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私の敗戦体験 (路傍の小石) (5)

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通常 私の敗戦体験 (路傍の小石) (5)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/9/1 7:48
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
(その5・後で知った事)

 なぜ大連からの引き揚げはこんなにも遅れたのだろうか?
 そこには米ソの対立、国共内戦等が複雑にからみあっていたようです。

 ここに1992年12月28日の新聞の切り抜きがあります。
 『100歳、消えた"党の顔"』という見出しで、
 53年前無実の同志山本懸蔵を裏切り、スパイとして密告した事実が判明、共産党の名誉議長野坂参三が党除名処分になった記事です。
 併記して昭和21年1月26日、日比谷公園で野坂参三氏15年ぶりの帰国を祝う「歓迎国民大会」が盛大に催されたとの記事がありま す。
 この集会で野坂参三は
 「満洲の残留邦人は中国共産党、ソ連軍の庇護《ひご》のもとで
 生活不安もなく安全に暮らしている」と演説したのです。
 人はこんなにも平然と公然と嘘をつき、同胞を裏切る事が出来るものなのか・・・

 この大会の模様をひそかに隠し持ったラジオで知った奉天残留の三人の日本人が決死の覚悟で満洲脱出、マッカ―サ―元帥や吉田首相に在満同胞の窮状を直訴、引揚げの早期実現の為に尽くした話は実に感動的です。
 この事によりどれだけ引揚げが早やまったかは正確には知りませんが、餓死寸前の多くの生命が救われた事は確かでしょう。

 「あと1週間も頑張ればソ連なんか降伏したのに」と
幼い私が単純に考えていた頃。
 ソ連は、日ソ不可侵条約《注1》を無視、疾風の進撃により、一挙に満洲全土を席巻《せっけん=蓆をまく様に領土を攻め取る》
 この怒濤《どとう=荒れ狂う海》のように押し寄せたソ連軍の戦車は、大混乱の中、逃げ惑う避難民を虫けらのように押し潰していたのでした。
 「葛根廟事件」「麻山事件」《注2》その他開拓団の悲劇、ソ連抑留等々ソ連は終戦直前に参戦、残虐の限りをつくしことは忘れられない事です。
 たった1週間連合国の一員になっだけで、戦勝国の中で唯一領土の割譲を強行、以来50年、未だに理不尽に我が国を「侵略」しているのです。

 「日ソ不可侵条約」の破棄が通告された(4月)段階で、
ソ連の魂胆を見抜けず、和平の仲介を依頼した時の為政者。

「今でも理解出来ないのは、日本が終戦直前、ソ連を通し、和平の打診をしていたことだ。日本は真にソ連を中立国、否、他の中立国に比し日本に多少なりとも友好的な中立国と考えていたのだろうか」アメリカの高級参謀の率直な疑問は私の疑問でもあります。

 「なんの為にソ連が米ソ関係を犠牲にしてまで対日関係の増進を考えるだろうか」と対ソ和平工作に内心批判的だった当時の佐藤尚武駐ソ大使。
 「鉛を飲む思いをもってすべての犠牲を忍び国体護持の一途にいづるほかなし」
 「幾百万の無辜《むこ=罪の無い》の都市住民を犠牲にして、なお抗戦の意義ありや」
 「七千万の民草枯れて上御一人《天皇陛下》ご安泰を得べきや」
 「国民は長期にわたり、敵国の重圧にあえがざるを得ず。
 しかしながら国家の命脈はこれによりて継がるべく、かくて数十年の後、
 再び以前の繁栄を回復するを得べん」佐藤尚武駐ソ大使の本国への電報です。

 「祖国の興亡、この一電にかかわるとさえ思われ、書き終わって机に臥《ふ》す。
 涙滂沱《なみだぼうぼう》たり」----------------------------------佐藤尚武(回顧八十年)

 スウェーデン駐在武官小野寺信大佐の「ヤルタの密約情報」を握りつぶした参謀本部。
 感慨無量なものがあります。

 これからも「秘密文書」の公開等で新しい事実が判明するのでしょうか・・・

注1 1941年4月日本とソ連とが お互い侵入しないと条文を作り約束した しかし1945年8月一方的に条約を破棄し侵入してきた
注2 「葛根廟事件」中国東北部葛根廟で 在留邦人千数百人がソ連軍戦車部隊に襲われ 千人以上が惨殺された
  「麻山事件」 1945年8月12日に起こった満蒙開拓団四百数十人が集団自決した

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編集者 (代理投稿)

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