@





       
ENGLISH
In preparation
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
ログイン

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失

故国を出てから19年、ベトナムからの帰国者 吉田民夫氏の手記 <英訳あり>

投稿ツリー


このトピックの投稿一覧へ

三蔵志郎

通常 故国を出てから19年、ベトナムからの帰国者 吉田民夫氏の手記 <英訳あり>

msg#
depth:
0
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/8 0:37
三蔵志郎  半人前 居住地: 河内の国 金剛山麓  投稿数: 35
 
(1)真夜中に集合ラッパ、目的地知らされずに南方へ
 昭和15年2月、歩兵四十四連隊に入隊し、私はその後工兵第五十五連隊に転属し、衛生兵として服務していた。
 明けて昭和十六年十月下旬、晩秋の寒さを覚える午前1時ごろ、集合ラッパに起された。私達は新しい戦用軍装に身を包み営庭《えいてい=兵舎の広場》に整列。出陣の命を待っていた。きらめく銃剣の光が夜空に不気味な光を放ち、夜半《よわ=夜ふけ》の空気を圧していた。
 やがて部隊は静かに営門を出て寝静まった善通寺の町をすぎ、夜のほのぼのと明けるころ私達は坂出の港に着いた。港の周辺には赤い腕章の憲兵《けんぺい=軍事警察の兵》がいかめしく警戒しており、桟橋《さんばし》には黒々としたご用船《=輸送船》が待っていた。

 私たちはこの出陣がなんであるかは無意識のうちにわかっており、近く米国と戦うらしいとささやいている兵隊もいた。しかし、どこの地にいかなる運命が私たちを待ち受けているかは誰も予想し得ぬことであった。果たして幾人がこの港に帰ってきえたことだろうか。
「男子一度征途《せいと=出征の道》につかんか勝たづんば生きて再び帰るまじ」と誓って出陣した私たちは、この戦争がなにの目的であるか、それが正義であるか否かをただすことは許されなかった。
ただ一途に東洋平和のため、それが日本国民の最大の望みであり、私たちに与えられた重大使命であるとのみ信じていた。いまにして思えば、そうした考えがいかに祖国の将来と国民に悲惨なる運命をもたらしたことか。

 ご用船団は、祖国の山河と最後の別れをおしみながら紀伊水道を出て針路を東南にとり、途中母島で上陸演習を行ない、冬服を夏服に着かえ、護衛艦に守られながら、さらに南へ航行、十二月八日には太平洋上で宣戦布告《開戦の宣言》とハワイ海戦の大勝の報に、士気は大いにあがり、十二月十日、グアム島上陸を決行した。
 無敵の戦野を行くごとき私たちは、昭和十七年一月上旬には再びご用船の人となり、日本軍として最初の赤道を通過、同月末にはラバウルに上陸を決行、そのままラバウル市の警備についていた。占領二ヵ月ごろから毎日のように敵機の空襲を受けた。当時すでに敵の反攻が日増しに強化されていくようすであった。

 昭和十七年五月、私たちは再びご用船に乗せられ、ニューギニアのポートモレスビーの攻略に向かった。ここでは敵艦隊の反攻を受け大海戦となり、私たちの船団七日間珊瑚海《さんごかい》の中できょうかあすかと、死の運命を待っていたが、幸いにして再びラバウルに帰ってくることが出来た。
この渡海作戦に失敗した私たちの部隊はしばらくラバウルに待機し、昭和十七年七月ご用船でニューギニア島(ギルワ)に上陸、陸路前進を開始した。戦いは非常な苦戦となり、数万の部隊のうち生きて基地に帰ったものはわずか三百余人であった。私はその戦場の生き残りの一人として戦争がいかに悲惨なものであるかをつくづくこの身で味わった。

かくて、第一回モレスビーの攻略作戦に失敗した南方軍は、陸路再びモレスビーの攻略を開始した。陸路五百余キロ、山また山の山岳戦は海抜4千メートルの高峰を越えての作戦であり、実に無謀きわまるものであった。私たちは各々三十キロの装備を身につけ、ジャングルを切り開き、川を渡って赤道直下の強烈な日差しを受けながらの行軍は、一日の歩程わずか十数キロ、前進十数日の後やっと戦闘は開始された。
敵は山岳の要所要所に陣地を張り、日本軍の前進を阻止《そし》している。三日戦えば二日行軍、四日戦えば三日行軍というように、山岳に入るに従って戦闘は次第に激しくなり、それにつれてもわが方の戦力は次第に消耗され、物資は日に日に少なくなり、一日五合《=約0,9リットル》の米が四合に、そして三合《=約0,54リットル》と減っていった。しかし、当時の私たちは最後の勝利を信じて山を越え野を征しての進軍と苦戦を続けていた。一ヵ月と予定されていた作戦が二ヵ月、三ヵ月となって、戦闘はますます困難なる様相を呈してきた。  (続く)

---------------------------------------------------------------------

 ( 大阪府河内長野市在住の吉田民夫様の手記を、ご本人のご了解をいただき三蔵志郎こと岡田守が代理で投稿しています。
 この手記の冒頭に記載されているように、吉田様は昭和15年、歩兵第四十四連隊に入隊、以後ニューギニア、マレー、フィリピンと南方各地を転戦され、九死に一生を得てベトナムで終戦にあい、その後現地で迎えた妻子とも死別される。昭和34年3月26日ベトナムからの帰国第一陣として、十九年ぶりに郷里の高知県に帰還された。当時のご年齢は39歳です。 この手記は郷里に帰還されから約一ヵ月後に取りまとめられたものです。)

  条件検索へ