幸次郎伯父の調査 (5) 斉藤 匠司
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幸次郎伯父の調査 (1) 斉藤 匠司 (編集者, 2007/4/21 8:38)
- 幸次郎伯父の調査 (2) 斉藤 匠司 (編集者, 2007/4/22 7:47)
- 幸次郎伯父の調査 (3) 斉藤 匠司 (編集者, 2007/4/23 7:49)
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- 幸次郎伯父の調査 (5) 斉藤 匠司 (編集者, 2007/4/25 8:02)
- 幸次郎伯父の調査 (6) 斉藤 匠司 (編集者, 2007/4/26 7:35)
- 幸次郎伯父の調査 (7) 斉藤 匠司 (編集者, 2007/4/27 7:01)
編集者
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8、幸次郎伯父の死亡地の検証
京都市上京区の報恩寺にある斎藤家過去帳には「斎藤幸次郎 昭和20年3月10日死亡 行年57才 戒名 瑞峰幸道禅定門 と記載さている、一方 斎藤幸次郎除籍簿には昭和20年3月10日時不詳東京都深川区新大橋三丁目六番地にて死亡 昭和20年3月30日同居人母斎藤マツ届出 受理とあり文題は死亡地届、発行人は平野警察署長となっている。
ここで死亡地の検証を試みるのは上記の文を見れば何処《どこ》にも不審を見いだせ無い様だが実は幾つかの疑問を感じるからである。
第一に死亡届け人が「同居人、母齊藤マツ」となっている事、マツは当初安三郎宅に居住し空襲の激化に伴い被災の数ヶ月前に京都の末子富五郎宅に転居している、被災と幸次郎伯父の死亡(または行方不明)の連絡は京都にも届いていたとは思われるが死亡届けを出したのは恐らく後述する様に安三郎であろうし、第一マツ自身が届けを出しに行ける様な健康状態で無かった事は確かである。
次に普通死亡した場合には「死亡届」(死亡地届ではない)としこれに死亡診断書、変死が疑われる時には死体検案書《注1》その他が付されるものである。
幸次郎伯父の「死亡地届」は平野警察署から本籍地の京都上京区役所に回送され、更に京都地方法務局に移管されこの原本は今も同法務局に保管されていた、これには死体検案書、死亡診断書は付されていない、死亡地届(死亡届ではない)の意味について問い合わせた所現在の一般的な法律上では発行されていない形式で意味不明と回答であった、恐らく空襲後の多数の遺体の全ての検案は出来ず、死亡のみを確認しこのような形となったのではと推測される。
これについては以下の記録(電話による問い合わせの答え)が参考になる。 空襲当時旧平野警察署は焼けずにすみ、鎮火
直後から外勤主任3名が管内を3っに分け、検屍に当たっていたがその内の二人大槻《おおつき》警部補と小坂
部警部補の話を聞く事が出来た。
大槻警部補の話では当時の平野署長の指示もあって出来る限り遺体の身許が判る様努力したと言う、氏名の判明している遺体に
ついては氏名、性別、推定年齢、死亡場所(町名、地番地)を書き取り遺物を採取したと言う、また氏名の判明しない者にについては
氏名以外は全く同じ事をし、全く何も判らない者については死亡場所のみ控えておいて遺体処理にあたったと言う、この大槻警部補と
その部下の担当区域内に新大橋三丁目が含まれていた、この遺体処理については別方向を担当した小坂部警部補も同じ事を回答してい
る。
これらの物件等は署に持ち帰り、氏名は紙に書き公示し、遺物は署内(留置所内)に展示された。
遺体処理も進み、軍隊が出動するとともに遺体は公園、空き地、その他に埋葬されたがその際も氏名の判明しているものは墓標
に書き、遺体発見場所は紙に書いて貼ったり口頭で答えたと証言している。
そして遺族が死者名、遺物を発見した場合、遺族の証言に従って死亡を確認したが書類は別の署員の担当なので死亡届と書いた
か死亡地届と書いたかは記憶に無いとの事である。
以上の話を信ずるならば大槻警部補かその部下の誰かが幸次郎伯父の遺体を発見し、記録しておいたのは間違いないなく、その
場所、「深川区新大橋三丁目六番地」が幸次郎伯父の死亡地と断定して良いと思われる。
ここで新大橋三丁目六番地について考えて見たい、この場所は八名川国民学校からおよそ60~80m北側にあたる(但し電話調査で
あり実証はしていない)、当時新大橋三丁目は電車通りをはさみ砂川方向に向かって右側、八名川《やながわ》国民学校側が偶数番地、左側が奇数番地となっていた、そしてこの付近の避難場所は新大橋橋上、清澄庭園、そして八名川国民学校である。
注意しておきたいのは「新大橋三丁目六番地」とあると六番地の路上か同番地の宅地内かと思われるが必ずしもそうでは無い、
その一例を上げる。
「昭和20年3月10日午前2時ごろ深川区東陽町三丁目三番地において死亡、須崎警察署長代理 鈴木実報告」、これは当時の都庁の職員の妻の死亡報告であるが空襲時夫は消火活動に残り、妻には避難場所を指示して別れている、そのまま妻は行方不明となり避難場所にも見当たらないので教えておいた避難路にそって探していた所、避難場所に近い「川中」で2日後妻の遺体を発見したのである、この間約2Kmである。
新大橋三丁目六番地であるが本所区竪川《たてかわ》の千歳川から常盤町南端の小名木川までの間に六
間堀《ろっけんぼり》川と称する川が流れていてこれが新大橋三丁目の偶数番地東端から八名川国民学校のそ
ばを通っている、当時の地番迄記した地図が見つからないので断定は出来ないが幸次郎伯父の遺体がこの川から引き上げられた可能性は十分にある、ただし火に追われて川中に入ったのであろうから潮の関係で実際の死亡地はこの地点よりすこし上、下流の可能性はあるしこの番地にあった防空壕、防火用水おけ内かも知れない、いずれにせよその遺体は氏名が判る状態であった事は間違いなく、その後遺体は猿江公園に運ばれ仮埋葬されたものであろう、なを記録によれば路上の遺体は比較的早く処理されたが川中の遺体は相当長期間の間、何体ずつか浮上し続けたと記されている。
最後に当時新大橋三丁目十二番地で歯科医を開業していた浅野医師の話(電話による聞き取り)の一部をのせる。
私の住んでいた十二番地から、六番地は道を隔てた向こう側になるはずだが齊藤幸次郎と言う人は知らない、当時自分は歯科医
であったが他の開業医2名と共に救護医として空襲の時は八名川国民学校に詰める事になっていた、当夜は空襲警報が鳴る前から火の手が上がり、石川島《いしかわじま》方面、本所方面、砂川方面が大きく燃えていた。
近くの風呂屋に焼夷弾《しょういだん》が落下し炎上し始めた(この風呂屋の事は他の人も同じ話をしている)、妻に先に学校に行く様に言い、自宅が燃え始めたので自分も学校に行った、当時の八名川国民学校は1階 2教室だけが暗室用にかガラス窓の外に鉄製の窓が取り付けられて来ていたが他の医師2名は来なかった、その内学校の周りの建物が燃え始め危険と思われたので、私が指揮して隣の八名川公園に避難し、火が収まる迄地に伏していたがは死者は一人も出なかった、学校は3階より燃え始め結局前述の2教室を除き全焼した。
自分としては八名川国民学校に避難した人の生命を助けたのは私の指揮によるものと信じている。
以上であるがその他には全記録中に八名川国民学校に避難した記録は見い出せ無かった。
もう一つの疑問は安三郎(届け人はマツとなっているが実質は安三郎に間違い無いであろう)が何故空襲後20日で死亡届けを出
したかと言う事である。
先述の大槻、小坂部両警部補の話、記録中にある平野警察署長の手記によればあの惨状にも関わらず遺体が家族に確認出来る様
に最大限の努力を払っているが他方、全く何の証拠も無い遺体(例えば白骨状態で何の遺物(所持品)が無い場合には家族の自宅の焼
け跡であっても申し出通りに認める事はしていない、何故なら殆《ほとんど》どの人が自宅炎上時に逃げ出しているので他の人がそこで死亡している可能性が高かったからだと言う、
例えば9日夜、幸次郎伯父と共に安三郎宅に来ていた山本幸雄(安三郎の姉の子)も空襲後行方不明になったが幸雄の自宅の防空壕の中で発見された、ただ全く身許の判別つかない遺体だったので幸雄本人かは判らず、後日尋ねて来た家族は壕の土を持って帰ったと聞かされている。
安三郎と安彦が精力的に10日近くも探しているにも関わらず、本人は現れず、怪我《けが》をしていたとしても何処にも収容されていないとすればあの状況下では死亡したとしか考えざるを得ないであろう。
ただ死亡届を出すにしても遺体等が無ければ法的にも受け付けられないのは確かである、少しそれるがここで氏名が判っていな
がら遺体が本人かどうか確認出来なかった例をあげる
当時の警視庁の埋葬記録では猿江《さるえ》公園の被埋葬者数は3月15日現在10259名、これは他の埋葬地菊川公園4515名、中和公園3850名に比して圧倒的に多い、この他は1000名以下である、そして仮埋葬者はほとんどが墓標が立てられ、姓名の判明している者は名が書かれていた様である、記録の中で避難中父と弟が大横川川中で行方不明となり、近所の人の話から5日後猿江公園で両名と同名の墓標を見つけたが、一度埋葬したものは3年間掘り出しを禁じると警察官に制止され、そのまま引き返したと言う話がある。
この人は偶然齊藤姓だったのでこの人を探し出して斎藤幸次郎名を見なかったかどうか聞きたかったが連絡は取れなかった。
この3年間禁止令は後2件記録に現れ、内1件は隅田公園の事であるが後で夜密かに掘り出し、遺体を確認の上髪の毛だけを入手したとある、ただこの3年間の禁止令については大槻、小坂部両警部補共記憶に無いとの事であり、墓標中に近親者の名を見いだした時に掘り返しを認めたかについては大槻警部補は認めたといい、小坂部警部補は遺族が多くキリが無いので認めなかったと言っている。
元に戻るが安三郎の場合、安彦と共に何日間も捜査したにも関わらず本人は現れず、また負傷していたとしても何処にも収容さ
れていないとすれば、あの状況下では死亡したのではと考えるのは当然である、後で軍隊が遺体収容に当たる様になって遺体収容が少
しずさんになったと記録にはあるが少なくとの警察は身許が確認される様努力していたのは確実である。
ここで気になるのが安彦と安三郎が数年後公開名簿で齊藤幸次郎の幸の字が他の字であるが推定年齢、身体特徴が酷似《こくじ=そっくり》しているのを見いだした事である。
もし空襲後の捜査中に安三郎が平野警察署、或は猿江公園等でこの名前を見ていたとすれば(しかも確認の掘り出しは認められ
ないとすれば)、そして遺品、遺物も無ければ名簿上の記載に従って死亡の書類を申請し、死亡届を出したのではと推測したくなる、
この絶対的な確認が出来ない事で安三郎は安彦、義隆、美智子、和子には話さなかったのであろうし、後年安彦と2人で名簿を見に行った事も安三郎にとっては再確認の意味があったのかも知れない。
ただこれはあくまで仮説であって安三郎の心情を勝手に推測するのは憚《はばか》れるし、更に他の推
測も成り立つであろうし、それが出来るのは安三郎の近くにいて普段の心情、行動を知る人々であろう、ただこのように考える以外誰
も教えられていない理由の説明が困難であるのと義隆の記憶とも結びつくのである。
注 死体検案書=医師の診察を受けずに死亡した者について、死亡を確認して医師が出す証明書
京都市上京区の報恩寺にある斎藤家過去帳には「斎藤幸次郎 昭和20年3月10日死亡 行年57才 戒名 瑞峰幸道禅定門 と記載さている、一方 斎藤幸次郎除籍簿には昭和20年3月10日時不詳東京都深川区新大橋三丁目六番地にて死亡 昭和20年3月30日同居人母斎藤マツ届出 受理とあり文題は死亡地届、発行人は平野警察署長となっている。
ここで死亡地の検証を試みるのは上記の文を見れば何処《どこ》にも不審を見いだせ無い様だが実は幾つかの疑問を感じるからである。
第一に死亡届け人が「同居人、母齊藤マツ」となっている事、マツは当初安三郎宅に居住し空襲の激化に伴い被災の数ヶ月前に京都の末子富五郎宅に転居している、被災と幸次郎伯父の死亡(または行方不明)の連絡は京都にも届いていたとは思われるが死亡届けを出したのは恐らく後述する様に安三郎であろうし、第一マツ自身が届けを出しに行ける様な健康状態で無かった事は確かである。
次に普通死亡した場合には「死亡届」(死亡地届ではない)としこれに死亡診断書、変死が疑われる時には死体検案書《注1》その他が付されるものである。
幸次郎伯父の「死亡地届」は平野警察署から本籍地の京都上京区役所に回送され、更に京都地方法務局に移管されこの原本は今も同法務局に保管されていた、これには死体検案書、死亡診断書は付されていない、死亡地届(死亡届ではない)の意味について問い合わせた所現在の一般的な法律上では発行されていない形式で意味不明と回答であった、恐らく空襲後の多数の遺体の全ての検案は出来ず、死亡のみを確認しこのような形となったのではと推測される。
これについては以下の記録(電話による問い合わせの答え)が参考になる。 空襲当時旧平野警察署は焼けずにすみ、鎮火
直後から外勤主任3名が管内を3っに分け、検屍に当たっていたがその内の二人大槻《おおつき》警部補と小坂
部警部補の話を聞く事が出来た。
大槻警部補の話では当時の平野署長の指示もあって出来る限り遺体の身許が判る様努力したと言う、氏名の判明している遺体に
ついては氏名、性別、推定年齢、死亡場所(町名、地番地)を書き取り遺物を採取したと言う、また氏名の判明しない者にについては
氏名以外は全く同じ事をし、全く何も判らない者については死亡場所のみ控えておいて遺体処理にあたったと言う、この大槻警部補と
その部下の担当区域内に新大橋三丁目が含まれていた、この遺体処理については別方向を担当した小坂部警部補も同じ事を回答してい
る。
これらの物件等は署に持ち帰り、氏名は紙に書き公示し、遺物は署内(留置所内)に展示された。
遺体処理も進み、軍隊が出動するとともに遺体は公園、空き地、その他に埋葬されたがその際も氏名の判明しているものは墓標
に書き、遺体発見場所は紙に書いて貼ったり口頭で答えたと証言している。
そして遺族が死者名、遺物を発見した場合、遺族の証言に従って死亡を確認したが書類は別の署員の担当なので死亡届と書いた
か死亡地届と書いたかは記憶に無いとの事である。
以上の話を信ずるならば大槻警部補かその部下の誰かが幸次郎伯父の遺体を発見し、記録しておいたのは間違いないなく、その
場所、「深川区新大橋三丁目六番地」が幸次郎伯父の死亡地と断定して良いと思われる。
ここで新大橋三丁目六番地について考えて見たい、この場所は八名川国民学校からおよそ60~80m北側にあたる(但し電話調査で
あり実証はしていない)、当時新大橋三丁目は電車通りをはさみ砂川方向に向かって右側、八名川《やながわ》国民学校側が偶数番地、左側が奇数番地となっていた、そしてこの付近の避難場所は新大橋橋上、清澄庭園、そして八名川国民学校である。
注意しておきたいのは「新大橋三丁目六番地」とあると六番地の路上か同番地の宅地内かと思われるが必ずしもそうでは無い、
その一例を上げる。
「昭和20年3月10日午前2時ごろ深川区東陽町三丁目三番地において死亡、須崎警察署長代理 鈴木実報告」、これは当時の都庁の職員の妻の死亡報告であるが空襲時夫は消火活動に残り、妻には避難場所を指示して別れている、そのまま妻は行方不明となり避難場所にも見当たらないので教えておいた避難路にそって探していた所、避難場所に近い「川中」で2日後妻の遺体を発見したのである、この間約2Kmである。
新大橋三丁目六番地であるが本所区竪川《たてかわ》の千歳川から常盤町南端の小名木川までの間に六
間堀《ろっけんぼり》川と称する川が流れていてこれが新大橋三丁目の偶数番地東端から八名川国民学校のそ
ばを通っている、当時の地番迄記した地図が見つからないので断定は出来ないが幸次郎伯父の遺体がこの川から引き上げられた可能性は十分にある、ただし火に追われて川中に入ったのであろうから潮の関係で実際の死亡地はこの地点よりすこし上、下流の可能性はあるしこの番地にあった防空壕、防火用水おけ内かも知れない、いずれにせよその遺体は氏名が判る状態であった事は間違いなく、その後遺体は猿江公園に運ばれ仮埋葬されたものであろう、なを記録によれば路上の遺体は比較的早く処理されたが川中の遺体は相当長期間の間、何体ずつか浮上し続けたと記されている。
最後に当時新大橋三丁目十二番地で歯科医を開業していた浅野医師の話(電話による聞き取り)の一部をのせる。
私の住んでいた十二番地から、六番地は道を隔てた向こう側になるはずだが齊藤幸次郎と言う人は知らない、当時自分は歯科医
であったが他の開業医2名と共に救護医として空襲の時は八名川国民学校に詰める事になっていた、当夜は空襲警報が鳴る前から火の手が上がり、石川島《いしかわじま》方面、本所方面、砂川方面が大きく燃えていた。
近くの風呂屋に焼夷弾《しょういだん》が落下し炎上し始めた(この風呂屋の事は他の人も同じ話をしている)、妻に先に学校に行く様に言い、自宅が燃え始めたので自分も学校に行った、当時の八名川国民学校は1階 2教室だけが暗室用にかガラス窓の外に鉄製の窓が取り付けられて来ていたが他の医師2名は来なかった、その内学校の周りの建物が燃え始め危険と思われたので、私が指揮して隣の八名川公園に避難し、火が収まる迄地に伏していたがは死者は一人も出なかった、学校は3階より燃え始め結局前述の2教室を除き全焼した。
自分としては八名川国民学校に避難した人の生命を助けたのは私の指揮によるものと信じている。
以上であるがその他には全記録中に八名川国民学校に避難した記録は見い出せ無かった。
もう一つの疑問は安三郎(届け人はマツとなっているが実質は安三郎に間違い無いであろう)が何故空襲後20日で死亡届けを出
したかと言う事である。
先述の大槻、小坂部両警部補の話、記録中にある平野警察署長の手記によればあの惨状にも関わらず遺体が家族に確認出来る様
に最大限の努力を払っているが他方、全く何の証拠も無い遺体(例えば白骨状態で何の遺物(所持品)が無い場合には家族の自宅の焼
け跡であっても申し出通りに認める事はしていない、何故なら殆《ほとんど》どの人が自宅炎上時に逃げ出しているので他の人がそこで死亡している可能性が高かったからだと言う、
例えば9日夜、幸次郎伯父と共に安三郎宅に来ていた山本幸雄(安三郎の姉の子)も空襲後行方不明になったが幸雄の自宅の防空壕の中で発見された、ただ全く身許の判別つかない遺体だったので幸雄本人かは判らず、後日尋ねて来た家族は壕の土を持って帰ったと聞かされている。
安三郎と安彦が精力的に10日近くも探しているにも関わらず、本人は現れず、怪我《けが》をしていたとしても何処にも収容されていないとすればあの状況下では死亡したとしか考えざるを得ないであろう。
ただ死亡届を出すにしても遺体等が無ければ法的にも受け付けられないのは確かである、少しそれるがここで氏名が判っていな
がら遺体が本人かどうか確認出来なかった例をあげる
当時の警視庁の埋葬記録では猿江《さるえ》公園の被埋葬者数は3月15日現在10259名、これは他の埋葬地菊川公園4515名、中和公園3850名に比して圧倒的に多い、この他は1000名以下である、そして仮埋葬者はほとんどが墓標が立てられ、姓名の判明している者は名が書かれていた様である、記録の中で避難中父と弟が大横川川中で行方不明となり、近所の人の話から5日後猿江公園で両名と同名の墓標を見つけたが、一度埋葬したものは3年間掘り出しを禁じると警察官に制止され、そのまま引き返したと言う話がある。
この人は偶然齊藤姓だったのでこの人を探し出して斎藤幸次郎名を見なかったかどうか聞きたかったが連絡は取れなかった。
この3年間禁止令は後2件記録に現れ、内1件は隅田公園の事であるが後で夜密かに掘り出し、遺体を確認の上髪の毛だけを入手したとある、ただこの3年間の禁止令については大槻、小坂部両警部補共記憶に無いとの事であり、墓標中に近親者の名を見いだした時に掘り返しを認めたかについては大槻警部補は認めたといい、小坂部警部補は遺族が多くキリが無いので認めなかったと言っている。
元に戻るが安三郎の場合、安彦と共に何日間も捜査したにも関わらず本人は現れず、また負傷していたとしても何処にも収容さ
れていないとすれば、あの状況下では死亡したのではと考えるのは当然である、後で軍隊が遺体収容に当たる様になって遺体収容が少
しずさんになったと記録にはあるが少なくとの警察は身許が確認される様努力していたのは確実である。
ここで気になるのが安彦と安三郎が数年後公開名簿で齊藤幸次郎の幸の字が他の字であるが推定年齢、身体特徴が酷似《こくじ=そっくり》しているのを見いだした事である。
もし空襲後の捜査中に安三郎が平野警察署、或は猿江公園等でこの名前を見ていたとすれば(しかも確認の掘り出しは認められ
ないとすれば)、そして遺品、遺物も無ければ名簿上の記載に従って死亡の書類を申請し、死亡届を出したのではと推測したくなる、
この絶対的な確認が出来ない事で安三郎は安彦、義隆、美智子、和子には話さなかったのであろうし、後年安彦と2人で名簿を見に行った事も安三郎にとっては再確認の意味があったのかも知れない。
ただこれはあくまで仮説であって安三郎の心情を勝手に推測するのは憚《はばか》れるし、更に他の推
測も成り立つであろうし、それが出来るのは安三郎の近くにいて普段の心情、行動を知る人々であろう、ただこのように考える以外誰
も教えられていない理由の説明が困難であるのと義隆の記憶とも結びつくのである。
注 死体検案書=医師の診察を受けずに死亡した者について、死亡を確認して医師が出す証明書
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