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Re: 故国を出てから19年、ベトナムからの帰国者吉田民夫氏の手記

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三蔵志郎

通常 Re: 故国を出てから19年、ベトナムからの帰国者吉田民夫氏の手記

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/13 16:11
三蔵志郎  半人前 居住地: 河内の国 金剛山麓  投稿数: 35
(5)爆撃で妻子を失う、 帰国までハイフォンで働く
 仏軍とベトナム人民軍の戦いが悪化するとともに避難先から避難先へと落ち着く先も知らず、いまは帰国の望みも絶え果てた私は、自分の運命をこの地にかけようと、意を決して現地妻を迎え、一女を得た。
 昭和二十七年一月であった。私は再び大きな悲しみに打ちひしがれた。それは私が仕事に出ている留守中に、突如仏軍機の爆撃を受け、家は焼かれ、妻子もろともその犠牲になった。帰国はおろか、安全の地さえなく、またしても不幸のどん底に突き落とされ、いまは天を恨み地に怒り、そして戦争をのろった。涙のうちに葬式をすました私は、間もなく住民とともに流浪の旅に出た。そして昭和二十七年から三年あまりは落ち着く所もなく、ただその日その日を生きるがために苦しいいばらの道を歩んできた。

 ある時は山奥深くジャングルに入り、部落より部落へと職を求めに人夫となり、農夫となって、生きるための長い旅はいつ果てるとも思われない状態であった。その間に幾度か熱病にかかり、マラリアにうなされ、死の一歩手前をさまよったが、べトナム人の深い情と民族を越えた愛情に助けられ、生きつづけた。
 こんな苦しい思い出の中にも、また数々の愉快な思い出もあった。中部ベトナムの山中にいた時、私はベトナム人とともに象狩りや野牛射ちに行くことが度々あった。数十頭の群象を射つ時のスリルと、百頭余りの野牛の群れにいどむ時の興奮は南国の大陸ならでは味わえないそう快なものであった。
 またある時は象の背に乗り自分の思いのままに象をあやつり、山また山の高原を行く時、不幸な自分の運命を忘れて、祖国高知の山々を思わせるような松林に露営し、明日の行く手を考え、夜に入って松のこずえに見る月には、故郷の父母兄弟もあの月をながめているのだろうかと思うと、胸がいっぱいになった。

 こうした人生行路は知らず知らずのうちに私の足を北ベトナムに運んでいた。昭和三十年、私はタンボリという小さな町の製材工場に人夫として働いた。戦いも終りをつげ、この町にも平和の空気がみなぎっていた。
 翌三十一年、ハイフォン市に缶詰工場建設のための人夫採用があると聞きさっそく申し込んだが、幸い八月にハイフォン缶詰工場の建設工事に雇われ、三十二年一月から機械組立工として働いた。その技術が認められ、技術検査員として私は帰国までそこで働いた。
 この工場は、ソ連の無償援助によるもので、設備は非常に近代的でオートメーション化しており、ソ連製と東ドイツ製の機械が備えられていた。建設と生産にはソ連の技術者数十人が技術指導をしていた。また漁船の方も大々的な設備を進め、本格的に魚缶詰の製造を開始していた。

 この工場に来て初めて秋田県出身の武田という人に会い十幾年ぶりに日本人同士で話をしたが、二人とも日本語が十分話せず、殆ど《ほとんど》ベトナム語で話した。
 昭和三十二年八月ごろであった。日本平和代表団の坂本徳松、国会議員の岡田春男の両氏が工場参観に見えられ、私も面会を許されたが、十数年ぶりに懐かしい祖国を代表する方々を見た時、その懐かしさは言語につくせぬものがあった。
 時間もなく、つもる話もできず、お別れをしたが、さいわいにも坂本先生が私と同県人であり、懐かしの故郷、家族との連絡がつき、いまさらながら、ああよくぞ生きていたものだと感激で泣けた。      (続く)

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