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Re: 故国を出てから19年、ベトナムからの帰国者吉田民夫氏の手記

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三蔵志郎

通常 Re: 故国を出てから19年、ベトナムからの帰国者吉田民夫氏の手記

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/8 11:57
三蔵志郎  半人前 居住地: 河内の国 金剛山麓  投稿数: 35
(2)戦友濁流中に消える、後退、包囲、悲惨な戦闘。
 前進を開始してから三ヵ月、数十回の激戦を経て私たちはやっと最後の山岳を占領した。山の頂上から見下ろす延々たる平野には、モレスビーの市街が遠くかすんで見え、飛行場より飛び立つ敵機の爆音さえも聞こえていた。
しかし、山上を征服した部隊は、これ以上一歩も前進することを許されなかった。兵力は消耗し、糧秣《りょうまつ=食糧と馬のまぐさ》はすでになく、弾薬の補給はつかず、ただ肉弾をもって進撃するより方法がなかった。敵は一挙に私たちをせん滅しようと大部隊を集結して待っている。
こうした状況下に、軍には遂に後退命令が下り、私たちは幾多の戦友の屍《かばね》を後に、再び山また山の後退を続けた。一日わずか一合足らずの米と、イモを掘ったり、木の根を食い、敵の進撃と戦いながらの後退であった。

昭和十七年十月中旬、最後の山を下りた私たちはクレム河上流で敵の包囲を受けた。「敵中血路を開け」との命令が下っていたが、対岸を占領した敵は意外に強力で、しかも河は増水し、船なしでは渡れず、やむなく河の支流を渡って、河に沿い退却を開始した。道なきジャングルを切り開き下行したが、遂に行く道もなくなり、大木を切ってイカダを組み、ワニの群れとの戦いながら流れに乗って逃げた。この後退では幾多の戦友が激流にのまれ、あるいはワニのえじきとなった。私たちと行を共にした将官とその参謀も激流にのまれ行方不明となった。私の乗ったイカダも他のイカダに激突、危く命を落とすところであったが他のイカダに飛び移って辛うじて助かった。私の二人の戦友は間に合わず激流の中に消えていった。

対岸に上陸した私たちは焚《た》き火をし木の葉を食い、寒さと飢えをしのぎながらの五日のあとやっと海岸にたどり着き、部隊との連絡もとれ再び四月前に上陸したギルワ帰り、海岸から約四キロの地点で最後の死闘を命ぜられた。
私たちの部隊はジャングルの中に陣地を造り、戦闘を開始した。彼我の攻防は日に日に激烈をきわめ、大木は砲弾と爆撃に折れ、ジャングルは一面の荒野と化していた。祖国を離れた数千里のこの島には、物資の補給はなく、米の配給も制限され、一合の米が二日に一度、三日に一度となり、遂に一粒の米もなくなった。私たちは激戦の合間に陣地付近の木の根を掘り、草を取り、食えるものはなんでも食って、衰弱しきった体を引きずって戦闘を続けた。

戦線は雨季に入り、水は陣地を流して戦場は大海と化し、戦友は敵弾と飢えと病気のためい次々と倒れてゆき、工兵も、野戦病院の兵隊も指令部付きの者も全員戦闘に参加し、それぞれの部署を守って戦った。二百人近かった私たちの中隊から次第に戦友が姿を消しわずか三十人ほどになった。きょうかあすかも知れぬ最後の日を待ちながらの戦闘で、生きて故国の土が踏めようなどとは思いもよらなかった。
こうして苦戦を続けていた私たちの部隊も、遂に敵の包囲を受け、どうすることもできなくなった。負傷した戦友は陣地内にある野戦病院に送った。野戦病院といっても名ばかりで、なに一つ医療品もなく、ジャングルに丸木で寝台を造った露天病院であり、そこに数百人の負傷兵が、ある者は死に、ある者は断末魔に苦しみ、死臭は遠く陣地までおおいかぶさるという、まるで生地獄のようであった。やがて自分もこんな姿になるのかと思うと、死んでも死に切れない気持ちであった。  (続く)

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