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Re: 故国を出てから19年、ベトナムからの帰国者吉田民夫氏の手記

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三蔵志郎

通常 Re: 故国を出てから19年、ベトナムからの帰国者吉田民夫氏の手記

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/12 2:57
三蔵志郎  半人前 居住地: 河内の国 金剛山麓  投稿数: 35
(4)無条件権降伏に悲憤、  使役中に置去られる
 昭和二十年八月十五日、私たちの部隊は、各部隊の生残りによって新編成され、モールメン南方から仏印に下り集結の準備をしていた。
そこの野戦郵便局にいる係員から、戦争は停戦になったらしいとの話を聞いたが、私たちは一笑に付し信じてはいなかった。その夜、部隊は汽車でタイメン鉄路を一路バンコックに向け出発、タイメン国境で下車、兵舎に入って初めて状況の変化を知った。
国境を警備している部隊が、全部の兵器を出し、菊の紋章をすり消していたのだ。不思議に思った私たちが、「どうするのか」と聞くと、彼らは平然として「兵器を敵に渡すのだ」といっていた。それ以上のことはなんともわからず私らは半信半疑の複雑な気持ちでバンコックに着き、そこで初めて日本軍の無条件降伏の事実を知り胸底よりこみ上げてくる憤りで泣きたいような気持ちであった。信じようとしても信じられない複雑な思いを胸にして、カンボジアのロメスに落ちついた。

 昭和二十年八月二十九日だったと思う。私は部隊の命令で戦友と二人でブノペン市に行き、薬品を受領していた。一部受領した薬品は戦友が持って帰隊し、私は残品を受領するためブノペンに残っていた。
明くれば九月一日、私は兵站《へいたん=部隊後方にあって物資の輸送や連絡など担当する》宿舎前の告示を見て驚いた。「連合軍の命により日本軍全交通機関は八月三十日より停止、爾後《じご=その後》二百四十時間以内に武装解除を受ける」と出ていた。私はすぐ駅に行き帰隊しようとしたが、駅はすでに日本軍憲兵が周囲を警備し、日本兵の立入りを許さない。意を決した私は歩いて知らぬ道を、鉄道線路を唯一のたよりに約百㌔余も歩き九月四日早朝、やっと部隊の所在地へ帰ってきた。だが、そこには兵隊の姿は一人もなく、途方にくれた私はどうしてよいかもわからず呆然と人なき兵舎を見ていた。そこにはなに一つ残されたものはなく、ガランとした兵舎と紙くずが散乱していただけであった。

 しばらく休んだのち気をとり戻した私は部隊の行方を尋ねて、部落から部落へ、町を過ぎ、平原を過ぎ、言葉もわからない異国の中をさまよい歩いた。あるときは野に伏し、あるときは山寺に寝ながらさびしい孤独感におそわれ、自分の悲しい運命に泣きぬれた。
そうするうち、いつしか私は山中に迷い込んでいた。果てしなく続く山道を西に東に、南に北と、水を飲み、木の実を食い、夜に入ればただ一人谷間に火をたいて遠く近くに聞こえる獣の声に驚かされながら歩き続けた。

 部隊の全滅、そして敗戦、いままた孤独の運命に陥ろうとは、泣いても泣ききれず、呼ぶには人もなし、いまは神も仏もなく、ただ一人生きて行くのだろうかと思うと、死んでも死に切れぬ思いであった。
そうして歩くこと約一ヵ月、私はソンケシートという山寺にたどり着いた。精根尽き果てた私は乞食《こじき》となって寺に食を求めたが、幸い寺人の好意でしばらく、この寺に落ち着くことができた。

 月日は流れそれから六ヵ月たったある日のこと日本語の知っているベトナム人の行商が来た。その話によると、いま日本軍はベトナムのバリアにいるとのことであった。私は意を決しベトナム人とともに南ベトナムに入り、バクリューといういなか町で住民の暖かい援助を受け、農業を行って自活を始め日本軍との再会の機会を待っていた。
しかし、当時のベトナムは民衆と仏軍との間に戦争が始まり、私はどこへも行くことができず、戦が激しくなるにつれ身辺にも危険を感じるようになった。私は住民の避難者とともにメコン川を渡り、起高国境近くの山村部落で、再び自活を始めた。

 ベトナムの戦争は日増しに発展していくようで、町との連絡は絶え道の要所要所には民軍が竹やりを持って立っていた。日のたつにつれ仏軍機が部落の上空を飛ぶようになり、ここでも危険を感じた私は、再び住民とともに数百㌔北部の山間に入り、山を開いて自活を始めた。     (続く)

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