました。その結果、以下のような文献史料を参考に調査を行うことができました。

 防衛庁の戦史資料室には、残務整理班の記した詳細な記録が残されていて、部隊の詳細を知るのに大いに役立ちました。特に士官クラスの方々については、個人名も記録されており、いつ、だれが、どのような決断をし、その結果どうなったか、といった報告もきちんとなされていました。もちろん、士官の方々の戦死記録もかなり多く記録されていました。

 ただ、一兵卒であった祖父個人についての記録はまったく出てきませんでした。もっとも祖父の記録に近かったのは、同じ第318設営隊の副隊長をしていた岡沢裕氏の手記です。岡沢氏は大変親切にも、手記文末に復員局に提出したものと同じ総員名簿を残してくださっています。そこで私は初めて、祖父が本当に第318設営隊に所属していたことや、ルソン島で戦死したことを実感することができました。

 岡沢氏は、生前、ご自分の手記を第318設営部隊の遺族全員に送ってくださいました。私はつい最近までその存在を知らなかったのですが、祖父の長女(私の母の姉)がこの本を大切に保管してくれていました。この手記にも、残念ながら一兵卒である祖父の名は出てきませんが、それでも祖父の行動に一番近い記録であることには変わりありません。今は鬼籍《きせき=死者の籍》に入られた岡沢氏に感謝したいと思います。

(参考文献)

佐用泰司 『海軍設営隊の太平洋戦争』光人社NF文庫 2001年
岩崎敏夫 『ルソン海軍設営隊戦記』光人社 2002年
赤松信乗 『赤松海軍予備学生日記』講談社 1953年
岡沢裕 『318海軍設営隊戦記-比島クラーク戦線-』
1982(昭和57年) 近代図書株式会社
 石長真華 『フィリピン敗走記-一兵士の見たルソン戦の真実』
光人社NF文庫
防衛庁防衛研究所戦史室 戦史叢書 
『捷号陸軍作戦(2)ルソン決戦』1972年 (昭和47年)
防衛研究所戦史室 
『昭和21年9月15日 戦闘状況・クラーク部隊』
第763空残整第106号 
第763海軍航空隊残務整理員 出口宗孝
防衛研究所図書館 『比島山中武器なき海軍航空隊の死闘』
第26戦隊先任参謀吉岡忠一
 防衛研究所戦史室
『菲島部隊軍人軍属戦死認定資料』南西方面艦隊残務整理班
 防衛研修所戦史室
『昭和20.1~20.8 比島方面海軍作戦 其の四
(第五ルソンの戦)』昭和23年(1948年) 第2復員局
 佐用泰司・森茂 『基地設営戦の全貌』1953年(昭和28年)
鹿島建設技術研究所出版部
 防衛研修所戦史部 『戦史叢書 陸海軍年表』1980年(昭和55年)
 防衛研修所戦史室 『比島作戦記録 第3期 第3巻 附録第2
クラーク地区 建武集団の作戦』1946年(昭和21年)復員局
 防衛研修所戦史室『クラーク地区における海軍部隊の戦闘』
元第26航空戦隊参謀 海軍中佐 吉岡忠一
 小島清文氏(元第26航空戦隊司令部付 暗号士官)の回想録
http://homepage2.nifty.com/DIG-Japan/sensotoningen1.htm
http://homepage2.nifty.com/DIG-Japan/sensotoningen2.htm
http://homepage2.nifty.com/DIG-Japan/sensotoningen3.htm
http://homepage2.nifty.com/DIG-Japan/kojima01.htm
http://homepage2.nifty.com/DIG-Japan/kojima02.htm
http://homepage2.nifty.com/DIG-Japan/kojima03.htm
http://homepage2.nifty.com/DIG-Japan/kojima04.htm
http://homepage2.nifty.com/DIG-Japan/kojima05.htm
コラム「ルソン島に埋没した「建武集団」」
http://www7.plala.or.jp/uminarido/page148.html
メロウ伝承館フォーラム 「ある学徒兵の死」関連スレッド
http://www.mellow-club.org/densho/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=751&forum=13&post_id=3003#forumpost3003

***後に続く***
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KyoYamO  新米   投稿数: 13
4. 建武集団とクラーク防衛隊
 なにしろ戦争の知識がまったくないところから始めた調査ですので、まずは祖父のおかれた状況を知ろうと思い太平洋戦争関連の書籍を読み、その後、クラーク防衛隊と陸軍の建武集団について調べました。

 クラーク基地は、もともと米軍の基地で、それを日本が占領したときに接収したものです。昭和19年夏までは、数千機の飛行機が配備されていた、南方戦場の中心基地だったそうです。バンバン、マバラカット東、マバラカット西、第6、クラーク北、クラーク中、ストッチェンバーグ、マルコット、アンヘレス北、アンヘレス南、アンヘレス西の11滑走路を有する大規模な基地だったといいます。この基地整備のために、海軍は8月下旬に302、308、315、318、332の設営隊を進出させようとしました。ただ、計画当初は、これほど早くに米軍がルソン奪取の反撃に出てくるとは思っていなかったようです。

 祖父の元来の所属は318設営隊です。この設営隊は日本出発時点での目的地は、ミンダナオ島のザンボアンガとなっていました。ここで海岸にトンネルを掘り、新兵器の震洋艇《しんようてい》(通称 ○四)と呼ばれる爆薬を搭載《とうさい》した小船を隠しておいて、敵艦がきたらレールに新兵器を乗せて発進させ、敵艦に体当たりさせる、という設備を作るために比島に派遣されましたが、途中で計画変更。マニラ湾に上陸することとなり、クラーク基地防衛隊に編入することとなります。

 岡沢裕『318海軍設営隊戦記-比島クラーク戦線-』昭和57年 近代図書株式会社(海軍大尉 呉鎮守府318設営隊残務整理委員)によると、
「設立時の318設営隊は
隊長 技大尉 彦坂善道
副長 第2中隊長 中尉 岡沢裕(生還)手記あり
第3中隊長技術中尉 清水真夫
軍医長中尉 宮宗正明(生還)手記なし
主計長中尉 大久保信
第1中隊長兵曹長 松本政寿
隊付機関兵曹長 永井政夫
2中隊付技術兵曹長 吉田茂(生還)手記なし
3中隊付技術兵曹長 伊藤武夫(生還)手記なし
兵曹 8(生還3)、機関兵曹 12(生還1)、衛生兵曹2、主計兵曹2、工作兵曹1、技術兵曹10、水平15(生還2)、機関兵3、衛生兵3、主計兵19(生還2)、工作兵14、技術兵343(生還2)、合計441名である。これらのうち、現役下士官兵は数えるほどの召集で、工作兵以上は応召だが戦歴の勇士、技術兵曹は工業学校を出たばかりの若者、技術兵は第2補充兵か国民兵の応召社で、平均年齢は35歳前後、全員家族もちである。(16-17頁)」

 クラーク地区海軍防衛部隊は1月6日に編成されました。指揮官は第26航空戦隊司令官杉本丑衞少将です。海軍と航空隊の残存部隊による編成で、祖父の所属した第17戦区もこの防衛部隊の一部です。当初の配備はクラーク南飛行場でした。
1月11日には、「陸戦迎撃要綱」が発布されて、山下陸軍大将によって、ルソン島は3つの集団に分割されました。これが尚武集団(陸軍・ルソン島北部山岳地帯に布陣)、建武集団(陸軍と海軍の混成集団・クラーク付近に布陣)、そして振武集団(陸軍と海軍の混成集団・東部山岳地帯に布陣)です。

 このうちの建武集団(総勢約3万人)に、祖父の所属するクラーク地区海軍防衛部隊は入ることになります。海軍の集団が陸軍の指揮下に入るわけです。しかも、建武集団の指揮官は1月8日に着任したばかりの将校でした。集団としての結束もままならず、戦闘の準備もまったく出来ていないところに米軍はやってきたわけです。海軍兵士は陸戦の教育などほとんど受けておらず、武器ももっていない状況でした。海軍の吉岡中佐は、建武集団編成に際して、海軍の兵力について説明したそうですが、陸軍の司令部は海軍の兵力を過大評価しすぎていたようです。敵襲に遭遇してほとんど何も抵抗しないまま後退する海軍の兵士たちを、陸軍の将校は手記の中で「海軍兵力あてにならず。」と書いていました。

***後に続く***
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KyoYamO  新米   投稿数: 13
5. クラーク基地に着任してからの祖父の足跡

 祖父は昭和20年1月6日にクラーク基地に到着後、第17戦区隊に編入し、クラーク基地西方(ピナトゥボ山側)に複郭陣地《ふっかくじんち》を築きました。複郭陣地とは、大勢が立てこもれる塹壕《ざんごう=土を掘って人が入る穴》で、クラーク基地が敵に奪われたときに抗戦するために築かれたようです。
「海軍複郭陣地はストッチェンバーグ西方の高地を中心に来たから13乃至17戦区に区分し、陣地は洞穴式でクラーク航空基地群を制壓(せいあつ)し得る如く計画されてあった。」
     防衛研修所戦史室 昭和20.1~20.8 比島方面海軍作戦 其の4 (第5ルソンの戦)昭和23年 第2復員局調整

 実際、クラーク基地を米軍が占領した(1月23日)後に、日本軍は複郭陣地まで後退し、抗戦しています。

 1月9日、米軍はリンガエン湾の日本軍を打ち破り、クラーク基地のある場所を経由し、マニラを目指して南下を始めました。祖父の戦歴には、「陸軍建武陣地(マバラカット)にはいる」と書いてありますが、所属が変わったことを意味するのではなく、318設営隊は元来の配置クラーク南飛行場からマバラカットに派遣されていったようです。おそらくマバラカットにある2つの飛行場のうち、ひとつに対米陣地を築くのが転任の目的でした。
 前述のとおり、当時ルソン島北部の陸軍には、建武集団、尚武集団、振武集団、という3つの防衛組織がありました。建武集団はクラーク基地周辺の防衛、マニラ周辺の守備を担当する振武集団、そしてルソン島中央部北東方面を守備する尚武集団です。陸軍の山下大将は尚武集団にいました。

 祖父が配属された建武団は、兵力は約3万でしたが、周辺の航空部隊や兵站《へいたん》部隊など、約100の部隊をかき集めて編成した混成集団で、約半数の兵士が陸上戦闘訓練をうけていない兵士の集団でした。もともと戦闘部隊でない兵士が多かったため、ほとんど武器を持っていませんでした。クラーク防衛第26航空戦隊司令部の暗号士官だった小島清文氏によると、「このとき海軍部隊に支給された武器は三八式歩兵銃(明治38年制定)といわれる旧式小銃だけ。それも10人に1丁もないほどで、食糧も薬品もありませんでした。」(DIG収集資料から http://homepage2.nifty.com/DIG-Japan/sensotoningen1.htm
 祖父も海軍設営隊に所属していたため、陸上戦についての知識は無かっただろうし、おそらくショベル、つるはし以外のものは持っていなかったと思われます。

 海軍のクラーク防衛部隊は、作戦上、陸軍の指揮下にあったのですが、陸軍の建武集団の元来の戦力である戦車第2師団「撃兵団」が北西のリンガエン湾守備に赴《おもむ》いた結果、指揮官が不在となり、急遽《きゅうきょ》1月8日(米軍がリンガエン湾に侵攻するのは翌日の1月9日)に塚田理喜智(つかだ りきち)中将が建武団の集団長に就任し、戦闘準備もおぼつかない状態の中で米軍の侵攻にさらされたことになります。わずかな戦車と高射砲(クラーク地区に22門)、そして20mm高射機関砲(約50門)だけの装備で米軍の第14軍団が砲爆と戦車を大量に導入してほとんど武装していない建武集団に襲い掛かったのだから、結果は明らかでした。

 その後、1月26日にマバラカットの飛行場を米軍に占領された後、建武集団はクラーク基地西側に祖父たちが築いていた複郭陣地に後退し、抗戦したようです。祖父の所属するクラーク防衛隊は以前に準備した複郭陣地に後退して米軍に抵抗しようとします。複郭陣地の布陣は、米軍が迫ってくる方面に近かったのが第11~14戦区で、これらの戦区は3月には殲滅《せんめつ=ほろぼしつくす》、かろうじてこの時点で無傷だったのは後方に陣地のあった第16と17戦区だけだったそうです。しかし、米軍の手は第16,17戦区が守備していた陣地にもおよびました。

 3月中旬には複郭陣地も相次いで崩壊し、クラーク防衛隊の残兵たちは西方山地に退くこととなりました。この複郭陣地の陥落によって大多数が戦死、残ったものは西方山地に退くことになりました。この攻防戦では40~50人に一人しか生き残れなかったそうです。

***後に続く***
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KyoYamO  新米   投稿数: 13
6.西方山地への敗走
 西方山地というのは、ピナツボ山とピナツボ山の北にあるナマコ山、そしてそれ以北に広がるザンバレス山系をさすようです。しかし、ほとんどの部隊が山篭り《やまごもり》の準備をしていなかったため、たちまちのうちに食糧難が襲い掛かりました。
4月中旬、司令部は今後の作戦方針を以下のように発表しています。
1) 治療を要しない病人と負傷者は西方およびイバに先行分散、自活をはかる
2) 戦闘可能なものは集団行動によりピナツボ山西方またはイバ方面に出て畑を占領、自活を計り、後期に乗じてゲリラ戦を行う
 食糧難のため、フィリピンの地元民の畑や家屋から略奪を行い、時にはフィリピンの人々を殺し、山にあっては植物や果物、昆虫など食べられるものを手当たり次第に食べたそうです。劣悪な食糧事情と熱帯の気候、そして衛生状態の悪化があいまって、餓死したり赤痢《せきり=下痢を繰り返す伝染病》、マラリア、チフスなどに罹患《りかん》する兵士が続出しました。山中を行軍する兵士たちは常に食糧のことを考えていた、といいます。民家や畑があるところにはすでに米軍がいて、畑の作物を採ろうとすることはイコール米軍あるいは比米軍に撃たれる、ということだったそうです。そのため、米軍や比米軍に気づかれないようにするには険しい山中を行軍するしかなく、食糧はつねに欠乏し、体力も限界まで消耗し、本当にいつ倒れてもおかしくない状況だったといいます。生還した人々が手記の中で、「死んだほうがよっぽど幸せ」書いておられたほど、ルソン島での敗走は悲惨だったようです。

 山中では方向を容易に見誤るため、隊から迷い出る兵士も多くあったそうですが、単独で行動するとほぼ確実に死が待っている状況でした。クラーク防衛隊司令部からの生還者たちの手記によると、部隊をはなれた「離れガラス」たちは埋葬してくれる戦友もなく、獣道《けものみち》の脇にごろごろと倒れていたそうです。
4月下旬以降、山中で残存していた兵たちは徐々に5人前後や10人前後の隊に分かれるようになりました。祖父の最期の時が判明しているのも、きっと小隊になって行動していたからだと思います。絶望的な状況でも、友軍が駆けつけてくれると信じて必死で生き延びようとしていたようです。しかし、空に見えるのは米軍の飛行機だけだったと生還者は語っています(石長真華氏の著書より)。

 米軍機は時々「落下傘ニュース」という、日本語、中国語、タガログ語で書かれた国際情勢や戦況を記した新聞を、日本軍が潜伏している場所にばら撒《ま》いたそうですから、祖父もある程度戦況は把握していたのではないかと思います。ただ、祖父の戦死はポツダム宣言より以前なので、祖父の心境としては、敗戦の色は濃いが、きっと友軍が助けに来てくれる、と思っていたのではないでしょうか。
 クラーク防衛隊に関しては、終戦後戦犯の審議対象にはなっていません。というのも、岩崎敏夫 第219設営隊副隊長の著書『ルソン海軍設営隊戦記』光人社 によると、防衛隊の兵士たちはクラークに配備されてすぐに山に追われる結果となってしまい、密林の中でひたすら米軍から逃げ惑う生活だったため、フィリピンの地元民たちと出会う機会がまったくなかったそうです。4月下旬になり、残存部隊が小隊に分かれて山中を彷徨《ほうこう》するようになって初めてフィリピン人ゲリラに遭遇し、何も知らない日本兵は「ハロー」といって手を振ったところ、撃たれた、という記述がありました。残存兵たちは、そのとき初めてフィリピン人ゲリラの存在を知ったそうです(88頁)。

 陸軍が終戦後に編纂《へんさん=編集》した記録によると、建武集団は編成時に約3万人だったのが終戦時には1300人程になっていたといいます。建武集団の約8割の人々は終戦までに命を落とした計算です。そして、陸軍建武集団の公式な戦闘記録は昭和20年4月20日ごろで終わってしまいます。兵士がみな散り散りになってしまって、かれらの行く先もたどることが出来なかっただからだと推測します。一方、海軍所属のクラーク防衛隊の記録は比較的よく残っていました。これは、クラーク防衛隊の本部(第16戦区)の士官たちの生還数が比較的多かったことと関係があると思います。
 
 318設営隊の副隊長だった岡沢氏の手記によると、318設営隊は17戦区とともに行動しながら、比較的早い時期にザンバレス山系を北へ向かっていったそうです。というのは、本部(第16戦区)が通るときの道を開いておかなければならなかったからです。
17戦区は他の部隊に比べると、比較的食糧を多く携行していたらしく、かえってそれが仇《あだ》になった、という話を生還者から聞きました。17戦区は、本部が通るための前哨《ぜんしょう=本隊の前に配置して警戒に当たる小隊》の役割を果たすと同時に、本部が必要とする食糧を安全に移動させる任務もあったと推測します。缶詰や塩などが重く、一人あたり30kgにもなる装備になっていて、身軽に行動ができなかったようです。重い荷物を携行する兵士の体力も当然消耗します。さらに、飢えた友軍の兵士により、食糧の略奪が横行し、ついには食糧をめぐって17戦区の兵士と別部隊の兵士が殺し合いをしたこともあったそうです。

***後に続く***
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/6/15 0:56
KyoYamO  新米   投稿数: 13
7.戦死公報の日付について
 祖父の戦死については、西方山地に退いた後のことが不明なままですが、戦死の年月日が判明しているということは、生還して日本に戻った人が復員局あたりに報告をした結果と思います。戦死年月日のわからない多くの第17戦区の兵士たちの公式な戦死年月日は昭和20年4月24日となっています。

 第17戦区に所属する318設営隊からは副隊長の岡沢氏が生還されていて、その方が手記を残しています。それによると、4月以降、司令部から自活命令が出た際、岡沢氏は残兵を集めて、「もう給与(食糧)を与えることができない。裏付けが出来ないから命令権がなくなった。もう軍隊ではない。今後は各自自由に行動するように」・・・といい、中隊長を集めて、「指名はしない。私についてきたいものは私の前に残れ。解散。」と宣言したそうです。そのとき残っていた全70名ほどの兵士の約半数が岡沢氏の下にのこり、約半数は離散していったそうです。祖父が岡沢氏側に残ったのかどうかは分かりませんが、公式の記録にあるように、もしも祖父が6月10日まで生き延びていたとすると、岡沢氏の手記に名前が登場しないのは不思議です。というのも、もうその頃は岡沢氏の下にも数人の兵士しか残っていなかったからです。祖父が岡沢氏のもとを離れて行動した中隊にいたとなると、その後の消息はそこからの生還者がいない限り不明、ということになります。

318設営隊で、祖父の直属の上官に当るのは、2中隊付技術兵曹長 吉田茂(生還)か、3中隊付技術兵曹長 伊藤武夫(生還)のどちらかの方です。2中隊は通常飛行場整備に当たる隊です。3中隊は居住・桟橋《さんばし》・耐弾施設の建設を担当しました。前述の岡沢氏は、2中隊長でもあったので、おそらく岡沢氏に最後まで付いていったのは第2中隊だと思います。そして、祖父はおそらく第3中隊に所属して、上官の伊藤武夫曹長とともに4月12日、岡沢氏の下を離れたと推測できます。

 敗残兵となった第17戦区の兵たちは一様に、山下大将の陣のある北方(バギオ)へ向かって移動を続けたそうです。4月22日には、すでに米軍が守備していた「イバ街道」を多大な犠牲を払って突破しました。残念ながらこの街道突破により多くの命が散り、第17戦区はこれ以降、指令本部とは連絡が取れなくなりました。

 かろうじて逃げ切った岡沢隊の最終宿営地はスラ北方約20km地点、バロンバロン村付近。一方、岡沢隊から離れて行動した隊については、ほとんど所在記録が残っていませんが、西南方面艦隊残務整理班が作成した「菲島《ひとう》部隊軍人軍属戦死認定資料」によると、第17戦区隊の小部隊が5月~8月にイバラス周辺で目撃されています。もしかしたら、祖父の終焉《しゅうえん=臨終》の地はイバラス周辺かも知れません。

 6月10日という、戦死公報の日付に関しては、確たる裏付けが取れないままです。前述したように、不明者の「公式」戦死年月日は4月24日となっていますから、6月10日という日付は誰かが祖父の最期を看取ってくれた証拠だと思います。それが誰か、というのは確定できませんが、3中隊の兵曹長で生還された伊藤武夫氏かもしれないし、あるいは技術兵で2名の生還者がある(岡沢氏の手記による)ので、その人たちが復員局に伝えてくれたのでしょう。

318設営隊は編成当初は441名だったそうですが、生還者は僅か14名でした。

 母の兄によると、戦死の公報とともに、桐の箱に入った小さな小指の骨らしきものと、まったく見ず知らずの方の軍服姿の写真がガリ版刷りで入っていたそうです。写真は明らかに別人であるので、その後、骨をどのようにしたのかは不明だそうです。祖母が祖父のためにお墓を建立したので、今はその中に納骨されているのかも知れません。

 海軍航空隊の残務整理をした方による、遺骨に関する記事がありました。
* 遺骨の件 遺骨の問い合わせと「どうしても死んだような気がしないから死んだという證據(しょうこ)をよこせ」といわれる方がありますが、当地区部隊ではごくわずかの例外の地は何もありません。昭和19年度内戦没者は火葬にして遺骨をその後陣地内に安置しましたが多くは陣地将兵とともに埋没、昭和20年1,2,3月頃までは陣地近くに土葬 遺品を戦友が携行しました。3,4月の包囲殲滅的攻撃を受けたときは部隊全滅のところは部隊全員行方不明、生存者の居るところではこの場にて土をかけ木碑《ひ》を建てた程度のものもあります。包囲攻撃されている中で僅少《きんしょう=わずか》の生存者では生存者の何倍という多数の死体に対し手厚い処置は事実上不可能でした(8-9頁)
防衛研修所戦史室 『昭和21年9月15日 戦闘状況・クラーク部隊』
  第763空残整第106号
  第763海軍航空隊残務整理員 出口宗孝

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