幸次郎伯父の調査 (4) 斉藤 匠司
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幸次郎伯父の調査 (1) 斉藤 匠司 (編集者, 2007/4/21 8:38)
- 幸次郎伯父の調査 (2) 斉藤 匠司 (編集者, 2007/4/22 7:47)
- 幸次郎伯父の調査 (3) 斉藤 匠司 (編集者, 2007/4/23 7:49)
- 幸次郎伯父の調査 (4) 斉藤 匠司 (編集者, 2007/4/24 7:44)
- 幸次郎伯父の調査 (5) 斉藤 匠司 (編集者, 2007/4/25 8:02)
- 幸次郎伯父の調査 (6) 斉藤 匠司 (編集者, 2007/4/26 7:35)
- 幸次郎伯父の調査 (7) 斉藤 匠司 (編集者, 2007/4/27 7:01)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
次に記憶が無いという事で(但し義隆は帰宅は遅かったが)3人一致するのが
幸次郎伯父は3月9日の夜来ていたと言う記憶が無い事である。
では以下に幸次郎伯父の居住地の検証に入る。
1)高橋方面(和子の記憶による )
2)深川の電話局(美智子の記憶による)
3)新大橋方面(義隆の記憶による)
4)佐賀町方面(安彦の記憶による)
1)については高橋は一丁目から五丁目まで他に情報が無く不明である、高橋地区生存者の記録中に斎藤姓が7名記載されているが7名中死亡は3名、生、死者とも姓、名が明らかであるか年齢、職業上からして別人である、なをこの他には前記の参考資料の中に斎藤姓は見つける事は出来なかった。
ただ仮に高橋地区に居住していても記録に出て来る限り高橋地区の人達は新大橋方向には避難していない、但《ただ》し新大橋三丁目で死亡と死亡届けにあるのでこれが真実ならばその方向に避難しその地点付近で死亡しても距離(最大3Km)からしてうなずけるし、逆方向(砂川方面)に避難中に死亡して猿江《さるえ》公園に仮埋葬されたとしても無理は無いと思はれる。
2)については現在の電電公社隅田局に問い合わせた所、当時昭和14年開設の中央電話局深川分局が深川二丁目にあったが無人局で男子技術者が2名常駐して保守点検にあたっていたがもし幸次郎伯父が雇《やとわ》われていたとしたら守衛と考えられるが、当日勤務の技術職員2名の氏名を含めて記録は何も残されていないとの返事であった。
ただしこの深川の分局は焼け残り深川地区2丁目の生存者の手記にも「主人は近所の人7人と電話局に避難して助かった」と記されている、なを現隅田局は焼けて死者も出たがこれらの氏名は判っていてその中に幸次郎伯父の名前は無い。 以上の事から幸次郎伯父が当夜分局に勤務し職務義務上避難していなければ存命のはずであり、もしそこより避難したとしたら距離的に新大橋3丁目迄到達した可能性は少なく、避難途次《=途中》死亡したとすればその遺体は猿江公園ではなく、東陽公園、東陽町2丁目の空き地、深川公園に収容されていたと推定される、何故なら深川、木場方面の人は越中島《えっちゅうじま》、東雲《しののめ》町等の海岸地帯を目指して避難し、およそ1~2Km以内で多数死亡しているからである。
3) については新大橋は一丁目から三丁目迄あるが義隆の記憶にはその何処に住んでいたかは覚えていない、だだ後の死亡地の検証で述べるがもし新大橋に住んでいたとしたら新大橋三丁目六番地、即ち死亡届地届に記載されている可能性もある。
4)について、安彦の記憶する佐賀町は一丁目と二丁目とに分れていたがその殆どは空襲の被害を免れている、ここでよほど注意しなければならないのは引用している文献、記録集は全て焼亡の記録ばかりで焼け残った地区ついての記録が無く、僅かにその地区にのがれた人の記録の中に散見《=あちこちにみえる》するだけである、それ故佐賀町に住んでいた人の記録は皆無である。
佐賀町一丁目、二丁目については当時そこに住んでいて状況を知る稲垣、朝比奈両氏に電話で尋ねたが両氏共佐賀町一帯には焼夷弾は一発も落ちず、ただ隅田川の船が炎上しその火の粉で倉庫の一部と家屋数軒が焼けただけで死者は一名も出なかったとの答えであった。
これは風向きも幸いしたらしい、それを裏付ける資料として深川二丁目に住んでいた人が炎の中を突っ切って佐賀町の倉庫に逃げ込み助かったと言う記録がある、因《ちなみ》に佐賀町一帯は倉庫の多い所である。
もし安彦の記憶通り幸次郎伯父が佐賀町に居住していたとしたら、深川の電話局にも近いし父安三郎が被災後家主(又は同居人)に会うのも容易であったはずである、そして3月9日夜から戻っていないという事と電話局にも同夜勤務していないらしいのでこれは同夜10時近くまで安三郎宅に来ていたと言う安彦の記憶にも繋がってくる、ただ佐賀町の居宅が焼けていないとすれば、そして家主に会ったとすれば幸次郎伯父の遺品整理はどうしたのか4人の記憶 が無いので疑問が残る。 それについては被災後は焼け跡には無事と連絡先を教える立て札が立てられていた事は当時よく皆知る事であり、幸次郎伯父は例えば新大橋付近に居住し、家主の住居は佐賀町にあったとすれば、安三郎は佐賀町迄尋《たず》ねて行って幸次郎伯父の消息は掴め《つかめ》なかった事も納得出来るし、遺品などが無い事の説明もつく。
家主の言うその夜は帰っていなかったと言う話は一つは家主が九日夜所用で幸次郎伯父の借家(またはアパート)に来ていて空襲が始まるより前に佐賀町に戻った、これでも当夜帰っていなかったとの説明はつくし或は家主自身空襲時避難し、後親類等を頼って佐賀町にいたとも考えられる、となれば佐賀町に居住していたかどうか疑問にも思える。
以上考えられる4カ所の居住地について考えたが可能性のあるの新大橋か佐賀町であろう、今後は両者併せて考えて見たい、ただ人間の記憶は40年近くたてばうすれがちであり10年前に発刊された記録集では明らかな記憶違いが随所に見受けられる、またこのような文献のみの調査ではとかく調べる者に都合の良いものを選びがちでいわゆる『我田引水』《がでんいんすい=自分につごうよく》に落ち入りやすいものである、よって今後はその点に留意して読んで頂きたい。
幸次郎伯父は3月9日の夜来ていたと言う記憶が無い事である。
では以下に幸次郎伯父の居住地の検証に入る。
1)高橋方面(和子の記憶による )
2)深川の電話局(美智子の記憶による)
3)新大橋方面(義隆の記憶による)
4)佐賀町方面(安彦の記憶による)
1)については高橋は一丁目から五丁目まで他に情報が無く不明である、高橋地区生存者の記録中に斎藤姓が7名記載されているが7名中死亡は3名、生、死者とも姓、名が明らかであるか年齢、職業上からして別人である、なをこの他には前記の参考資料の中に斎藤姓は見つける事は出来なかった。
ただ仮に高橋地区に居住していても記録に出て来る限り高橋地区の人達は新大橋方向には避難していない、但《ただ》し新大橋三丁目で死亡と死亡届けにあるのでこれが真実ならばその方向に避難しその地点付近で死亡しても距離(最大3Km)からしてうなずけるし、逆方向(砂川方面)に避難中に死亡して猿江《さるえ》公園に仮埋葬されたとしても無理は無いと思はれる。
2)については現在の電電公社隅田局に問い合わせた所、当時昭和14年開設の中央電話局深川分局が深川二丁目にあったが無人局で男子技術者が2名常駐して保守点検にあたっていたがもし幸次郎伯父が雇《やとわ》われていたとしたら守衛と考えられるが、当日勤務の技術職員2名の氏名を含めて記録は何も残されていないとの返事であった。
ただしこの深川の分局は焼け残り深川地区2丁目の生存者の手記にも「主人は近所の人7人と電話局に避難して助かった」と記されている、なを現隅田局は焼けて死者も出たがこれらの氏名は判っていてその中に幸次郎伯父の名前は無い。 以上の事から幸次郎伯父が当夜分局に勤務し職務義務上避難していなければ存命のはずであり、もしそこより避難したとしたら距離的に新大橋3丁目迄到達した可能性は少なく、避難途次《=途中》死亡したとすればその遺体は猿江公園ではなく、東陽公園、東陽町2丁目の空き地、深川公園に収容されていたと推定される、何故なら深川、木場方面の人は越中島《えっちゅうじま》、東雲《しののめ》町等の海岸地帯を目指して避難し、およそ1~2Km以内で多数死亡しているからである。
3) については新大橋は一丁目から三丁目迄あるが義隆の記憶にはその何処に住んでいたかは覚えていない、だだ後の死亡地の検証で述べるがもし新大橋に住んでいたとしたら新大橋三丁目六番地、即ち死亡届地届に記載されている可能性もある。
4)について、安彦の記憶する佐賀町は一丁目と二丁目とに分れていたがその殆どは空襲の被害を免れている、ここでよほど注意しなければならないのは引用している文献、記録集は全て焼亡の記録ばかりで焼け残った地区ついての記録が無く、僅かにその地区にのがれた人の記録の中に散見《=あちこちにみえる》するだけである、それ故佐賀町に住んでいた人の記録は皆無である。
佐賀町一丁目、二丁目については当時そこに住んでいて状況を知る稲垣、朝比奈両氏に電話で尋ねたが両氏共佐賀町一帯には焼夷弾は一発も落ちず、ただ隅田川の船が炎上しその火の粉で倉庫の一部と家屋数軒が焼けただけで死者は一名も出なかったとの答えであった。
これは風向きも幸いしたらしい、それを裏付ける資料として深川二丁目に住んでいた人が炎の中を突っ切って佐賀町の倉庫に逃げ込み助かったと言う記録がある、因《ちなみ》に佐賀町一帯は倉庫の多い所である。
もし安彦の記憶通り幸次郎伯父が佐賀町に居住していたとしたら、深川の電話局にも近いし父安三郎が被災後家主(又は同居人)に会うのも容易であったはずである、そして3月9日夜から戻っていないという事と電話局にも同夜勤務していないらしいのでこれは同夜10時近くまで安三郎宅に来ていたと言う安彦の記憶にも繋がってくる、ただ佐賀町の居宅が焼けていないとすれば、そして家主に会ったとすれば幸次郎伯父の遺品整理はどうしたのか4人の記憶 が無いので疑問が残る。 それについては被災後は焼け跡には無事と連絡先を教える立て札が立てられていた事は当時よく皆知る事であり、幸次郎伯父は例えば新大橋付近に居住し、家主の住居は佐賀町にあったとすれば、安三郎は佐賀町迄尋《たず》ねて行って幸次郎伯父の消息は掴め《つかめ》なかった事も納得出来るし、遺品などが無い事の説明もつく。
家主の言うその夜は帰っていなかったと言う話は一つは家主が九日夜所用で幸次郎伯父の借家(またはアパート)に来ていて空襲が始まるより前に佐賀町に戻った、これでも当夜帰っていなかったとの説明はつくし或は家主自身空襲時避難し、後親類等を頼って佐賀町にいたとも考えられる、となれば佐賀町に居住していたかどうか疑問にも思える。
以上考えられる4カ所の居住地について考えたが可能性のあるの新大橋か佐賀町であろう、今後は両者併せて考えて見たい、ただ人間の記憶は40年近くたてばうすれがちであり10年前に発刊された記録集では明らかな記憶違いが随所に見受けられる、またこのような文献のみの調査ではとかく調べる者に都合の良いものを選びがちでいわゆる『我田引水』《がでんいんすい=自分につごうよく》に落ち入りやすいものである、よって今後はその点に留意して読んで頂きたい。
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編集者 (代理投稿)