Re: 故国を出てから19年、ベトナムからの帰国者吉田民夫氏の手記
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故国を出てから19年、ベトナムからの帰国者 吉田民夫氏の手記 <英訳あり> (三蔵志郎, 2005/8/8 0:37)
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Re: 故国を出てから19年、ベトナムからの帰国者吉田民夫氏の手記 (三蔵志郎, 2005/8/8 11:57)
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Re: 故国を出てから19年、ベトナムからの帰国者吉田民夫氏の手記 (三蔵志郎, 2005/8/10 11:10)
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Re: 故国を出てから19年、ベトナムからの帰国者吉田民夫氏の手記 (三蔵志郎, 2005/8/12 2:57)
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Re: 故国を出てから19年、ベトナムからの帰国者吉田民夫氏の手記 (三蔵志郎, 2005/8/13 16:11)
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Re: 故国を出てから19年、ベトナムからの帰国者吉田民夫氏の手記 (三蔵志郎, 2005/8/16 10:45)
- Re: 故国を出てから19年、ベトナムからの帰国者吉田民夫氏の手記 (三蔵志郎, 2005/8/27 1:48)
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三蔵志郎
居住地: 河内の国 金剛山麓
投稿数: 35
(7)沖縄の現実は想像外、 新しい人生行路へ出発。
沖縄で見た現実は私たちには想像できぬことであった。祖国の領土がいまなお、かっては祖国の敵であったアメリカの統治下にある姿をながめ、私はなにか悲しい気持ちであった。
私は照屋君の実弟や姉さんたちの家族に迎えられ、わずかに三時間ほどではあったが色々と沖縄の事情を聞いた。特に両親の死を聞かされた照屋君の気持ちはいかばかりであったか察するにあまりがあった。そして現在の沖縄と、自身の将来を思う時なにかの不安におびやかされているようであった。
午前四時ごろ船は出港したが、照屋君の家族は船の見えなくなるまで手をふっていた。それが照屋君と家族の最後の別れになろうとは夢にも思わぬことであった。
沖縄を出てからの照屋君は急に人が変わったようになった。あまり話もせず、食事もとらなかった。なにか考えにふけっているので「どうしたのか」と問うと彼は、弟も姉も皆殺しにされた夢を見たと、一人で悩んでいるようであった。
船は薄い夜霧の中を五島列島近くを静かに走っていた。私は明朝の上陸を楽しみに、夜の十一時ごろ就寝した。夜中の一時ごろであった。私は小用に起きた。照屋君は眠らず寝台の上に横になっていたが、私が帰ると話しかけてきた。彼は私に「ベトナムの地図を持って上がってよいだろうか」と尋ねた。私は変なことを聞くものだと思いながらも「そんなものは心配ない、記念に持って上がりなさい」といい、そのまま深い眠りに落ちた。
翌日の午前四時ごろ、前の船室から来た武田君に起された私たちははじめて照屋君のいないのに気がついた。別に気にもとめず、洗面を終って前の船室に行ってみた。照屋君は、と聞いたが誰も知らない。便所をのぞいてみたがいない。なにか暗い予感におそわれた私は、後甲板を捜したがそこにも彼の姿は見えない。
不吉なことでも起きたのではないかと思いながら、船尾の後方に回った私は、そこの上甲板で自殺している照屋君を発見した。私は彼をいだき上げ、大声で皆を呼び、人口呼吸を行ったが、だめだった。こうして照屋君は祖国を寸前にして苦しみながら不運な生涯を自分の手で閉じた。
こうした不幸の原因はいろいろあろうが、船が老朽船でなく、沖縄に寄港しなければこの悲劇は起らなかったかも知れない。
こうした苦闘の十九年に別れを告げて、私はいま温かい郷里の人々や山々に抱かれて、これからの新しい人生へ踏み出そうとしている。 ( 完 、昭和34年 )
沖縄で見た現実は私たちには想像できぬことであった。祖国の領土がいまなお、かっては祖国の敵であったアメリカの統治下にある姿をながめ、私はなにか悲しい気持ちであった。
私は照屋君の実弟や姉さんたちの家族に迎えられ、わずかに三時間ほどではあったが色々と沖縄の事情を聞いた。特に両親の死を聞かされた照屋君の気持ちはいかばかりであったか察するにあまりがあった。そして現在の沖縄と、自身の将来を思う時なにかの不安におびやかされているようであった。
午前四時ごろ船は出港したが、照屋君の家族は船の見えなくなるまで手をふっていた。それが照屋君と家族の最後の別れになろうとは夢にも思わぬことであった。
沖縄を出てからの照屋君は急に人が変わったようになった。あまり話もせず、食事もとらなかった。なにか考えにふけっているので「どうしたのか」と問うと彼は、弟も姉も皆殺しにされた夢を見たと、一人で悩んでいるようであった。
船は薄い夜霧の中を五島列島近くを静かに走っていた。私は明朝の上陸を楽しみに、夜の十一時ごろ就寝した。夜中の一時ごろであった。私は小用に起きた。照屋君は眠らず寝台の上に横になっていたが、私が帰ると話しかけてきた。彼は私に「ベトナムの地図を持って上がってよいだろうか」と尋ねた。私は変なことを聞くものだと思いながらも「そんなものは心配ない、記念に持って上がりなさい」といい、そのまま深い眠りに落ちた。
翌日の午前四時ごろ、前の船室から来た武田君に起された私たちははじめて照屋君のいないのに気がついた。別に気にもとめず、洗面を終って前の船室に行ってみた。照屋君は、と聞いたが誰も知らない。便所をのぞいてみたがいない。なにか暗い予感におそわれた私は、後甲板を捜したがそこにも彼の姿は見えない。
不吉なことでも起きたのではないかと思いながら、船尾の後方に回った私は、そこの上甲板で自殺している照屋君を発見した。私は彼をいだき上げ、大声で皆を呼び、人口呼吸を行ったが、だめだった。こうして照屋君は祖国を寸前にして苦しみながら不運な生涯を自分の手で閉じた。
こうした不幸の原因はいろいろあろうが、船が老朽船でなく、沖縄に寄港しなければこの悲劇は起らなかったかも知れない。
こうした苦闘の十九年に別れを告げて、私はいま温かい郷里の人々や山々に抱かれて、これからの新しい人生へ踏み出そうとしている。 ( 完 、昭和34年 )