@





       
ENGLISH
In preparation
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
ログイン

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失

祖父の戦死記録調査6

投稿ツリー


このトピックの投稿一覧へ

KyoYamO

通常 祖父の戦死記録調査6

msg#
depth:
0
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/6/15 0:56
KyoYamO  新米   投稿数: 13
7.戦死公報の日付について
 祖父の戦死については、西方山地に退いた後のことが不明なままですが、戦死の年月日が判明しているということは、生還して日本に戻った人が復員局あたりに報告をした結果と思います。戦死年月日のわからない多くの第17戦区の兵士たちの公式な戦死年月日は昭和20年4月24日となっています。

 第17戦区に所属する318設営隊からは副隊長の岡沢氏が生還されていて、その方が手記を残しています。それによると、4月以降、司令部から自活命令が出た際、岡沢氏は残兵を集めて、「もう給与(食糧)を与えることができない。裏付けが出来ないから命令権がなくなった。もう軍隊ではない。今後は各自自由に行動するように」・・・といい、中隊長を集めて、「指名はしない。私についてきたいものは私の前に残れ。解散。」と宣言したそうです。そのとき残っていた全70名ほどの兵士の約半数が岡沢氏の下にのこり、約半数は離散していったそうです。祖父が岡沢氏側に残ったのかどうかは分かりませんが、公式の記録にあるように、もしも祖父が6月10日まで生き延びていたとすると、岡沢氏の手記に名前が登場しないのは不思議です。というのも、もうその頃は岡沢氏の下にも数人の兵士しか残っていなかったからです。祖父が岡沢氏のもとを離れて行動した中隊にいたとなると、その後の消息はそこからの生還者がいない限り不明、ということになります。

318設営隊で、祖父の直属の上官に当るのは、2中隊付技術兵曹長 吉田茂(生還)か、3中隊付技術兵曹長 伊藤武夫(生還)のどちらかの方です。2中隊は通常飛行場整備に当たる隊です。3中隊は居住・桟橋《さんばし》・耐弾施設の建設を担当しました。前述の岡沢氏は、2中隊長でもあったので、おそらく岡沢氏に最後まで付いていったのは第2中隊だと思います。そして、祖父はおそらく第3中隊に所属して、上官の伊藤武夫曹長とともに4月12日、岡沢氏の下を離れたと推測できます。

 敗残兵となった第17戦区の兵たちは一様に、山下大将の陣のある北方(バギオ)へ向かって移動を続けたそうです。4月22日には、すでに米軍が守備していた「イバ街道」を多大な犠牲を払って突破しました。残念ながらこの街道突破により多くの命が散り、第17戦区はこれ以降、指令本部とは連絡が取れなくなりました。

 かろうじて逃げ切った岡沢隊の最終宿営地はスラ北方約20km地点、バロンバロン村付近。一方、岡沢隊から離れて行動した隊については、ほとんど所在記録が残っていませんが、西南方面艦隊残務整理班が作成した「菲島《ひとう》部隊軍人軍属戦死認定資料」によると、第17戦区隊の小部隊が5月~8月にイバラス周辺で目撃されています。もしかしたら、祖父の終焉《しゅうえん=臨終》の地はイバラス周辺かも知れません。

 6月10日という、戦死公報の日付に関しては、確たる裏付けが取れないままです。前述したように、不明者の「公式」戦死年月日は4月24日となっていますから、6月10日という日付は誰かが祖父の最期を看取ってくれた証拠だと思います。それが誰か、というのは確定できませんが、3中隊の兵曹長で生還された伊藤武夫氏かもしれないし、あるいは技術兵で2名の生還者がある(岡沢氏の手記による)ので、その人たちが復員局に伝えてくれたのでしょう。

318設営隊は編成当初は441名だったそうですが、生還者は僅か14名でした。

 母の兄によると、戦死の公報とともに、桐の箱に入った小さな小指の骨らしきものと、まったく見ず知らずの方の軍服姿の写真がガリ版刷りで入っていたそうです。写真は明らかに別人であるので、その後、骨をどのようにしたのかは不明だそうです。祖母が祖父のためにお墓を建立したので、今はその中に納骨されているのかも知れません。

 海軍航空隊の残務整理をした方による、遺骨に関する記事がありました。
* 遺骨の件 遺骨の問い合わせと「どうしても死んだような気がしないから死んだという證據(しょうこ)をよこせ」といわれる方がありますが、当地区部隊ではごくわずかの例外の地は何もありません。昭和19年度内戦没者は火葬にして遺骨をその後陣地内に安置しましたが多くは陣地将兵とともに埋没、昭和20年1,2,3月頃までは陣地近くに土葬 遺品を戦友が携行しました。3,4月の包囲殲滅的攻撃を受けたときは部隊全滅のところは部隊全員行方不明、生存者の居るところではこの場にて土をかけ木碑《ひ》を建てた程度のものもあります。包囲攻撃されている中で僅少《きんしょう=わずか》の生存者では生存者の何倍という多数の死体に対し手厚い処置は事実上不可能でした(8-9頁)
防衛研修所戦史室 『昭和21年9月15日 戦闘状況・クラーク部隊』
  第763空残整第106号
  第763海軍航空隊残務整理員 出口宗孝

***後に続く***



  条件検索へ