故国を出てから19年、ベトナムからの帰国者 吉田民夫氏の手記 <英訳あり>
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- 故国を出てから19年、ベトナムからの帰国者 吉田民夫氏の手記 <英訳あり> (三蔵志郎, 2005/8/8 0:37)
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投稿日時 2005/8/8 0:37
三蔵志郎
居住地: 河内の国 金剛山麓
投稿数: 35
(1)真夜中に集合ラッパ、目的地知らされずに南方へ
昭和15年2月、歩兵四十四連隊に入隊し、私はその後工兵第五十五連隊に転属し、衛生兵として服務していた。
明けて昭和十六年十月下旬、晩秋の寒さを覚える午前1時ごろ、集合ラッパに起された。私達は新しい戦用軍装に身を包み営庭《えいてい=兵舎の広場》に整列。出陣の命を待っていた。きらめく銃剣の光が夜空に不気味な光を放ち、夜半《よわ=夜ふけ》の空気を圧していた。
やがて部隊は静かに営門を出て寝静まった善通寺の町をすぎ、夜のほのぼのと明けるころ私達は坂出の港に着いた。港の周辺には赤い腕章の憲兵《けんぺい=軍事警察の兵》がいかめしく警戒しており、桟橋《さんばし》には黒々としたご用船《=輸送船》が待っていた。
私たちはこの出陣がなんであるかは無意識のうちにわかっており、近く米国と戦うらしいとささやいている兵隊もいた。しかし、どこの地にいかなる運命が私たちを待ち受けているかは誰も予想し得ぬことであった。果たして幾人がこの港に帰ってきえたことだろうか。
「男子一度征途《せいと=出征の道》につかんか勝たづんば生きて再び帰るまじ」と誓って出陣した私たちは、この戦争がなにの目的であるか、それが正義であるか否かをただすことは許されなかった。
ただ一途に東洋平和のため、それが日本国民の最大の望みであり、私たちに与えられた重大使命であるとのみ信じていた。いまにして思えば、そうした考えがいかに祖国の将来と国民に悲惨なる運命をもたらしたことか。
ご用船団は、祖国の山河と最後の別れをおしみながら紀伊水道を出て針路を東南にとり、途中母島で上陸演習を行ない、冬服を夏服に着かえ、護衛艦に守られながら、さらに南へ航行、十二月八日には太平洋上で宣戦布告《開戦の宣言》とハワイ海戦の大勝の報に、士気は大いにあがり、十二月十日、グアム島上陸を決行した。
無敵の戦野を行くごとき私たちは、昭和十七年一月上旬には再びご用船の人となり、日本軍として最初の赤道を通過、同月末にはラバウルに上陸を決行、そのままラバウル市の警備についていた。占領二ヵ月ごろから毎日のように敵機の空襲を受けた。当時すでに敵の反攻が日増しに強化されていくようすであった。
昭和十七年五月、私たちは再びご用船に乗せられ、ニューギニアのポートモレスビーの攻略に向かった。ここでは敵艦隊の反攻を受け大海戦となり、私たちの船団七日間珊瑚海《さんごかい》の中できょうかあすかと、死の運命を待っていたが、幸いにして再びラバウルに帰ってくることが出来た。
この渡海作戦に失敗した私たちの部隊はしばらくラバウルに待機し、昭和十七年七月ご用船でニューギニア島(ギルワ)に上陸、陸路前進を開始した。戦いは非常な苦戦となり、数万の部隊のうち生きて基地に帰ったものはわずか三百余人であった。私はその戦場の生き残りの一人として戦争がいかに悲惨なものであるかをつくづくこの身で味わった。
かくて、第一回モレスビーの攻略作戦に失敗した南方軍は、陸路再びモレスビーの攻略を開始した。陸路五百余キロ、山また山の山岳戦は海抜4千メートルの高峰を越えての作戦であり、実に無謀きわまるものであった。私たちは各々三十キロの装備を身につけ、ジャングルを切り開き、川を渡って赤道直下の強烈な日差しを受けながらの行軍は、一日の歩程わずか十数キロ、前進十数日の後やっと戦闘は開始された。
敵は山岳の要所要所に陣地を張り、日本軍の前進を阻止《そし》している。三日戦えば二日行軍、四日戦えば三日行軍というように、山岳に入るに従って戦闘は次第に激しくなり、それにつれてもわが方の戦力は次第に消耗され、物資は日に日に少なくなり、一日五合《=約0,9リットル》の米が四合に、そして三合《=約0,54リットル》と減っていった。しかし、当時の私たちは最後の勝利を信じて山を越え野を征しての進軍と苦戦を続けていた。一ヵ月と予定されていた作戦が二ヵ月、三ヵ月となって、戦闘はますます困難なる様相を呈してきた。 (続く)
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( 大阪府河内長野市在住の吉田民夫様の手記を、ご本人のご了解をいただき三蔵志郎こと岡田守が代理で投稿しています。
この手記の冒頭に記載されているように、吉田様は昭和15年、歩兵第四十四連隊に入隊、以後ニューギニア、マレー、フィリピンと南方各地を転戦され、九死に一生を得てベトナムで終戦にあい、その後現地で迎えた妻子とも死別される。昭和34年3月26日ベトナムからの帰国第一陣として、十九年ぶりに郷里の高知県に帰還された。当時のご年齢は39歳です。 この手記は郷里に帰還されから約一ヵ月後に取りまとめられたものです。)
三蔵志郎
居住地: 河内の国 金剛山麓
投稿数: 35
(2)戦友濁流中に消える、後退、包囲、悲惨な戦闘。
前進を開始してから三ヵ月、数十回の激戦を経て私たちはやっと最後の山岳を占領した。山の頂上から見下ろす延々たる平野には、モレスビーの市街が遠くかすんで見え、飛行場より飛び立つ敵機の爆音さえも聞こえていた。
しかし、山上を征服した部隊は、これ以上一歩も前進することを許されなかった。兵力は消耗し、糧秣《りょうまつ=食糧と馬のまぐさ》はすでになく、弾薬の補給はつかず、ただ肉弾をもって進撃するより方法がなかった。敵は一挙に私たちをせん滅しようと大部隊を集結して待っている。
こうした状況下に、軍には遂に後退命令が下り、私たちは幾多の戦友の屍《かばね》を後に、再び山また山の後退を続けた。一日わずか一合足らずの米と、イモを掘ったり、木の根を食い、敵の進撃と戦いながらの後退であった。
昭和十七年十月中旬、最後の山を下りた私たちはクレム河上流で敵の包囲を受けた。「敵中血路を開け」との命令が下っていたが、対岸を占領した敵は意外に強力で、しかも河は増水し、船なしでは渡れず、やむなく河の支流を渡って、河に沿い退却を開始した。道なきジャングルを切り開き下行したが、遂に行く道もなくなり、大木を切ってイカダを組み、ワニの群れとの戦いながら流れに乗って逃げた。この後退では幾多の戦友が激流にのまれ、あるいはワニのえじきとなった。私たちと行を共にした将官とその参謀も激流にのまれ行方不明となった。私の乗ったイカダも他のイカダに激突、危く命を落とすところであったが他のイカダに飛び移って辛うじて助かった。私の二人の戦友は間に合わず激流の中に消えていった。
対岸に上陸した私たちは焚《た》き火をし木の葉を食い、寒さと飢えをしのぎながらの五日のあとやっと海岸にたどり着き、部隊との連絡もとれ再び四月前に上陸したギルワ帰り、海岸から約四キロの地点で最後の死闘を命ぜられた。
私たちの部隊はジャングルの中に陣地を造り、戦闘を開始した。彼我の攻防は日に日に激烈をきわめ、大木は砲弾と爆撃に折れ、ジャングルは一面の荒野と化していた。祖国を離れた数千里のこの島には、物資の補給はなく、米の配給も制限され、一合の米が二日に一度、三日に一度となり、遂に一粒の米もなくなった。私たちは激戦の合間に陣地付近の木の根を掘り、草を取り、食えるものはなんでも食って、衰弱しきった体を引きずって戦闘を続けた。
戦線は雨季に入り、水は陣地を流して戦場は大海と化し、戦友は敵弾と飢えと病気のためい次々と倒れてゆき、工兵も、野戦病院の兵隊も指令部付きの者も全員戦闘に参加し、それぞれの部署を守って戦った。二百人近かった私たちの中隊から次第に戦友が姿を消しわずか三十人ほどになった。きょうかあすかも知れぬ最後の日を待ちながらの戦闘で、生きて故国の土が踏めようなどとは思いもよらなかった。
こうして苦戦を続けていた私たちの部隊も、遂に敵の包囲を受け、どうすることもできなくなった。負傷した戦友は陣地内にある野戦病院に送った。野戦病院といっても名ばかりで、なに一つ医療品もなく、ジャングルに丸木で寝台を造った露天病院であり、そこに数百人の負傷兵が、ある者は死に、ある者は断末魔に苦しみ、死臭は遠く陣地までおおいかぶさるという、まるで生地獄のようであった。やがて自分もこんな姿になるのかと思うと、死んでも死に切れない気持ちであった。 (続く)
前進を開始してから三ヵ月、数十回の激戦を経て私たちはやっと最後の山岳を占領した。山の頂上から見下ろす延々たる平野には、モレスビーの市街が遠くかすんで見え、飛行場より飛び立つ敵機の爆音さえも聞こえていた。
しかし、山上を征服した部隊は、これ以上一歩も前進することを許されなかった。兵力は消耗し、糧秣《りょうまつ=食糧と馬のまぐさ》はすでになく、弾薬の補給はつかず、ただ肉弾をもって進撃するより方法がなかった。敵は一挙に私たちをせん滅しようと大部隊を集結して待っている。
こうした状況下に、軍には遂に後退命令が下り、私たちは幾多の戦友の屍《かばね》を後に、再び山また山の後退を続けた。一日わずか一合足らずの米と、イモを掘ったり、木の根を食い、敵の進撃と戦いながらの後退であった。
昭和十七年十月中旬、最後の山を下りた私たちはクレム河上流で敵の包囲を受けた。「敵中血路を開け」との命令が下っていたが、対岸を占領した敵は意外に強力で、しかも河は増水し、船なしでは渡れず、やむなく河の支流を渡って、河に沿い退却を開始した。道なきジャングルを切り開き下行したが、遂に行く道もなくなり、大木を切ってイカダを組み、ワニの群れとの戦いながら流れに乗って逃げた。この後退では幾多の戦友が激流にのまれ、あるいはワニのえじきとなった。私たちと行を共にした将官とその参謀も激流にのまれ行方不明となった。私の乗ったイカダも他のイカダに激突、危く命を落とすところであったが他のイカダに飛び移って辛うじて助かった。私の二人の戦友は間に合わず激流の中に消えていった。
対岸に上陸した私たちは焚《た》き火をし木の葉を食い、寒さと飢えをしのぎながらの五日のあとやっと海岸にたどり着き、部隊との連絡もとれ再び四月前に上陸したギルワ帰り、海岸から約四キロの地点で最後の死闘を命ぜられた。
私たちの部隊はジャングルの中に陣地を造り、戦闘を開始した。彼我の攻防は日に日に激烈をきわめ、大木は砲弾と爆撃に折れ、ジャングルは一面の荒野と化していた。祖国を離れた数千里のこの島には、物資の補給はなく、米の配給も制限され、一合の米が二日に一度、三日に一度となり、遂に一粒の米もなくなった。私たちは激戦の合間に陣地付近の木の根を掘り、草を取り、食えるものはなんでも食って、衰弱しきった体を引きずって戦闘を続けた。
戦線は雨季に入り、水は陣地を流して戦場は大海と化し、戦友は敵弾と飢えと病気のためい次々と倒れてゆき、工兵も、野戦病院の兵隊も指令部付きの者も全員戦闘に参加し、それぞれの部署を守って戦った。二百人近かった私たちの中隊から次第に戦友が姿を消しわずか三十人ほどになった。きょうかあすかも知れぬ最後の日を待ちながらの戦闘で、生きて故国の土が踏めようなどとは思いもよらなかった。
こうして苦戦を続けていた私たちの部隊も、遂に敵の包囲を受け、どうすることもできなくなった。負傷した戦友は陣地内にある野戦病院に送った。野戦病院といっても名ばかりで、なに一つ医療品もなく、ジャングルに丸木で寝台を造った露天病院であり、そこに数百人の負傷兵が、ある者は死に、ある者は断末魔に苦しみ、死臭は遠く陣地までおおいかぶさるという、まるで生地獄のようであった。やがて自分もこんな姿になるのかと思うと、死んでも死に切れない気持ちであった。 (続く)
三蔵志郎
居住地: 河内の国 金剛山麓
投稿数: 35
(3)悲惨な“死の脱出行”、 疲労と飢えに倒れる戦友。
ポートモレスビーの攻略戦は苦戦に苦戦が続き、戦闘は日増しに激しく、最初来た救援部隊の八百人は上陸地点で玉砕《ぎょくさい=玉が砕けるようないさぎよい死》二度目の部隊は海上で船ごと沈められるなど敗戦の報は相次いで私たちの耳に入った。明くれぱ昭和十八年の正月、司令部から配給を受けた、五人に一個のカン詰と、タバコ一本というさびしい正月てあった。、なんともいえない悲壮な色がただよっていた。
無事正月もすぎ一月下旬のある夜のことであった。夜の九時ごろ私たちは友軍の陣地が水を打ったように静かになっているのに気づいた。不気味にウルシを塗ったような真夜中に虫の鴫く声ぱかりがさびしく聞えていた。あまりの静けさに不思議に思った私たちの部隊はさっそく連絡を四方の友軍と司令部に出したが、すでにその時には各部隊も司令部も煙のごとく消えうせて猫の子一匹いなかった。各部隊はその前夜退却したことがわかった。
私たち生き残りの二十数名の者はさっそく出発準備を整え、磁石を唯一の頼りに、敵中突破を開始した。
いよいよ出発という時、脱出進路について二つの意見が対立した。五人の戦友は私たちと別れて反対方向のジャングルへ入っていった。それが彼らの最後でもあった。こうなっては指揮者は全然無力となり、私たちが先頭に立って信じる方向へ進路をとった。かくて一行十数名は敵陣地内を静かに突破、ジャングルの中を一歩、一歩と足音を殺して進む苦労は一通りではなかった。
黒闇の中にコースを西北にとり幾条かの敵の電話線の下をくぐりぬけ、決死の脱出を続けた。時々起る銃声を聞きながらかづらで体を木にしばって眠った。これという食料もなく、水を飲み、草を食っての疲労と餓死への戦でもあった。
その夕方、本隊の通った足跡を発見し、それを頼りに前進、出発してから十日目にやっと本隊に合流した。この十日間の脱出で幾百人の犠牲者が出たかはわからないが、私たちが見たのは幾多の戦友が、将校が、銃を肩に持たせ、軍刀を胸に抱いて木の根に草の上にやせ細った身体を横たえて餓死している姿であった。歩く気力もなく、疲労と飢えの戦いに倒れ、一度腰を下ろして眠れば、そのまま再び目のさめることはないのである。
私も何回かこの疲労と睡魔に襲われ、地上に倒れてはハット気づいて這いながら木の根にすがり、草に取りついて戦友の後に続き、九死に一生を得たのであった。数万に上る南海支隊の主力もこうして全滅に近づき、生き残っているのも当時わずかに三百余人であったが、その戦友たちもその後どうなったことか。
幾万の戦友が、熱き愛国心と平和のため、祖国のためを思い、苦しい戦闘に精も気力も尽きはてて悲惨な最期をクムシ河の流域にとげたことを思う時、私たち無事祖国に帰ることのできたことは、実に感無量なるものがある。
私たちは休養する間もなく、ラバウルに帰り、昭和十八年八月、再びご用船の人となって、サイパンよりマニラへ、マニラよりシンガポール、そしてビルマの戦線に到着したのは昭和十九年一月であった。
アラカン山脈の奥地、インドの国境近くで道路作業に従事した後、昭和二十年一月にはイラワヂ河の下流で警備につき、同年四月、ビルマ反乱軍の躍動とともにラングーン市に引き揚げ、北部ビルマ軍の本隊の追及準備を整えたうえ、ラングーン市よりペグーへ、そして北部に向かって前進すること二日、私たちは九十台の戦車部隊と空軍の援護下にある敵主力と衝突、四時間にわたる激戦ののち完全に敵の包囲下に陥入《おちい》った。敵は戦車を先頭に部落内に突入、味方は次々と戦死、意を決した中隊長は四、五十人の部下を従え、脱出を試みたが、五十メートルも走らぬうちに集中砲火を浴び、わずか三分余りで影も姿も見えなくなった。私たち残されたものは負傷兵を除いて約八人、陣地を死守して息もつまるばかりの硝煙の中で夜の七時まで死戦を続けた。夜に入って敵戦車の合間を傷ついた戦友を肩に脱出、再び九死に一生を得てモールメンの方向に下った。
(続く)
ポートモレスビーの攻略戦は苦戦に苦戦が続き、戦闘は日増しに激しく、最初来た救援部隊の八百人は上陸地点で玉砕《ぎょくさい=玉が砕けるようないさぎよい死》二度目の部隊は海上で船ごと沈められるなど敗戦の報は相次いで私たちの耳に入った。明くれぱ昭和十八年の正月、司令部から配給を受けた、五人に一個のカン詰と、タバコ一本というさびしい正月てあった。、なんともいえない悲壮な色がただよっていた。
無事正月もすぎ一月下旬のある夜のことであった。夜の九時ごろ私たちは友軍の陣地が水を打ったように静かになっているのに気づいた。不気味にウルシを塗ったような真夜中に虫の鴫く声ぱかりがさびしく聞えていた。あまりの静けさに不思議に思った私たちの部隊はさっそく連絡を四方の友軍と司令部に出したが、すでにその時には各部隊も司令部も煙のごとく消えうせて猫の子一匹いなかった。各部隊はその前夜退却したことがわかった。
私たち生き残りの二十数名の者はさっそく出発準備を整え、磁石を唯一の頼りに、敵中突破を開始した。
いよいよ出発という時、脱出進路について二つの意見が対立した。五人の戦友は私たちと別れて反対方向のジャングルへ入っていった。それが彼らの最後でもあった。こうなっては指揮者は全然無力となり、私たちが先頭に立って信じる方向へ進路をとった。かくて一行十数名は敵陣地内を静かに突破、ジャングルの中を一歩、一歩と足音を殺して進む苦労は一通りではなかった。
黒闇の中にコースを西北にとり幾条かの敵の電話線の下をくぐりぬけ、決死の脱出を続けた。時々起る銃声を聞きながらかづらで体を木にしばって眠った。これという食料もなく、水を飲み、草を食っての疲労と餓死への戦でもあった。
その夕方、本隊の通った足跡を発見し、それを頼りに前進、出発してから十日目にやっと本隊に合流した。この十日間の脱出で幾百人の犠牲者が出たかはわからないが、私たちが見たのは幾多の戦友が、将校が、銃を肩に持たせ、軍刀を胸に抱いて木の根に草の上にやせ細った身体を横たえて餓死している姿であった。歩く気力もなく、疲労と飢えの戦いに倒れ、一度腰を下ろして眠れば、そのまま再び目のさめることはないのである。
私も何回かこの疲労と睡魔に襲われ、地上に倒れてはハット気づいて這いながら木の根にすがり、草に取りついて戦友の後に続き、九死に一生を得たのであった。数万に上る南海支隊の主力もこうして全滅に近づき、生き残っているのも当時わずかに三百余人であったが、その戦友たちもその後どうなったことか。
幾万の戦友が、熱き愛国心と平和のため、祖国のためを思い、苦しい戦闘に精も気力も尽きはてて悲惨な最期をクムシ河の流域にとげたことを思う時、私たち無事祖国に帰ることのできたことは、実に感無量なるものがある。
私たちは休養する間もなく、ラバウルに帰り、昭和十八年八月、再びご用船の人となって、サイパンよりマニラへ、マニラよりシンガポール、そしてビルマの戦線に到着したのは昭和十九年一月であった。
アラカン山脈の奥地、インドの国境近くで道路作業に従事した後、昭和二十年一月にはイラワヂ河の下流で警備につき、同年四月、ビルマ反乱軍の躍動とともにラングーン市に引き揚げ、北部ビルマ軍の本隊の追及準備を整えたうえ、ラングーン市よりペグーへ、そして北部に向かって前進すること二日、私たちは九十台の戦車部隊と空軍の援護下にある敵主力と衝突、四時間にわたる激戦ののち完全に敵の包囲下に陥入《おちい》った。敵は戦車を先頭に部落内に突入、味方は次々と戦死、意を決した中隊長は四、五十人の部下を従え、脱出を試みたが、五十メートルも走らぬうちに集中砲火を浴び、わずか三分余りで影も姿も見えなくなった。私たち残されたものは負傷兵を除いて約八人、陣地を死守して息もつまるばかりの硝煙の中で夜の七時まで死戦を続けた。夜に入って敵戦車の合間を傷ついた戦友を肩に脱出、再び九死に一生を得てモールメンの方向に下った。
(続く)
三蔵志郎
居住地: 河内の国 金剛山麓
投稿数: 35
(4)無条件権降伏に悲憤、 使役中に置去られる
昭和二十年八月十五日、私たちの部隊は、各部隊の生残りによって新編成され、モールメン南方から仏印に下り集結の準備をしていた。
そこの野戦郵便局にいる係員から、戦争は停戦になったらしいとの話を聞いたが、私たちは一笑に付し信じてはいなかった。その夜、部隊は汽車でタイメン鉄路を一路バンコックに向け出発、タイメン国境で下車、兵舎に入って初めて状況の変化を知った。
国境を警備している部隊が、全部の兵器を出し、菊の紋章をすり消していたのだ。不思議に思った私たちが、「どうするのか」と聞くと、彼らは平然として「兵器を敵に渡すのだ」といっていた。それ以上のことはなんともわからず私らは半信半疑の複雑な気持ちでバンコックに着き、そこで初めて日本軍の無条件降伏の事実を知り胸底よりこみ上げてくる憤りで泣きたいような気持ちであった。信じようとしても信じられない複雑な思いを胸にして、カンボジアのロメスに落ちついた。
昭和二十年八月二十九日だったと思う。私は部隊の命令で戦友と二人でブノペン市に行き、薬品を受領していた。一部受領した薬品は戦友が持って帰隊し、私は残品を受領するためブノペンに残っていた。
明くれば九月一日、私は兵站《へいたん=部隊後方にあって物資の輸送や連絡など担当する》宿舎前の告示を見て驚いた。「連合軍の命により日本軍全交通機関は八月三十日より停止、爾後《じご=その後》二百四十時間以内に武装解除を受ける」と出ていた。私はすぐ駅に行き帰隊しようとしたが、駅はすでに日本軍憲兵が周囲を警備し、日本兵の立入りを許さない。意を決した私は歩いて知らぬ道を、鉄道線路を唯一のたよりに約百㌔余も歩き九月四日早朝、やっと部隊の所在地へ帰ってきた。だが、そこには兵隊の姿は一人もなく、途方にくれた私はどうしてよいかもわからず呆然と人なき兵舎を見ていた。そこにはなに一つ残されたものはなく、ガランとした兵舎と紙くずが散乱していただけであった。
しばらく休んだのち気をとり戻した私は部隊の行方を尋ねて、部落から部落へ、町を過ぎ、平原を過ぎ、言葉もわからない異国の中をさまよい歩いた。あるときは野に伏し、あるときは山寺に寝ながらさびしい孤独感におそわれ、自分の悲しい運命に泣きぬれた。
そうするうち、いつしか私は山中に迷い込んでいた。果てしなく続く山道を西に東に、南に北と、水を飲み、木の実を食い、夜に入ればただ一人谷間に火をたいて遠く近くに聞こえる獣の声に驚かされながら歩き続けた。
部隊の全滅、そして敗戦、いままた孤独の運命に陥ろうとは、泣いても泣ききれず、呼ぶには人もなし、いまは神も仏もなく、ただ一人生きて行くのだろうかと思うと、死んでも死に切れぬ思いであった。
そうして歩くこと約一ヵ月、私はソンケシートという山寺にたどり着いた。精根尽き果てた私は乞食《こじき》となって寺に食を求めたが、幸い寺人の好意でしばらく、この寺に落ち着くことができた。
月日は流れそれから六ヵ月たったある日のこと日本語の知っているベトナム人の行商が来た。その話によると、いま日本軍はベトナムのバリアにいるとのことであった。私は意を決しベトナム人とともに南ベトナムに入り、バクリューといういなか町で住民の暖かい援助を受け、農業を行って自活を始め日本軍との再会の機会を待っていた。
しかし、当時のベトナムは民衆と仏軍との間に戦争が始まり、私はどこへも行くことができず、戦が激しくなるにつれ身辺にも危険を感じるようになった。私は住民の避難者とともにメコン川を渡り、起高国境近くの山村部落で、再び自活を始めた。
ベトナムの戦争は日増しに発展していくようで、町との連絡は絶え道の要所要所には民軍が竹やりを持って立っていた。日のたつにつれ仏軍機が部落の上空を飛ぶようになり、ここでも危険を感じた私は、再び住民とともに数百㌔北部の山間に入り、山を開いて自活を始めた。 (続く)
昭和二十年八月十五日、私たちの部隊は、各部隊の生残りによって新編成され、モールメン南方から仏印に下り集結の準備をしていた。
そこの野戦郵便局にいる係員から、戦争は停戦になったらしいとの話を聞いたが、私たちは一笑に付し信じてはいなかった。その夜、部隊は汽車でタイメン鉄路を一路バンコックに向け出発、タイメン国境で下車、兵舎に入って初めて状況の変化を知った。
国境を警備している部隊が、全部の兵器を出し、菊の紋章をすり消していたのだ。不思議に思った私たちが、「どうするのか」と聞くと、彼らは平然として「兵器を敵に渡すのだ」といっていた。それ以上のことはなんともわからず私らは半信半疑の複雑な気持ちでバンコックに着き、そこで初めて日本軍の無条件降伏の事実を知り胸底よりこみ上げてくる憤りで泣きたいような気持ちであった。信じようとしても信じられない複雑な思いを胸にして、カンボジアのロメスに落ちついた。
昭和二十年八月二十九日だったと思う。私は部隊の命令で戦友と二人でブノペン市に行き、薬品を受領していた。一部受領した薬品は戦友が持って帰隊し、私は残品を受領するためブノペンに残っていた。
明くれば九月一日、私は兵站《へいたん=部隊後方にあって物資の輸送や連絡など担当する》宿舎前の告示を見て驚いた。「連合軍の命により日本軍全交通機関は八月三十日より停止、爾後《じご=その後》二百四十時間以内に武装解除を受ける」と出ていた。私はすぐ駅に行き帰隊しようとしたが、駅はすでに日本軍憲兵が周囲を警備し、日本兵の立入りを許さない。意を決した私は歩いて知らぬ道を、鉄道線路を唯一のたよりに約百㌔余も歩き九月四日早朝、やっと部隊の所在地へ帰ってきた。だが、そこには兵隊の姿は一人もなく、途方にくれた私はどうしてよいかもわからず呆然と人なき兵舎を見ていた。そこにはなに一つ残されたものはなく、ガランとした兵舎と紙くずが散乱していただけであった。
しばらく休んだのち気をとり戻した私は部隊の行方を尋ねて、部落から部落へ、町を過ぎ、平原を過ぎ、言葉もわからない異国の中をさまよい歩いた。あるときは野に伏し、あるときは山寺に寝ながらさびしい孤独感におそわれ、自分の悲しい運命に泣きぬれた。
そうするうち、いつしか私は山中に迷い込んでいた。果てしなく続く山道を西に東に、南に北と、水を飲み、木の実を食い、夜に入ればただ一人谷間に火をたいて遠く近くに聞こえる獣の声に驚かされながら歩き続けた。
部隊の全滅、そして敗戦、いままた孤独の運命に陥ろうとは、泣いても泣ききれず、呼ぶには人もなし、いまは神も仏もなく、ただ一人生きて行くのだろうかと思うと、死んでも死に切れぬ思いであった。
そうして歩くこと約一ヵ月、私はソンケシートという山寺にたどり着いた。精根尽き果てた私は乞食《こじき》となって寺に食を求めたが、幸い寺人の好意でしばらく、この寺に落ち着くことができた。
月日は流れそれから六ヵ月たったある日のこと日本語の知っているベトナム人の行商が来た。その話によると、いま日本軍はベトナムのバリアにいるとのことであった。私は意を決しベトナム人とともに南ベトナムに入り、バクリューといういなか町で住民の暖かい援助を受け、農業を行って自活を始め日本軍との再会の機会を待っていた。
しかし、当時のベトナムは民衆と仏軍との間に戦争が始まり、私はどこへも行くことができず、戦が激しくなるにつれ身辺にも危険を感じるようになった。私は住民の避難者とともにメコン川を渡り、起高国境近くの山村部落で、再び自活を始めた。
ベトナムの戦争は日増しに発展していくようで、町との連絡は絶え道の要所要所には民軍が竹やりを持って立っていた。日のたつにつれ仏軍機が部落の上空を飛ぶようになり、ここでも危険を感じた私は、再び住民とともに数百㌔北部の山間に入り、山を開いて自活を始めた。 (続く)
三蔵志郎
居住地: 河内の国 金剛山麓
投稿数: 35
(5)爆撃で妻子を失う、 帰国までハイフォンで働く
仏軍とベトナム人民軍の戦いが悪化するとともに避難先から避難先へと落ち着く先も知らず、いまは帰国の望みも絶え果てた私は、自分の運命をこの地にかけようと、意を決して現地妻を迎え、一女を得た。
昭和二十七年一月であった。私は再び大きな悲しみに打ちひしがれた。それは私が仕事に出ている留守中に、突如仏軍機の爆撃を受け、家は焼かれ、妻子もろともその犠牲になった。帰国はおろか、安全の地さえなく、またしても不幸のどん底に突き落とされ、いまは天を恨み地に怒り、そして戦争をのろった。涙のうちに葬式をすました私は、間もなく住民とともに流浪の旅に出た。そして昭和二十七年から三年あまりは落ち着く所もなく、ただその日その日を生きるがために苦しいいばらの道を歩んできた。
ある時は山奥深くジャングルに入り、部落より部落へと職を求めに人夫となり、農夫となって、生きるための長い旅はいつ果てるとも思われない状態であった。その間に幾度か熱病にかかり、マラリアにうなされ、死の一歩手前をさまよったが、べトナム人の深い情と民族を越えた愛情に助けられ、生きつづけた。
こんな苦しい思い出の中にも、また数々の愉快な思い出もあった。中部ベトナムの山中にいた時、私はベトナム人とともに象狩りや野牛射ちに行くことが度々あった。数十頭の群象を射つ時のスリルと、百頭余りの野牛の群れにいどむ時の興奮は南国の大陸ならでは味わえないそう快なものであった。
またある時は象の背に乗り自分の思いのままに象をあやつり、山また山の高原を行く時、不幸な自分の運命を忘れて、祖国高知の山々を思わせるような松林に露営し、明日の行く手を考え、夜に入って松のこずえに見る月には、故郷の父母兄弟もあの月をながめているのだろうかと思うと、胸がいっぱいになった。
こうした人生行路は知らず知らずのうちに私の足を北ベトナムに運んでいた。昭和三十年、私はタンボリという小さな町の製材工場に人夫として働いた。戦いも終りをつげ、この町にも平和の空気がみなぎっていた。
翌三十一年、ハイフォン市に缶詰工場建設のための人夫採用があると聞きさっそく申し込んだが、幸い八月にハイフォン缶詰工場の建設工事に雇われ、三十二年一月から機械組立工として働いた。その技術が認められ、技術検査員として私は帰国までそこで働いた。
この工場は、ソ連の無償援助によるもので、設備は非常に近代的でオートメーション化しており、ソ連製と東ドイツ製の機械が備えられていた。建設と生産にはソ連の技術者数十人が技術指導をしていた。また漁船の方も大々的な設備を進め、本格的に魚缶詰の製造を開始していた。
この工場に来て初めて秋田県出身の武田という人に会い十幾年ぶりに日本人同士で話をしたが、二人とも日本語が十分話せず、殆ど《ほとんど》ベトナム語で話した。
昭和三十二年八月ごろであった。日本平和代表団の坂本徳松、国会議員の岡田春男の両氏が工場参観に見えられ、私も面会を許されたが、十数年ぶりに懐かしい祖国を代表する方々を見た時、その懐かしさは言語につくせぬものがあった。
時間もなく、つもる話もできず、お別れをしたが、さいわいにも坂本先生が私と同県人であり、懐かしの故郷、家族との連絡がつき、いまさらながら、ああよくぞ生きていたものだと感激で泣けた。 (続く)
仏軍とベトナム人民軍の戦いが悪化するとともに避難先から避難先へと落ち着く先も知らず、いまは帰国の望みも絶え果てた私は、自分の運命をこの地にかけようと、意を決して現地妻を迎え、一女を得た。
昭和二十七年一月であった。私は再び大きな悲しみに打ちひしがれた。それは私が仕事に出ている留守中に、突如仏軍機の爆撃を受け、家は焼かれ、妻子もろともその犠牲になった。帰国はおろか、安全の地さえなく、またしても不幸のどん底に突き落とされ、いまは天を恨み地に怒り、そして戦争をのろった。涙のうちに葬式をすました私は、間もなく住民とともに流浪の旅に出た。そして昭和二十七年から三年あまりは落ち着く所もなく、ただその日その日を生きるがために苦しいいばらの道を歩んできた。
ある時は山奥深くジャングルに入り、部落より部落へと職を求めに人夫となり、農夫となって、生きるための長い旅はいつ果てるとも思われない状態であった。その間に幾度か熱病にかかり、マラリアにうなされ、死の一歩手前をさまよったが、べトナム人の深い情と民族を越えた愛情に助けられ、生きつづけた。
こんな苦しい思い出の中にも、また数々の愉快な思い出もあった。中部ベトナムの山中にいた時、私はベトナム人とともに象狩りや野牛射ちに行くことが度々あった。数十頭の群象を射つ時のスリルと、百頭余りの野牛の群れにいどむ時の興奮は南国の大陸ならでは味わえないそう快なものであった。
またある時は象の背に乗り自分の思いのままに象をあやつり、山また山の高原を行く時、不幸な自分の運命を忘れて、祖国高知の山々を思わせるような松林に露営し、明日の行く手を考え、夜に入って松のこずえに見る月には、故郷の父母兄弟もあの月をながめているのだろうかと思うと、胸がいっぱいになった。
こうした人生行路は知らず知らずのうちに私の足を北ベトナムに運んでいた。昭和三十年、私はタンボリという小さな町の製材工場に人夫として働いた。戦いも終りをつげ、この町にも平和の空気がみなぎっていた。
翌三十一年、ハイフォン市に缶詰工場建設のための人夫採用があると聞きさっそく申し込んだが、幸い八月にハイフォン缶詰工場の建設工事に雇われ、三十二年一月から機械組立工として働いた。その技術が認められ、技術検査員として私は帰国までそこで働いた。
この工場は、ソ連の無償援助によるもので、設備は非常に近代的でオートメーション化しており、ソ連製と東ドイツ製の機械が備えられていた。建設と生産にはソ連の技術者数十人が技術指導をしていた。また漁船の方も大々的な設備を進め、本格的に魚缶詰の製造を開始していた。
この工場に来て初めて秋田県出身の武田という人に会い十幾年ぶりに日本人同士で話をしたが、二人とも日本語が十分話せず、殆ど《ほとんど》ベトナム語で話した。
昭和三十二年八月ごろであった。日本平和代表団の坂本徳松、国会議員の岡田春男の両氏が工場参観に見えられ、私も面会を許されたが、十数年ぶりに懐かしい祖国を代表する方々を見た時、その懐かしさは言語につくせぬものがあった。
時間もなく、つもる話もできず、お別れをしたが、さいわいにも坂本先生が私と同県人であり、懐かしの故郷、家族との連絡がつき、いまさらながら、ああよくぞ生きていたものだと感激で泣けた。 (続く)
三蔵志郎
居住地: 河内の国 金剛山麓
投稿数: 35
(6)引き上げ船で一路祖国へ、 沖縄の変貌《へんぼう》に驚く。
工場で働いているうちに段々と帰国の問題がやかましくなり、昭和三十三年十二月、ハノイで日本の代表団とベトナ側との間に話合いが成立、私たち九人の第一回帰国者は昭和三十四年二月二日ハノイに集合、ベトナム赤十字会、ベトナム世界平和委貝会の終始一貰した人道的精神と、友好的愛情に送られて、数知れぬ思い出と名残りを残し、第二の故郷ともいうべきベトナムの山河に別れを告げ、ホンガイから夕張丸に乗船一路租国に向かって出航した。
船には日赤の宮本、中村両先生と日本平和委員会の広田先生が私たちにつきそって乗船した。私たちは十九年振りに味わうミソ汁、タクワン、そして巻ずしなど、祖国のかおりに酔い、ただただ祖国のなつかしさに感激していた。
二月八日、最後の港カムファーを出航して香港に向かった。穏やかだった海上は次第に荒れ始め三十余年を経たという老朽船は不気味にゆれ海南沖ではますます波は高くなっていた。
はるかに海南島を臨み今日はなき兄の面影を偲《しの》び「兄よ安らかに眠り給え」と感慨無量な気持ちで祈った。
二月十一日、美しいネオンの輝く港・香港に入港、ほっとする間もなく、船は再び祖国へ向けて荒波にもまれていた。風はますます強く、船はまるで木の葉のように前後左右に不気味な音を立ててゆれ今にも沈むのではないかと思われるようであった。
三名の友はもう何日も食事をとらず寝たきりであった。こうした中にも帰国者の一人照屋君は大変元気で皆の世話に走りまわっていた。
数日後船はやっと台湾沖を進んでいた。波のため船底に穴があき海水は油タンクに入り、船は大洋の荒波の中で何回も停止したりした。口にこそ出さないが、船にいる者はみんな不安そうな暗い顔をしていた。
今まで生きながらえて、祖国を目前にして死ぬのだろうかと不吉な考えさえ起るのだった。荒波にもまれた老朽船は祖国には直行できず、油の補給を受けにタンカー船にひかれて二月二十一日沖縄に入港した。沖縄育ちの照屋君は船中で沖縄の実弟から電報を受け大変な喜びようであった。日本平和委員会の広田先生はさっそく政府に電報を打ち、照屋君を沖縄で上陸させ弟さんの家に帰るよう申し入れたが、なぜか政府は許さなかった。
沖縄に着いて、驚いたのは数十機のジェット機が不気味な騒音を島いっぱいに立てて絶え間なく飛んでおり、海上には数隻の軍艦が浮城のような威容を誇り、時々爆弾投下の轟音《ごうおん》が聞こえていた。また高い山の頂上には物ものしいレーダー基地がかすんで見え、まことに騒然たるもので、いやな気持ちであった。 ( 続く )
工場で働いているうちに段々と帰国の問題がやかましくなり、昭和三十三年十二月、ハノイで日本の代表団とベトナ側との間に話合いが成立、私たち九人の第一回帰国者は昭和三十四年二月二日ハノイに集合、ベトナム赤十字会、ベトナム世界平和委貝会の終始一貰した人道的精神と、友好的愛情に送られて、数知れぬ思い出と名残りを残し、第二の故郷ともいうべきベトナムの山河に別れを告げ、ホンガイから夕張丸に乗船一路租国に向かって出航した。
船には日赤の宮本、中村両先生と日本平和委員会の広田先生が私たちにつきそって乗船した。私たちは十九年振りに味わうミソ汁、タクワン、そして巻ずしなど、祖国のかおりに酔い、ただただ祖国のなつかしさに感激していた。
二月八日、最後の港カムファーを出航して香港に向かった。穏やかだった海上は次第に荒れ始め三十余年を経たという老朽船は不気味にゆれ海南沖ではますます波は高くなっていた。
はるかに海南島を臨み今日はなき兄の面影を偲《しの》び「兄よ安らかに眠り給え」と感慨無量な気持ちで祈った。
二月十一日、美しいネオンの輝く港・香港に入港、ほっとする間もなく、船は再び祖国へ向けて荒波にもまれていた。風はますます強く、船はまるで木の葉のように前後左右に不気味な音を立ててゆれ今にも沈むのではないかと思われるようであった。
三名の友はもう何日も食事をとらず寝たきりであった。こうした中にも帰国者の一人照屋君は大変元気で皆の世話に走りまわっていた。
数日後船はやっと台湾沖を進んでいた。波のため船底に穴があき海水は油タンクに入り、船は大洋の荒波の中で何回も停止したりした。口にこそ出さないが、船にいる者はみんな不安そうな暗い顔をしていた。
今まで生きながらえて、祖国を目前にして死ぬのだろうかと不吉な考えさえ起るのだった。荒波にもまれた老朽船は祖国には直行できず、油の補給を受けにタンカー船にひかれて二月二十一日沖縄に入港した。沖縄育ちの照屋君は船中で沖縄の実弟から電報を受け大変な喜びようであった。日本平和委員会の広田先生はさっそく政府に電報を打ち、照屋君を沖縄で上陸させ弟さんの家に帰るよう申し入れたが、なぜか政府は許さなかった。
沖縄に着いて、驚いたのは数十機のジェット機が不気味な騒音を島いっぱいに立てて絶え間なく飛んでおり、海上には数隻の軍艦が浮城のような威容を誇り、時々爆弾投下の轟音《ごうおん》が聞こえていた。また高い山の頂上には物ものしいレーダー基地がかすんで見え、まことに騒然たるもので、いやな気持ちであった。 ( 続く )
三蔵志郎
居住地: 河内の国 金剛山麓
投稿数: 35
(7)沖縄の現実は想像外、 新しい人生行路へ出発。
沖縄で見た現実は私たちには想像できぬことであった。祖国の領土がいまなお、かっては祖国の敵であったアメリカの統治下にある姿をながめ、私はなにか悲しい気持ちであった。
私は照屋君の実弟や姉さんたちの家族に迎えられ、わずかに三時間ほどではあったが色々と沖縄の事情を聞いた。特に両親の死を聞かされた照屋君の気持ちはいかばかりであったか察するにあまりがあった。そして現在の沖縄と、自身の将来を思う時なにかの不安におびやかされているようであった。
午前四時ごろ船は出港したが、照屋君の家族は船の見えなくなるまで手をふっていた。それが照屋君と家族の最後の別れになろうとは夢にも思わぬことであった。
沖縄を出てからの照屋君は急に人が変わったようになった。あまり話もせず、食事もとらなかった。なにか考えにふけっているので「どうしたのか」と問うと彼は、弟も姉も皆殺しにされた夢を見たと、一人で悩んでいるようであった。
船は薄い夜霧の中を五島列島近くを静かに走っていた。私は明朝の上陸を楽しみに、夜の十一時ごろ就寝した。夜中の一時ごろであった。私は小用に起きた。照屋君は眠らず寝台の上に横になっていたが、私が帰ると話しかけてきた。彼は私に「ベトナムの地図を持って上がってよいだろうか」と尋ねた。私は変なことを聞くものだと思いながらも「そんなものは心配ない、記念に持って上がりなさい」といい、そのまま深い眠りに落ちた。
翌日の午前四時ごろ、前の船室から来た武田君に起された私たちははじめて照屋君のいないのに気がついた。別に気にもとめず、洗面を終って前の船室に行ってみた。照屋君は、と聞いたが誰も知らない。便所をのぞいてみたがいない。なにか暗い予感におそわれた私は、後甲板を捜したがそこにも彼の姿は見えない。
不吉なことでも起きたのではないかと思いながら、船尾の後方に回った私は、そこの上甲板で自殺している照屋君を発見した。私は彼をいだき上げ、大声で皆を呼び、人口呼吸を行ったが、だめだった。こうして照屋君は祖国を寸前にして苦しみながら不運な生涯を自分の手で閉じた。
こうした不幸の原因はいろいろあろうが、船が老朽船でなく、沖縄に寄港しなければこの悲劇は起らなかったかも知れない。
こうした苦闘の十九年に別れを告げて、私はいま温かい郷里の人々や山々に抱かれて、これからの新しい人生へ踏み出そうとしている。 ( 完 、昭和34年 )
沖縄で見た現実は私たちには想像できぬことであった。祖国の領土がいまなお、かっては祖国の敵であったアメリカの統治下にある姿をながめ、私はなにか悲しい気持ちであった。
私は照屋君の実弟や姉さんたちの家族に迎えられ、わずかに三時間ほどではあったが色々と沖縄の事情を聞いた。特に両親の死を聞かされた照屋君の気持ちはいかばかりであったか察するにあまりがあった。そして現在の沖縄と、自身の将来を思う時なにかの不安におびやかされているようであった。
午前四時ごろ船は出港したが、照屋君の家族は船の見えなくなるまで手をふっていた。それが照屋君と家族の最後の別れになろうとは夢にも思わぬことであった。
沖縄を出てからの照屋君は急に人が変わったようになった。あまり話もせず、食事もとらなかった。なにか考えにふけっているので「どうしたのか」と問うと彼は、弟も姉も皆殺しにされた夢を見たと、一人で悩んでいるようであった。
船は薄い夜霧の中を五島列島近くを静かに走っていた。私は明朝の上陸を楽しみに、夜の十一時ごろ就寝した。夜中の一時ごろであった。私は小用に起きた。照屋君は眠らず寝台の上に横になっていたが、私が帰ると話しかけてきた。彼は私に「ベトナムの地図を持って上がってよいだろうか」と尋ねた。私は変なことを聞くものだと思いながらも「そんなものは心配ない、記念に持って上がりなさい」といい、そのまま深い眠りに落ちた。
翌日の午前四時ごろ、前の船室から来た武田君に起された私たちははじめて照屋君のいないのに気がついた。別に気にもとめず、洗面を終って前の船室に行ってみた。照屋君は、と聞いたが誰も知らない。便所をのぞいてみたがいない。なにか暗い予感におそわれた私は、後甲板を捜したがそこにも彼の姿は見えない。
不吉なことでも起きたのではないかと思いながら、船尾の後方に回った私は、そこの上甲板で自殺している照屋君を発見した。私は彼をいだき上げ、大声で皆を呼び、人口呼吸を行ったが、だめだった。こうして照屋君は祖国を寸前にして苦しみながら不運な生涯を自分の手で閉じた。
こうした不幸の原因はいろいろあろうが、船が老朽船でなく、沖縄に寄港しなければこの悲劇は起らなかったかも知れない。
こうした苦闘の十九年に別れを告げて、私はいま温かい郷里の人々や山々に抱かれて、これからの新しい人生へ踏み出そうとしている。 ( 完 、昭和34年 )