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Re: 戦後の食糧難とこども

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toshy

通常 Re: 戦後の食糧難とこども

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depth:
3
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/8/16 9:20
toshy  常連   投稿数: 42
引用:
引き揚げ船での食事は海草ばかりの飯?に目を白黒させました。
 これはどのような物だったか覚えが有りません。

 覚えが無いところを見ると、そんなにひどい物では無かったのか
も知れません。

 上海で積み込んだのかも?

引用:
初めて乗った内地の小さな列車(朝鮮の鉄道線路は広軌なので大きい)で買った弁当は大豆ばかりで食べられなかった。
 これも覚えが無いのですが、汽車に乗るまでの博多の宿泊所で日本の事情に慣れたのでしょうか。

引用:
でも、千葉県に住み着いてからの食事は酷かった。
 大豆滓を粉にしてすいとんにしたもの・芽を取った後のサツマイモの蒸かしたもの・サツマイモの蔓を干したものが大量に入った御飯・半分以上大根が入った御飯(大根は米粒と同じ大きさに刻んであった)・フスマ(メリケン粉を精製した残り滓)が大量に入ったすいとん・トウモロコシの粉で作ったパンやすいとん・大根葉を大量に入れた飯などなど・・・
 このあたりは大阪と同じ、日本全国が同じ状況だったのでしょう。

引用:
父とリュックサックを背負って農家を回っての買い出し、お金を払って買うつもりなのに乞食扱いで追い払われる始末。
あのころの農家の人は、いい人もおられたけれど、かなり威張っている人も多かった。入れ替わり立ち替わりで毎日のようにいろいろな人に食料を所望されると、ぞんざいな口で追い払いたくもなるのでしょう。
 これも同じ経験をしました。

引用:
 あの頃の両親は本当にご苦労なことでした。
 私の父も一応元の会社に復職出来たようでしたが、食糧難時代の
苦労は同じく大変でした。

 ところで食糧難時代の思い出を、もういくつか。

 米国からの援助だったのでしょうか、トウモロコシ粉の配給が有
りましたね。
 それを団子にして雑炊にいれたり、蒸しパンにしたり・・・。

 パンと言えば直接通電のパン焼き器が有りました。

 10cm 位の間隔を置いてブリキ板の電極が有り、その中にパン種を入れて 100V に繋《つな》ぐとパンが出来るのです。

 最初パン種を丸めて電極の間に入れて通電したのですが、幾ら経《た》っても焼けないのです。

 原理を色々考えて直接通電に気づいたのは少し経ってからでした。

 電極の間にパン種を流し込まねば成らなかったのでした。

 パン種は食塩で味付けするのでした。
 その食塩が電気を通していたのでした。

 その食塩の量や水加減が微妙で、コツを会得するまでは、焼けな
かったり、フューズを何度も飛ばしたり。
(フューズが入手出来ないので、荷札の細い針金を使ったり)

 らごらさんとは、このような経験も共有出来そうですね。
                toshy

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