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幸次郎伯父の調査 (7) 斉藤 匠司

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通常 幸次郎伯父の調査 (7) 斉藤 匠司

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/4/27 7:01
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
  10、東京都慰霊堂に安置されている遺骨は幸次郎伯父のものと断定できるか。

   高橋各町、新大橋各町付近の遺体の殆どが猿江公園に仮埋葬《かりまいそう》されたという公式記録、それと前記大槻警部補の証言からも幸次郎伯父の遺体は猿江公園に仮埋葬されたのはほぼ間違いなく、その後3年後に水江公園で火葬後収骨され東京都慰霊堂に移され現在に至っている、この斎藤幸次郎名義の遺骨が幸次郎伯父の遺骨と断定出来る資料は一切無い。
   私が見た東京都慰霊堂にある「氏名の判明していて近親者の見つからない名簿」のサ行には斎藤姓は以外に多く、その中には「斎藤マツ」、「斎藤富五郎」まで見いだす事が出来た、我々に関して言えばこの2名は幸次郎伯父の母親と弟であり、被災当時は京都に住まいし健在であった事は良く知っている、となれば同姓同名の異人の遺骨の疑いも捨てきれない、名簿をみた限り斎藤幸次郎名はこの一名で幸の字の異なった斎藤幸0郎名があった記憶は無い、何時の日か安三郎が申し出て訂正したのであろうか、しかしそれでは近親者と認める事になる、それと幸次郎の次の字はこれで良いのだろうか、兄弟皆安三郎、多四郎、富五郎と皆漢数字である、しかし除籍簿、戒名《注1》帳では次の字になってはいる、しかし本来は次では無く「二」であるとすれば前の事柄と符合してくるのだが、とにかく疑問が多いのは事実である。

注1 戒名=死者に対して与えられる法名      
  
   11、結論
                             
    1)幸次郎伯父の居住地の確定は出来なかった、恐らくは新大橋各丁、または高橋各丁内ではと推測される、ただし佐賀町である可能性も残る。

    2)幸次郎伯父の死亡地の確定は出来なかった、公式書類は東京都深川区新大橋三丁目六番地と記載されている、となれば六間堀川中から引き上げられた可能性は高いし、実際の死亡地はも少し上、下流の可能性もある、しかし他の場所である可能性も残る。

    3)幸次郎伯父の遺骨と断定出来るものは何も無い、ただ同姓同名または同姓異字名の遺骨が東京都慰堂内に存在する。

   12、総括《=全体をとりまとめて締めくくること》

     昭和20年3月10日東京都深川区新大橋地区、または高橋地区の何れかに居住していた斎藤幸次郎は勤務先の中央電話局深川分局を当日非番かまたは休み、何らかの所用で本所区厩橋の弟、斎藤安三郎を山本幸雄と2人か偶然別々に訪れ、夜9時30分から10時頃の間に辞去し、山本宅を訪れたかは不明ではあるが徒歩、自転車、又は都電にて帰宅、恐らくは就寝中に(住居地が佐賀町であれば通行中に)大空襲に会い周囲炎上中行方不明となり、後日東京都深川区新大橋三丁目六番地(恐らくは六間堀川川中)にて遺体として発見された。
     その後遺体は猿江公園に仮埋葬され、3年後水江公園にて火葬、遺骨は東京都慰霊堂内に「氏名の判明していて近親者の見つからない遺骨」として安置された。


  13、最後に

   幸次郎伯父の人となりについては全く知らない、ただ実直な人だったそうで、その時、その時の状況に応じて機敏に対処する性格の多い斎藤一族にあっては珍しい性格の人だった様である。
   その性格が災いして多くの人が逃げる方向に押し流されて行ったのではなかろか。
   考えればあの時電話局が休みでなかったら、新大橋、清洲橋方向に逃げていたら、八名川国民学校に避難していたら----恐らく助かっていたであろう、本当に不幸な人であったと思う。
   この調査については随分多くの人に電話で問い合わせたが全ての人が熱心に調査し、回答頂いた、改めて感謝申し上げます。

    付 平成19年4月の改訂について

    最初にこの調査書を書いたのは昭和59年(1974年)でその時は幸次郎伯父の居住地を佐賀町ではと考えていたが遺品、遺物の無い事、それと死亡届が遺体の確認をしたと言う話をだれも聞いていないのに早く出されている事が気になり何か釈然とはしなかった。
    たまたま今年(平成19年)3月10日の新聞の小さな欄に東京大空襲の事が書かれていてこれを機会に考え直して見たのがこの改訂版である。
    あの大空襲で約10万の人が亡くなり、齊藤一族も2名が犠牲になったと言う事実ももうすぐ忘れ去られるであろう、この文章も何時まで残るかは判らないが取りあえずは書いたと言う事に満足感は残る、全ては推測であり正しいかどうかは判らないが何かほっとした気がします、これが私の今の感想です。

            平成17年(2007年)4月8日
                     記  斎藤匠司

 (完)

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編集者 (代理投稿)

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