@





       
ENGLISH
In preparation
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
ログイン

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失

Re: 故国を出てから19年、ベトナムからの帰国者吉田民夫氏の手記

投稿ツリー


このトピックの投稿一覧へ

三蔵志郎

通常 Re: 故国を出てから19年、ベトナムからの帰国者吉田民夫氏の手記

msg#
depth:
2
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/10 11:10
三蔵志郎  半人前 居住地: 河内の国 金剛山麓  投稿数: 35
(3)悲惨な“死の脱出行”、 疲労と飢えに倒れる戦友。
 ポートモレスビーの攻略戦は苦戦に苦戦が続き、戦闘は日増しに激しく、最初来た救援部隊の八百人は上陸地点で玉砕《ぎょくさい=玉が砕けるようないさぎよい死》二度目の部隊は海上で船ごと沈められるなど敗戦の報は相次いで私たちの耳に入った。明くれぱ昭和十八年の正月、司令部から配給を受けた、五人に一個のカン詰と、タバコ一本というさびしい正月てあった。、なんともいえない悲壮な色がただよっていた。
無事正月もすぎ一月下旬のある夜のことであった。夜の九時ごろ私たちは友軍の陣地が水を打ったように静かになっているのに気づいた。不気味にウルシを塗ったような真夜中に虫の鴫く声ぱかりがさびしく聞えていた。あまりの静けさに不思議に思った私たちの部隊はさっそく連絡を四方の友軍と司令部に出したが、すでにその時には各部隊も司令部も煙のごとく消えうせて猫の子一匹いなかった。各部隊はその前夜退却したことがわかった。
私たち生き残りの二十数名の者はさっそく出発準備を整え、磁石を唯一の頼りに、敵中突破を開始した。

いよいよ出発という時、脱出進路について二つの意見が対立した。五人の戦友は私たちと別れて反対方向のジャングルへ入っていった。それが彼らの最後でもあった。こうなっては指揮者は全然無力となり、私たちが先頭に立って信じる方向へ進路をとった。かくて一行十数名は敵陣地内を静かに突破、ジャングルの中を一歩、一歩と足音を殺して進む苦労は一通りではなかった。
黒闇の中にコースを西北にとり幾条かの敵の電話線の下をくぐりぬけ、決死の脱出を続けた。時々起る銃声を聞きながらかづらで体を木にしばって眠った。これという食料もなく、水を飲み、草を食っての疲労と餓死への戦でもあった。
その夕方、本隊の通った足跡を発見し、それを頼りに前進、出発してから十日目にやっと本隊に合流した。この十日間の脱出で幾百人の犠牲者が出たかはわからないが、私たちが見たのは幾多の戦友が、将校が、銃を肩に持たせ、軍刀を胸に抱いて木の根に草の上にやせ細った身体を横たえて餓死している姿であった。歩く気力もなく、疲労と飢えの戦いに倒れ、一度腰を下ろして眠れば、そのまま再び目のさめることはないのである。
私も何回かこの疲労と睡魔に襲われ、地上に倒れてはハット気づいて這いながら木の根にすがり、草に取りついて戦友の後に続き、九死に一生を得たのであった。数万に上る南海支隊の主力もこうして全滅に近づき、生き残っているのも当時わずかに三百余人であったが、その戦友たちもその後どうなったことか。

幾万の戦友が、熱き愛国心と平和のため、祖国のためを思い、苦しい戦闘に精も気力も尽きはてて悲惨な最期をクムシ河の流域にとげたことを思う時、私たち無事祖国に帰ることのできたことは、実に感無量なるものがある。
私たちは休養する間もなく、ラバウルに帰り、昭和十八年八月、再びご用船の人となって、サイパンよりマニラへ、マニラよりシンガポール、そしてビルマの戦線に到着したのは昭和十九年一月であった。

アラカン山脈の奥地、インドの国境近くで道路作業に従事した後、昭和二十年一月にはイラワヂ河の下流で警備につき、同年四月、ビルマ反乱軍の躍動とともにラングーン市に引き揚げ、北部ビルマ軍の本隊の追及準備を整えたうえ、ラングーン市よりペグーへ、そして北部に向かって前進すること二日、私たちは九十台の戦車部隊と空軍の援護下にある敵主力と衝突、四時間にわたる激戦ののち完全に敵の包囲下に陥入《おちい》った。敵は戦車を先頭に部落内に突入、味方は次々と戦死、意を決した中隊長は四、五十人の部下を従え、脱出を試みたが、五十メートルも走らぬうちに集中砲火を浴び、わずか三分余りで影も姿も見えなくなった。私たち残されたものは負傷兵を除いて約八人、陣地を死守して息もつまるばかりの硝煙の中で夜の七時まで死戦を続けた。夜に入って敵戦車の合間を傷ついた戦友を肩に脱出、再び九死に一生を得てモールメンの方向に下った。 
                           (続く)

  条件検索へ