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幸次郎伯父の調査 (2) 斉藤 匠司

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通常 幸次郎伯父の調査 (2) 斉藤 匠司

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/4/22 7:47
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
3、昭和20年《1945》3月10日大空襲の概略《=あらまし》

 来襲B29型爆撃機296機、投下焼夷弾1736トン(一説には1667トン)、当時の東京都29区内に被害、焼失家屋27万戸、被災者約100万人、死者約10万人、傷者約10万人

4、深川地区の空襲の概略ーー以下幸次郎伯父に関連する地域のみ記す、

  当時の深川区は現在の江東区の西半分に当たる。
  深川地区では3月10日午前零時八分木場2丁目に焼夷弾《しょういだん=高熱によって人や建造物などを殺傷・破壊する爆弾》が投下され最初の火災が発生した、空襲警報が発令されたのはそれから7分後の零時十五分である。
  木場2丁目に続き白河町2丁目、三好町1、2丁目付近に火災発生、この線を結ぶ火の流れは烈風にあおられ塩崎町、平久町、古石場《ふるいしば》町、牡丹《ぼたん》町、門前仲町《もんぜんなかちょう》などの南部の火流と合流した。
  一方、千石《せんごく》町、石島町、猿江町1丁目、等の深川東部にも大火災が発生しこれが千石町3丁目、扇町3丁目、住吉町を結ぶ火流と合流してこれらの火炎は深川地区中央部の未延焼地区を挟み打つ形となり更に投下される焼夷
弾と風速12.7メートル(瞬間風速25.7メートル)の風にあおられて深川全域を覆うと共に本所、城東地区の火炎とも合流した、
なお新大橋、常磐町、森下町方面の火災発生は比較的遅かったようで、南部方面、東部方面、の順に出火し北部(本所方面)の火災発生と同時間に焼夷弾が落下し始めたらしい。
  午前二時三十七分空襲警報解除、同三時二十分警戒警報解除、朝七時ごろ深川地区はおおむね鎮火、深川地区の77%が焼失、焼失家屋4万戸、死者3万人、傷者1万7千人以上、被災者14万8800名(警視庁消防部調べ)、これが最も事実に近い数字とされている。
  なを深川地区に隣接して本所区があり、本所区の第3波空襲により深川区との境界の緑町、竪川《=現在は立川》町、柳原町が炎上した。

5、深川地区民の避難指定場所、避難場所、避難方向、避難距離

 1)避難指定場所と避難場所

   高橋各丁、森下町、新大橋各丁、常盤町地区は隅田川、大横川、小名木川に囲まれていてこの地区では八名川国民学校(新大橋3丁目14)、深川国民学校(高橋1丁目3)、高橋国民学校(高橋4丁目8)、隅田工業学校(高橋5丁目2)、新大橋橋上、清澄庭園
(清澄町3丁目6)森下公園(森下町2丁目36)などが避難場所に指定され、また各家庭で独自に避難場所を決めている場合もあった、国民学校が避難場所に指定されていたのは当時殆どが木造建築であったのに対し鉄筋コンクリート造りの学校は安全と見られていたためである。
   以上の国民学校はいずれも全焼し多数の死者が出た、清澄《きよすみ》庭園では殆どの人が助かり森下公園では多数の人が死亡した、新大橋は焼けているが清洲橋《きよすばし》上の人は助かっている。
   深川中南部の木場、冬木町、深川、富岡町、門前仲町、永代《えいたい》町も 二十間川、仙台堀川、大島川、隅田川、大横川などの川に挟まれいる、この地区の人達は臨海国民学校(門前仲町1丁目-10)、明治国民学校(深川2丁目-23)、数矢《かずや》国民学校(富岡町1丁目31)東陽国民学校(東陽町2丁目17)、深川公園(富岡町1丁目29)永代橋などに逃げた。
   この中で明治、数矢両国民学校は焼けずにすみ、校舎は3階迄満員になったが逃げ込んだ人は全員助かった、しかし中に逃げ込めず校庭にいたりプールに入った人々は多数死亡した。
   臨海国民学校に逃げた人達は全滅し、永代橋の上に集まった人達は橋の両側よりの炎が迫り川に飛び込み大勢が死亡した。
    ここで注意したいのは佐賀町1丁目、2丁目の記述が無い事である、詳しくは後述するが佐賀町1丁目、2丁目共に殆ど焼けず、死者も無かったのである。

 2)避難方向と避難距離

   当時の体験者の記録集を調査するとおおむね次のごとくになる、自宅、隣家等が燃え出すまで自宅内か防空壕(自宅庭内か自宅床下、或は町内の)内にいるか消火活動に従事している、これは当時の防空法第八条に「防空上必要ある時はその区域よりの退去を禁止、又は制限する(以下略)」とありこれに違反した時は「一年以下の懲役、又は千円以下の罰金に処す」とあってこれは当時各家庭に配布された「防空必携」にも防火方法と共に記載されてあり、隣組《注1》の常会でも常に防火、消火義務が話されていたためである、そのため自宅周辺か自宅が炎上しはじめと共に避難を始めるのであるがその時には既に火炎に囲まれた形となり予定避難場所に到達出来ぬ場合も多く、避難距離も記録文中の深川地区に関して詳細に調べてみたが平均1.5Km、中には4Km、6Kmと計測できるものもあるが1Km、500mで火に巻かれる例も多い、ちなみに斎藤安三郎一家では厩橋一丁目の北端から東京都震災記念堂に逃げ、この間の直線距離は約2Kmである。
   多数ある記録文中先述の新大橋、常盤町、森下町の三地区の記録の割合は非常に少なく、記録者も新大橋、清洲橋、清澄庭園に避難した人の記録で避難予定の中心地である八名川国民学校への避難記録は見付けられなかった。
   後述するが八名川国民学校に避難した人数は300名程らしい、これは他の国民学校に避難した人が多数であって、各国民学校が焼亡した中で生き残った人の記録が多いのと対照的である、恐らくは前記地区の人は主に東方向に向かったらしいと思われる。
   何故なら電話による調査では八名川国民学校近辺に焼夷弾が落下炎上した為にそちらに行けず東方向に避難したと言う証言がいくつか有るからである。
   なを幸次郎伯父の当夜の行動を知る為に記録文中に偶然通行中に空襲に会い助かったと言う手記を探して見たが皆無であった、ただ服務中に空襲に会い折りを見て自宅に向かう例は幾つかみられた。

注1 隣組=かつて日本にあった制度で、1940年に初めて明文化された。町内会のさらに
下にあり数家庭ごとに一組を組織し、配給の効率化や思想統制を図った。


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編集者 (代理投稿)

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