幸次郎伯父の調査 (3) 斉藤 匠司
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幸次郎伯父の調査 (1) 斉藤 匠司 (編集者, 2007/4/21 8:38)
- 幸次郎伯父の調査 (2) 斉藤 匠司 (編集者, 2007/4/22 7:47)
- 幸次郎伯父の調査 (3) 斉藤 匠司 (編集者, 2007/4/23 7:49)
- 幸次郎伯父の調査 (4) 斉藤 匠司 (編集者, 2007/4/24 7:44)
- 幸次郎伯父の調査 (5) 斉藤 匠司 (編集者, 2007/4/25 8:02)
- 幸次郎伯父の調査 (6) 斉藤 匠司 (編集者, 2007/4/26 7:35)
- 幸次郎伯父の調査 (7) 斉藤 匠司 (編集者, 2007/4/27 7:01)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
6、一般住民の死亡状況と遺体存在場所、及びその処理
一般住民の死亡状況は焼死、溺水《できすい=水没して窒息した》死、及び広義の窒息死に分けらるが勿論これらが複雑にからみあっている事は言うまでも無い。
日本側の記録には公式、非公式共に遺体解剖の記録は皆無である、これはドイツのハンブルグ大空襲でも約10万人死亡したがその際に多数の遺体解剖をし、そのほとんどが一酸化ガス中毒死(遺体は後で焼け、焼死体に見える)と報告しているのと対称的である。
日本の記録の中でも学校内、防空壕内で火を避けているうちに眠ってしまったというのが幾つもあるがこれらは、一酸化ガス中毒或は酸欠状態による意識喪失とも考えられる。
遺体の存在場所は大別すると焼失家屋内、路上とその付近、防空壕、地下室、川、掘り割り《=運河・用水路》等に分けられる。
その内、屋内(国民学校の焼失した講堂内等)の下積遺体は圧迫死或は窒息死か一酸化ガス中毒による死亡、川、掘り割りでは溺死、凍死等が多くこれらの遺体は損壊が少なく着衣に付けられた名札、或は遺物で氏名が判明している事も多く、その数およそ2万名その内1万名は縁者に引き取られ、残りは警察署指定の公寺院、空き地等に仮埋葬の上氏名を書いた墓標をたて遺体発見場所も公示した、場所によっては氏名を書き取り遺物を取った上遺体を収容し指定場所で火葬にした、なを身元不明の遺体についてはその発見場所、遺体の特徴を記入の上遺物を採取し、これらを公示、展覧している。
この事については当時平野警察署員として部下を指揮して遺体処理と検屍に当たった小坂部、大槻両氏からも確認する事が出来た、但し全く性別、遺物、身元その他が不明の遺体については発見地のみ記録したとの事である。
なをこれらの記録書類については深川署に問い合わせたが15年後に全て焼却処分たとの事であった。
7、幸次郎伯父の居住地及び勤務地の検証(なお今後は幸次郎伯父を除き尊称、敬称は略する)
ここで先ず直接関係者、斎藤一家の記憶を載せる。
1)安彦(当時19才)
3月9日夜幸次郎伯父は山本幸雄と共に家に来ていた、2人で帰ったのは夜九時時過ぎだったと記憶している、電話局に勤めていたと聞いている、空襲後父と義隆と何日も手分けして幸次郎伯父を探して歩いた、それこそ心当たりはくまなく探し、被災者の収容所となっていた各学校は勿論、猿江公園にも行った記憶がある、当時幸次郎伯父は佐賀町に住んでいたのは間違いない、父安三郎から佐賀町の家主(又は同居人)に会ったが9日夜から帰っていないと聞かされた、父から幸次郎伯父の遺体、遺品、公示された名前その他を見つけたという話は当時聞いていない、ただそれから何年か後、父と共に幸次郎の次の字が違う名簿を見たが書かれている推定年令、遺体の特徴から幸次郎伯父ではないかと思った。
2)美智子(当時24才)
3月9日の夜幸次郎伯父と山本幸雄が来ていたと言う記憶は無い、戦争のいつごろからか母から幸次郎伯父は住み込みで深川の電話局に勤めになったときかされたのを記憶している、佐賀町の事は全く知らない。
3)義隆(当時16才)
3月9日夜10時か10時半頃家に戻った、幸次郎伯父が来ていたとう事は聞いていないが、もし来ていたなら自分が帰る前に帰ったのだと思う、幸次郎伯父は当時新大橋に住んでいると思っていた、佐賀町に住んでいたとは聞いていない、電話局に勤めていたと記憶していたので電話局が新大橋にあったものと思っていた、空襲後父が新大橋付近の事を特に気にしていたのをよく覚えている。
父からは幸次郎伯父の遺体、遺品、公示された名前その他を見つけたという話は聞いていない。
4)和子(当時13才)
3月9日の夜幸次郎伯父が山本幸雄と来ていたと言う記憶は無い、普段高橋の伯父さんと呼んでいたと思うが新大橋かも知れない、電話局の事は記憶に無い。
父からは幸次郎伯父の遺体、遺品、公示された名前その他を見つけた、と言う話は聞いていない
以上をまとめると、記憶が一致するのが電話局に勤めていたらしい事と4人共父親か
ら遺体、遺品、公示された名前その他を聞いていない事である。
一般住民の死亡状況は焼死、溺水《できすい=水没して窒息した》死、及び広義の窒息死に分けらるが勿論これらが複雑にからみあっている事は言うまでも無い。
日本側の記録には公式、非公式共に遺体解剖の記録は皆無である、これはドイツのハンブルグ大空襲でも約10万人死亡したがその際に多数の遺体解剖をし、そのほとんどが一酸化ガス中毒死(遺体は後で焼け、焼死体に見える)と報告しているのと対称的である。
日本の記録の中でも学校内、防空壕内で火を避けているうちに眠ってしまったというのが幾つもあるがこれらは、一酸化ガス中毒或は酸欠状態による意識喪失とも考えられる。
遺体の存在場所は大別すると焼失家屋内、路上とその付近、防空壕、地下室、川、掘り割り《=運河・用水路》等に分けられる。
その内、屋内(国民学校の焼失した講堂内等)の下積遺体は圧迫死或は窒息死か一酸化ガス中毒による死亡、川、掘り割りでは溺死、凍死等が多くこれらの遺体は損壊が少なく着衣に付けられた名札、或は遺物で氏名が判明している事も多く、その数およそ2万名その内1万名は縁者に引き取られ、残りは警察署指定の公寺院、空き地等に仮埋葬の上氏名を書いた墓標をたて遺体発見場所も公示した、場所によっては氏名を書き取り遺物を取った上遺体を収容し指定場所で火葬にした、なを身元不明の遺体についてはその発見場所、遺体の特徴を記入の上遺物を採取し、これらを公示、展覧している。
この事については当時平野警察署員として部下を指揮して遺体処理と検屍に当たった小坂部、大槻両氏からも確認する事が出来た、但し全く性別、遺物、身元その他が不明の遺体については発見地のみ記録したとの事である。
なをこれらの記録書類については深川署に問い合わせたが15年後に全て焼却処分たとの事であった。
7、幸次郎伯父の居住地及び勤務地の検証(なお今後は幸次郎伯父を除き尊称、敬称は略する)
ここで先ず直接関係者、斎藤一家の記憶を載せる。
1)安彦(当時19才)
3月9日夜幸次郎伯父は山本幸雄と共に家に来ていた、2人で帰ったのは夜九時時過ぎだったと記憶している、電話局に勤めていたと聞いている、空襲後父と義隆と何日も手分けして幸次郎伯父を探して歩いた、それこそ心当たりはくまなく探し、被災者の収容所となっていた各学校は勿論、猿江公園にも行った記憶がある、当時幸次郎伯父は佐賀町に住んでいたのは間違いない、父安三郎から佐賀町の家主(又は同居人)に会ったが9日夜から帰っていないと聞かされた、父から幸次郎伯父の遺体、遺品、公示された名前その他を見つけたという話は当時聞いていない、ただそれから何年か後、父と共に幸次郎の次の字が違う名簿を見たが書かれている推定年令、遺体の特徴から幸次郎伯父ではないかと思った。
2)美智子(当時24才)
3月9日の夜幸次郎伯父と山本幸雄が来ていたと言う記憶は無い、戦争のいつごろからか母から幸次郎伯父は住み込みで深川の電話局に勤めになったときかされたのを記憶している、佐賀町の事は全く知らない。
3)義隆(当時16才)
3月9日夜10時か10時半頃家に戻った、幸次郎伯父が来ていたとう事は聞いていないが、もし来ていたなら自分が帰る前に帰ったのだと思う、幸次郎伯父は当時新大橋に住んでいると思っていた、佐賀町に住んでいたとは聞いていない、電話局に勤めていたと記憶していたので電話局が新大橋にあったものと思っていた、空襲後父が新大橋付近の事を特に気にしていたのをよく覚えている。
父からは幸次郎伯父の遺体、遺品、公示された名前その他を見つけたという話は聞いていない。
4)和子(当時13才)
3月9日の夜幸次郎伯父が山本幸雄と来ていたと言う記憶は無い、普段高橋の伯父さんと呼んでいたと思うが新大橋かも知れない、電話局の事は記憶に無い。
父からは幸次郎伯父の遺体、遺品、公示された名前その他を見つけた、と言う話は聞いていない
以上をまとめると、記憶が一致するのが電話局に勤めていたらしい事と4人共父親か
ら遺体、遺品、公示された名前その他を聞いていない事である。
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編集者 (代理投稿)