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Re: 故国を出てから19年、ベトナムからの帰国者吉田民夫氏の手記

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三蔵志郎

通常 Re: 故国を出てから19年、ベトナムからの帰国者吉田民夫氏の手記

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/16 10:45
三蔵志郎  半人前 居住地: 河内の国 金剛山麓  投稿数: 35
(6)引き上げ船で一路祖国へ、 沖縄の変貌《へんぼう》に驚く。
 工場で働いているうちに段々と帰国の問題がやかましくなり、昭和三十三年十二月、ハノイで日本の代表団とベトナ側との間に話合いが成立、私たち九人の第一回帰国者は昭和三十四年二月二日ハノイに集合、ベトナム赤十字会、ベトナム世界平和委貝会の終始一貰した人道的精神と、友好的愛情に送られて、数知れぬ思い出と名残りを残し、第二の故郷ともいうべきベトナムの山河に別れを告げ、ホンガイから夕張丸に乗船一路租国に向かって出航した。
船には日赤の宮本、中村両先生と日本平和委員会の広田先生が私たちにつきそって乗船した。私たちは十九年振りに味わうミソ汁、タクワン、そして巻ずしなど、祖国のかおりに酔い、ただただ祖国のなつかしさに感激していた。

 二月八日、最後の港カムファーを出航して香港に向かった。穏やかだった海上は次第に荒れ始め三十余年を経たという老朽船は不気味にゆれ海南沖ではますます波は高くなっていた。
 はるかに海南島を臨み今日はなき兄の面影を偲《しの》び「兄よ安らかに眠り給え」と感慨無量な気持ちで祈った。
二月十一日、美しいネオンの輝く港・香港に入港、ほっとする間もなく、船は再び祖国へ向けて荒波にもまれていた。風はますます強く、船はまるで木の葉のように前後左右に不気味な音を立ててゆれ今にも沈むのではないかと思われるようであった。
 三名の友はもう何日も食事をとらず寝たきりであった。こうした中にも帰国者の一人照屋君は大変元気で皆の世話に走りまわっていた。
 数日後船はやっと台湾沖を進んでいた。波のため船底に穴があき海水は油タンクに入り、船は大洋の荒波の中で何回も停止したりした。口にこそ出さないが、船にいる者はみんな不安そうな暗い顔をしていた。
 
 今まで生きながらえて、祖国を目前にして死ぬのだろうかと不吉な考えさえ起るのだった。荒波にもまれた老朽船は祖国には直行できず、油の補給を受けにタンカー船にひかれて二月二十一日沖縄に入港した。沖縄育ちの照屋君は船中で沖縄の実弟から電報を受け大変な喜びようであった。日本平和委員会の広田先生はさっそく政府に電報を打ち、照屋君を沖縄で上陸させ弟さんの家に帰るよう申し入れたが、なぜか政府は許さなかった。
 沖縄に着いて、驚いたのは数十機のジェット機が不気味な騒音を島いっぱいに立てて絶え間なく飛んでおり、海上には数隻の軍艦が浮城のような威容を誇り、時々爆弾投下の轟音《ごうおん》が聞こえていた。また高い山の頂上には物ものしいレーダー基地がかすんで見え、まことに騒然たるもので、いやな気持ちであった。   ( 続く )

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