祖父の戦死記録調査4
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ある学徒兵の死 (スカッパー) <一部英訳あり> (スカッパー, 2007/2/3 15:26)
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ルソン島 クラーク西方での戦死者(祖父)について (KyoYamO, 2007/4/29 3:46)
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Re: ルソン島 クラーク西方での戦死者(祖父)について (スカッパー, 2007/4/29 19:33)
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Re: ルソン島 クラーク西方での戦死者(祖父)について (KyoYamO, 2007/4/29 23:18)
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Re: ルソン島 クラーク西方での戦死者(祖父)について (スカッパー, 2007/4/30 15:16)
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Re: ルソン島 クラーク西方での戦死者(祖父)について (スカッパー, 2007/4/30 19:10)
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Re: ルソン島 クラーク西方での戦死者(祖父)について (スカッパー, 2007/4/30 21:07)
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Re: ルソン島 クラーク西方での戦死者(祖父)について (KyoYamO, 2007/5/1 0:30)
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Re: ルソン島 クラーク西方での戦死者(祖父)について (スカッパー, 2007/5/2 11:42)
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Re: ルソン島 クラーク西方での戦死者(祖父)について (KyoYamO, 2007/5/3 18:23)
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Re: ルソン島 クラーク西方での戦死者(祖父)について (スカッパー, 2007/5/3 21:33)
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Re: ルソン島 クラーク西方での戦死者(祖父)について (スカッパー, 2007/5/4 8:33)
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Re: ルソン島 クラーク西方での戦死者(祖父)について (KyoYamO, 2007/5/4 16:27)
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戦没者調査の参考として (KyoYamO, 2007/5/15 23:00)
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祖父の戦死記録調査1 (KyoYamO, 2007/6/15 0:48)
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祖父の戦死記録調査2 (KyoYamO, 2007/6/15 0:49)
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祖父の戦死記録調査3 (KyoYamO, 2007/6/15 0:51)
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祖父の戦死記録調査4 (KyoYamO, 2007/6/15 0:53)
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祖父の戦死記録調査5 (KyoYamO, 2007/6/15 0:55)
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祖父の戦死記録調査6 (KyoYamO, 2007/6/15 0:56)
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祖父の戦死記録調査7 (KyoYamO, 2007/6/15 0:58)
KyoYamO
投稿数: 13

5. クラーク基地に着任してからの祖父の足跡
祖父は昭和20年1月6日にクラーク基地に到着後、第17戦区隊に編入し、クラーク基地西方(ピナトゥボ山側)に複郭陣地《ふっかくじんち》を築きました。複郭陣地とは、大勢が立てこもれる塹壕《ざんごう=土を掘って人が入る穴》で、クラーク基地が敵に奪われたときに抗戦するために築かれたようです。
「海軍複郭陣地はストッチェンバーグ西方の高地を中心に来たから13乃至17戦区に区分し、陣地は洞穴式でクラーク航空基地群を制壓(せいあつ)し得る如く計画されてあった。」
防衛研修所戦史室 昭和20.1~20.8 比島方面海軍作戦 其の4 (第5ルソンの戦)昭和23年 第2復員局調整
実際、クラーク基地を米軍が占領した(1月23日)後に、日本軍は複郭陣地まで後退し、抗戦しています。
1月9日、米軍はリンガエン湾の日本軍を打ち破り、クラーク基地のある場所を経由し、マニラを目指して南下を始めました。祖父の戦歴には、「陸軍建武陣地(マバラカット)にはいる」と書いてありますが、所属が変わったことを意味するのではなく、318設営隊は元来の配置クラーク南飛行場からマバラカットに派遣されていったようです。おそらくマバラカットにある2つの飛行場のうち、ひとつに対米陣地を築くのが転任の目的でした。
前述のとおり、当時ルソン島北部の陸軍には、建武集団、尚武集団、振武集団、という3つの防衛組織がありました。建武集団はクラーク基地周辺の防衛、マニラ周辺の守備を担当する振武集団、そしてルソン島中央部北東方面を守備する尚武集団です。陸軍の山下大将は尚武集団にいました。
祖父が配属された建武団は、兵力は約3万でしたが、周辺の航空部隊や兵站《へいたん》部隊など、約100の部隊をかき集めて編成した混成集団で、約半数の兵士が陸上戦闘訓練をうけていない兵士の集団でした。もともと戦闘部隊でない兵士が多かったため、ほとんど武器を持っていませんでした。クラーク防衛第26航空戦隊司令部の暗号士官だった小島清文氏によると、「このとき海軍部隊に支給された武器は三八式歩兵銃(明治38年制定)といわれる旧式小銃だけ。それも10人に1丁もないほどで、食糧も薬品もありませんでした。」(DIG収集資料から http://homepage2.nifty.com/DIG-Japan/sensotoningen1.htm)
祖父も海軍設営隊に所属していたため、陸上戦についての知識は無かっただろうし、おそらくショベル、つるはし以外のものは持っていなかったと思われます。
海軍のクラーク防衛部隊は、作戦上、陸軍の指揮下にあったのですが、陸軍の建武集団の元来の戦力である戦車第2師団「撃兵団」が北西のリンガエン湾守備に赴《おもむ》いた結果、指揮官が不在となり、急遽《きゅうきょ》1月8日(米軍がリンガエン湾に侵攻するのは翌日の1月9日)に塚田理喜智(つかだ りきち)中将が建武団の集団長に就任し、戦闘準備もおぼつかない状態の中で米軍の侵攻にさらされたことになります。わずかな戦車と高射砲(クラーク地区に22門)、そして20mm高射機関砲(約50門)だけの装備で米軍の第14軍団が砲爆と戦車を大量に導入してほとんど武装していない建武集団に襲い掛かったのだから、結果は明らかでした。
その後、1月26日にマバラカットの飛行場を米軍に占領された後、建武集団はクラーク基地西側に祖父たちが築いていた複郭陣地に後退し、抗戦したようです。祖父の所属するクラーク防衛隊は以前に準備した複郭陣地に後退して米軍に抵抗しようとします。複郭陣地の布陣は、米軍が迫ってくる方面に近かったのが第11~14戦区で、これらの戦区は3月には殲滅《せんめつ=ほろぼしつくす》、かろうじてこの時点で無傷だったのは後方に陣地のあった第16と17戦区だけだったそうです。しかし、米軍の手は第16,17戦区が守備していた陣地にもおよびました。
3月中旬には複郭陣地も相次いで崩壊し、クラーク防衛隊の残兵たちは西方山地に退くこととなりました。この複郭陣地の陥落によって大多数が戦死、残ったものは西方山地に退くことになりました。この攻防戦では40~50人に一人しか生き残れなかったそうです。
***後に続く***
祖父は昭和20年1月6日にクラーク基地に到着後、第17戦区隊に編入し、クラーク基地西方(ピナトゥボ山側)に複郭陣地《ふっかくじんち》を築きました。複郭陣地とは、大勢が立てこもれる塹壕《ざんごう=土を掘って人が入る穴》で、クラーク基地が敵に奪われたときに抗戦するために築かれたようです。
「海軍複郭陣地はストッチェンバーグ西方の高地を中心に来たから13乃至17戦区に区分し、陣地は洞穴式でクラーク航空基地群を制壓(せいあつ)し得る如く計画されてあった。」
防衛研修所戦史室 昭和20.1~20.8 比島方面海軍作戦 其の4 (第5ルソンの戦)昭和23年 第2復員局調整
実際、クラーク基地を米軍が占領した(1月23日)後に、日本軍は複郭陣地まで後退し、抗戦しています。
1月9日、米軍はリンガエン湾の日本軍を打ち破り、クラーク基地のある場所を経由し、マニラを目指して南下を始めました。祖父の戦歴には、「陸軍建武陣地(マバラカット)にはいる」と書いてありますが、所属が変わったことを意味するのではなく、318設営隊は元来の配置クラーク南飛行場からマバラカットに派遣されていったようです。おそらくマバラカットにある2つの飛行場のうち、ひとつに対米陣地を築くのが転任の目的でした。
前述のとおり、当時ルソン島北部の陸軍には、建武集団、尚武集団、振武集団、という3つの防衛組織がありました。建武集団はクラーク基地周辺の防衛、マニラ周辺の守備を担当する振武集団、そしてルソン島中央部北東方面を守備する尚武集団です。陸軍の山下大将は尚武集団にいました。
祖父が配属された建武団は、兵力は約3万でしたが、周辺の航空部隊や兵站《へいたん》部隊など、約100の部隊をかき集めて編成した混成集団で、約半数の兵士が陸上戦闘訓練をうけていない兵士の集団でした。もともと戦闘部隊でない兵士が多かったため、ほとんど武器を持っていませんでした。クラーク防衛第26航空戦隊司令部の暗号士官だった小島清文氏によると、「このとき海軍部隊に支給された武器は三八式歩兵銃(明治38年制定)といわれる旧式小銃だけ。それも10人に1丁もないほどで、食糧も薬品もありませんでした。」(DIG収集資料から http://homepage2.nifty.com/DIG-Japan/sensotoningen1.htm)
祖父も海軍設営隊に所属していたため、陸上戦についての知識は無かっただろうし、おそらくショベル、つるはし以外のものは持っていなかったと思われます。
海軍のクラーク防衛部隊は、作戦上、陸軍の指揮下にあったのですが、陸軍の建武集団の元来の戦力である戦車第2師団「撃兵団」が北西のリンガエン湾守備に赴《おもむ》いた結果、指揮官が不在となり、急遽《きゅうきょ》1月8日(米軍がリンガエン湾に侵攻するのは翌日の1月9日)に塚田理喜智(つかだ りきち)中将が建武団の集団長に就任し、戦闘準備もおぼつかない状態の中で米軍の侵攻にさらされたことになります。わずかな戦車と高射砲(クラーク地区に22門)、そして20mm高射機関砲(約50門)だけの装備で米軍の第14軍団が砲爆と戦車を大量に導入してほとんど武装していない建武集団に襲い掛かったのだから、結果は明らかでした。
その後、1月26日にマバラカットの飛行場を米軍に占領された後、建武集団はクラーク基地西側に祖父たちが築いていた複郭陣地に後退し、抗戦したようです。祖父の所属するクラーク防衛隊は以前に準備した複郭陣地に後退して米軍に抵抗しようとします。複郭陣地の布陣は、米軍が迫ってくる方面に近かったのが第11~14戦区で、これらの戦区は3月には殲滅《せんめつ=ほろぼしつくす》、かろうじてこの時点で無傷だったのは後方に陣地のあった第16と17戦区だけだったそうです。しかし、米軍の手は第16,17戦区が守備していた陣地にもおよびました。
3月中旬には複郭陣地も相次いで崩壊し、クラーク防衛隊の残兵たちは西方山地に退くこととなりました。この複郭陣地の陥落によって大多数が戦死、残ったものは西方山地に退くことになりました。この攻防戦では40~50人に一人しか生き残れなかったそうです。
***後に続く***