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私の敗戦体験 (路傍の小石)

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通常 私の敗戦体験 (路傍の小石)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/8/28 9:08
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 はじめに

 インターネットが一般家庭にまで普及したのは20世紀末で、それ以前は、パソコン通信による交流が行われており、このメロウ倶楽部の出身母体もニフティーサーブの運営していたパソコン通信の高齢者向けフォーラムの「メロウフォーラム」です。
 この投稿は、その当時、パソコン通信上に掲載されたものをご本人の了承を得て転載するものです。

 (メロウ伝承館スタッフ)


 私の敗戦体験 (その1・八月十五日)

 五十年前のあの日八月十五日、私は旅順《りょじゅん 注1》師範学校附属国民学校の三年生でした。
 夏休みのことです。
 正午にラジオを聞くようにとの知らせを私は知りませんでした。
 でもラジオから「君が代」が流れてくると、母は衣服を正しラジオの前に正座したのです。
 私はその後ろに同じように正座しました。
 ラジオの前で、頭をさげて玉音放送《ぎょくおんほうそう 注2》を聞きました。
 勿論私に放送の内容などは判る筈がありません。
 母が「日本が戦争に負けた」と教えてくれました。
 泣いていたでしょうか・・・覚えておりません。父は出征《しゅっせい=軍隊に徴兵され戦地に行く》していて不在でした。
 弟・妹達が何処にいたのか、何をしていたのか・・・私の記憶には母と私の二人だけ、後は暑い夏の陽射しと、やけに静かな音のない透明な世界が残っているだけです。
 「日本が負けた?」そんな馬鹿な・・・私にはとても信じられませんでした。
 「ソ連が参戦(もっと易しい言葉だったとおもいますが)、それで日本は降伏した」という事でした。そんな馬鹿な・・・「ソ連なら一週間も戦えば必ず降伏するのに」と思った事を覚えています。

 旅順は日露戦争《注3》の激戦地です。
 朝な夕な戦跡「爾霊山」《にれいさん 注4》 を仰ぎ見、毎月八日には「忠霊塔」《注5》 に参拝して、日露の戦いで日本兵がどんなに勇敢に戦ったかを、
 幼いながら誇りに思って育ちました。
 それがいきなり「ソ連に降伏」と言われて信じる事が出来るでしょうか・・・私達は「連合国」とか「アメリカ」とか言わなかったように思います。
 私は外に出てみました。
 真っ青な空と真夏の太陽、そして蝉の声だけの、本当に静かな昼下がりでした。
 お隣の渡来先生のお宅も、その向こうの玲子ちゃんの家もいつもと変わらず、しぃ~んとしていて、何の変化もありません。
 関東神宮《注6》 の方まで行ってみました。人の姿は全くありません。
 「日本が負けた、そんな馬鹿な」心の中でそればかり繰り返し叫んでいました。
 でも平穏はこの日が最後だったのです。
 
 父は幸いにもまだ市内の集結地に居て、数日後帰宅したようです。
 これからどうなるのか・・・
 「写真類は焼くように」との指示があり、ブランコのあるアカシヤの木の下で写真を一枚一枚焼きました。
 アルバムから剥がしては目に焼き付けて、火にくべました。
 悲しくて、悲しくて、涙が後からあとから流れました。
 ビロ―ド草が風に揺れていたように思います。

 8月22日、ソ連軍が進駐してきました。
 旅順はソ連にとっても、忘れ難い父祖奮戦《ふんせん=力をふるって闘った》の地だったのです。
 私がその事に気付いたのは、ずぅ~っと後になってからです。
 ソ連軍は大きなお屋敷から、次々に民家を接収していきます。
 遂に我が家にも「2時間以内に立退」命令がきました。
 父36歳、母29歳、今にして思えばこんな苛酷《かこく=厳しく残酷な》な運命を受け入れるには、あまりに若い二人でした。
 8歳の私から3月に生まれたばかりの妹まで、5人の子供を抱えて、2時間で荷物を纏めるのは容易な事ではありません。
 避難先も、家族が多いので他人さまのお宅は遠慮して、千歳倶楽部(今で言う公民館でしょうか)への入居許可を貰ってそこに引越ました。
 その時父の勤務先の中国人が駆けつけて来て、手伝ってくれました。
 大切なもので持って行けない物はその中国人にあげたり、預けたりしたそうです。
 「預けた」と言う事はまた帰つて来る積もりもあったのでしょうか・・・(^。^)
 荷物を纏めている間、塀の外には中国人が群がって見ていました。
 出て行つたら、残った荷物を奪っていくためです。
 乱暴は働きませんでしたが私は複雑な気持でした。
 扉に緑の奇麗なカ―テンが貼ってある私の大切な本箱、美しいセロファンや千代紙、何処にいってしまったのでしょう。
 確か大八車に載るだけの荷物を持って引っ越ししたのでした。

 千歳倶楽部での生活は何日くらい続いたのか、いつもは必ず鍵をかけておくのに、ある夜かけ忘れたのでしょう、夜中に突然二人のソ連兵が侵入してきました。
 殆どの荷物を置き去りにし、めぼしいものなど何も残っていないのに、あれこれと物色していました。後で聞くとカメラが欲しいと言ったとか。
 奥の部屋の押入で息を殺して恐怖におののいている私達に向かって、突然父が「ゆきの、酔っぱらっているから逃げろ」と叫んだのです。
 母は乳を含ませていた妹を置いて、窓から飛び降りて逃げました。
 ロシア建の高い建物の二階からです。
 その気配に気付いたソ連兵はバタバタと窓に駆け寄り、ピストルをやみくもに発射しました。
 その時の恐ろしさ、「生きた心地がしない」とはこんな時の事でしょう。
 暫くして諦めたのか、ソ連兵は出て行きました。
 母を探して来るから・・・と鍵をかけて父が出ていきました。
 「ゆきの―」「ゆきの―」と呼ぶ父の声が今でも耳に残っています。
 押入の隅で怯えながら父の帰りを待った恐怖を忘れる事は出来ません。
 心細い時間がどれくらい過ぎたでしょうか、母は父におぶさって戻ってきました。
 飛び降りた時に、足を挫いて遠くまで逃げられず、
 近くの陸軍病院の森の中にうずくまっていたのだそうです。
 挫いたくらいで済んだのは、不幸中の幸いでした。
 最初に進駐してきたソ連兵は囚人部隊だと言うう噂でした。
 見つかったらどんな目にあったか想像にかたくありません。
 こうして静かな学園都市旅順は、ソ連兵による略奪と暴行の町と化したのでした。

注1 中国東北部の遼東半島先端の都市で 嘗てロシアの軍港があった
注2 1945年8月15日戦争終結の天皇陛下自らの詔勅を放送された
注3 1904年(明治37年)大日本帝国とロシア帝国とが中国東北部を主戦場に戦い 日本の勝利となり ロシアの租借地を譲りうけた
注4 日露戦争でロシア軍軍港背面の山に要塞があり この要塞を巡る激しい攻防戦があったところ
注5 戦死した人を顕彰する記念塔
注6 中国東北部関東州 旅順市にあった神社 現在廃絶となる

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