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幸次郎伯父の調査 (6) 斉藤 匠司

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通常 幸次郎伯父の調査 (6) 斉藤 匠司

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/4/26 7:35
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
  9、幸次郎伯父の空襲当時の行動の推定

   幸次郎伯父の居住地が何処か、佐賀町については家主は被災後佐賀町にいても住居は他の所である可能性が大である、何故なら被災《=災害にあう》していない佐賀町から遺品、遺物を安三郎が持って来ていない事からも推測出来る、恐らく新大橋か高橋方面であったのではないかと思われる。
   安彦の記憶によれば山本幸雄と幸次郎伯父は遅くとも10時ごろには帰ったのであり、その後山本幸雄宅に寄ったかどうかは不明
であるが義隆の指摘によれば幸雄宅は石原町で安三郎宅からは徒歩約10分石原町から新大橋まではかなりの距離があるとの事で都電を
利用したかも知れない、他方安彦の指摘によれば幸次郎伯父は徒歩か自転車を利用する事が多かったとの事である。
   この都電であるが昭和16年12月の使用済み東京市電(当時)の乗車券の系統図によれば厩橋一丁目から新大橋、門前仲町(永代橋)方面に行くには少なくとも2系統はあり直通系統があった様である、もし幸次郎伯父が都電を使用していたら確実に空襲以前に新大橋方面(佐賀町であっても)の自宅に戻っていたであろう、それに空襲は午前0時8分からであり走行中の都電はなく、記録上も都電車庫内の炎上の記録はあるが走行中の都電が炎上した記録はない。
   もし幸雄宅に寄った場合、幸雄宅をいつ出たかが問題になるが10時半に一度警戒警報が出され、30分程で解除されているのでその間だとすると新大橋の自宅に帰る前後に空襲が始まった事になる。
   自転車、徒歩であってもまっすぐ新大橋方面の自宅に帰ったとしたら空襲開始時には就寝していたかも知れない。
   焼夷弾の投下が始まり、空襲警報が鳴り、或は自宅の炎上と共に外に出たであろうが後は推測する余地さえ無くなる、八名川国民学校に行こうとしたが八名川国民学校そばの風呂屋の炎上に伴い南下を諦め電車通りを東上して猿江公園か江東区境の強制疎開地を目指したかと思われる。 
   なぜ電車通りかという理由は当時避難する人々は自然発生的に大通りを目指しており、まだ燃えていない町並みの小路でも殆ど
人気が無かったと言う記録が随所に見受けられる、実際炎上する家の間を逃げるには大通りの方がまだしも逃げやすく、また多数の人々が流れて行く方向について行くのは心理上無理からぬ事である。
   ここで新大橋三丁目の当時の居住者への電話聞き取り調査による次の証言をのせる。
   その一人は警防団員が八名川国民学校は危険だから竪川方面に逃げる様指示していたと語り、他の人は八名川国民学校に避難の予定が学校近くの風呂屋に焼夷弾が落ちて炎上し、行く手を阻《はば》まれたので猿江公園を目指したが菊川橋上で大混乱となり、大横川に飛び込んで助かったが沢山の人が川中で死亡したと証言している。
   新大橋一~三丁目、森下町、清澄町、常磐町の生存者は新大橋、清洲橋、又は清澄庭園に避難して助かっている、また北方向、本所方面に逃げた人々は中には総武線のガード下(両国ー錦糸町間)約5Kmに迄達した人もあるが殆どの人はそれ以前に火に挟まれ家族の何人かを亡くしている。
   しかし幸次郎伯父の場合はいくらも行かぬうち菊川町方面からの避難者との合流(鉢合わせ)による大混乱と炎上する家屋群の中で川に火をさけたか落ちたのであろう、
もしかしたら道路そばの防空水槽かも知れないし、防空壕《=空襲のときに避難するため、地中に造った穴》
に入ったかも知れない、その場所は新大橋三丁目六番地である。
   もし高橋方面なら近くに避難所として前述の深川国民学校、高橋国民学校、墨田工業学校があり、森下公園も近くなので新大橋三丁目で遺体が発見される理由が判りにくい、ただ高橋各町の南端は小名木川に接しているのでその川中で死亡し、その遺体は潮の流れにより六間堀川まで流れたとも考えられる。
   もし佐賀町地区であれば厩橋《うまやばし》から佐賀町は直線で約7Km、実際はもっとあったであろうから幸次郎宅に寄っていたとすれば徒歩では空襲前に自宅に帰るのは少し困難であったろう、となればどの経路を取ったかは全くわからないが総武線のガード下を通り抜け、竪川にかかる橋も渡り終えていたかその近くに来ていたと仮定すると丁度この付近で空襲第一波の投弾を見ていたかも知れない、新大橋、高橋方面は比較的炎上が遅く、竪川方面は投弾され炎上し、深川区の、深川、木場方面も投弾炎上し始めたとすれば暗い方向(新大橋方面)に逃げ惑う多数の人々と共に押し流されて行ったとも考えられるし、火炎から六間堀川に難を避けようとしたと推測出来る余地はある。       
   いずれにせよ氏名等が判る遺体状況で恐らく大槻警部補かその部下により遺体確認を受け、猿江公園に仮埋葬されたと思われる。
  

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編集者 (代理投稿)

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