私の敗戦体験 (路傍の小石) (4)
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私の敗戦体験 (路傍の小石) (編集者, 2007/8/28 9:08)
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- 私の敗戦体験 (路傍の小石) (7) 最終回 (編集者, 2007/9/3 8:09)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
(その4・引揚げ)
日本からの迎えの船は待てど暮らせどやって来ない。
終戦二度目の冬にはもう疲れきって、動くとお腹が空くだけだから・・・と何もしないでじぃっと寝ている事にしたと、話した同級生もいました。
こんな時期「こっくりさん」と言う占いが流行りました。
3本の割箸の片方を結んで、片方を足をつっぱるように三方に開いて、文字を書いた紙の上に乗せてるのです。
そして目をつぶって祈るような思いで聞きます。
「こっくりさん、こっくりさん、引揚船は何時来るの、教えて下さい」と・・・すると不思議にも割箸が動いて、文字を指して教えて呉れるのです。
また油揚を使った占いもあったように思います。
とにかく何時になったら日本に帰れるのか不安な毎日、こんな事でもしなければ、やりきれなかったのでしょう。
あと半年、引揚げが遅れたら生きてはいなかった・・・と言った人。
もぅ、生死の境、ぎりぎりのところ、昭和21年も押し詰まった12月、引揚げ第一船が入港したのでした。
奥地からの避難民、大学・高校への内地からの留学生など、今で言う「生活弱者」を乗せて、大連からの引揚げ第一船が出港したのは、年が明けて昭和22年1月1日でした。早い船で絹枝さんも先に帰国しました。
私達家族は終りに近い昭和22年3月22日、第一大海丸で帰国しました。
(正確な記録の第一船は21/12/3のようです)
引揚げが具体化した頃、技術者に中国の復興の為にと、中国政府から残留要請がありました。
大学教授、医者などはおおかた残されたと思います。
父も歯科医である伯父から「内地に帰っても仕事なんかないかも知れないから」と残留を勧められ、随分迷ったようです。でも私は頑として反対しました。
21年6月、アカシヤの咲く頃、妹が消化不良で死にました。
1年3ケ月の本当に可愛い盛りでした。
-----うつし世に残る面影ひとつなく
幼き吾子は永久にねむれる-----(当時の母の短歌)
両親は旅順で知り合って、旅順で結婚しましたから、私達姉弟妹はみな旅順生まれで、内地を知りません。
妹が死んだ時、私は祖国の土を踏む事なく、異郷で死ぬのは絶対にイヤだと思ったのです。
どうして父が子供の主張に従ったのか不明ですが、生活の為にかなり無理をしていたからでしょうか。
黄胆《おうだん=体の組織が黄色くなる病気》にかかって、寝ていた事もありましたし、馴れない肉体労働で、足が全く持ち上がらなくなって電車に乗るにも不自由だった事もあったそうです。
仕事上で中国人に文句を言われた事もあったと、後で従兄から聞きました。
今までの立場を思うと、それは屈辱だったと思います。
一年半の苦労は並大抵ではなかったでしょう。
母の足は幸いにも、良いお医者様に恵まれて、杖なしで歩けるまでに回復していたとは言え、妹の死や、私達の学校の事、赤化《せっか=共産思想を奨める》する社会情勢、さまざまな不安が、帰国を決意させたのかも知れません。
夜明け前、冷たい風の吹きすさぶ中、トラックに立錐《りっすい=立っておられる》の余地もないほどに詰め込まれて、埠頭近くの集結地に向いました。
灯りもなく、暖もなく、だだっ広い体育館のような収容所で一夜を過ごしました。
荷物に持たれて眠った事、眠たい目をこすりながら歩かされた事など、今でも夜のプラットホームなどで、ふ~っと蘇《よみがえって=思い出し当時の事が浮かんでくる》ってくることがあります。
荷物は手に持てるだけ。写真・記録類は一切ご法度《はっと=禁止の掟》。
持ち帰れるお金も制限されていたと思います。布団袋を父が担いでいました。
この布団袋は帰国後、何度かの引越の度に使用していましたので、はっきりと覚えています。
小豆色をしたガバガバの布地に「B55団」と書かれていました。
私も何か持たされたと思うのですが、何を持っていたのかさっぱり記憶がありません。
18年生まれの弟が、死んだ妹のお骨をリュックに入れて背負っていました。
収容所から桟橋まで大勢の人の列が続きます。
母が荷物を背に、弟達の手を引いていたのですが、私は大人達の狭間《はざま=間に挟まれて》で、押されて倒れそうになりました。
「押さないてくださ~い。子供が・子供が・・・」と必死の形相で叫んでいた母。
寒風の中なのに、誰もが額に汗びっしょりでした。
先日の関西大震災の一場面、又伊豆大島の噴火で島民が船で本土へ避難した時など「私もかつて同じ経験をした」と言う思いで胸がきゅぅんと締めつけられました。
ぎゅうぎゅう詰めの貨物船の船底で、何日かかったのか・・・あんなにも帰りたいと望んだ祖国でしたが、祖国の土を踏んだ時の感激はなぜか記憶にありません。
頭から、背中からDDT《注》を振りかけられた事ばかりが、印象に残っています。
大連から一足先に帰国して伊万里にいた伯母一家が、出迎えてくれました。
佐世保の収容所で何日過ごしたのでしょうか・・・
南風崎駅から引揚列車で父の妹がいる東京へ向ったのでした。
┏無残であったのは、引揚において、長い場合には40年もかかって
┃築きあげられた私有財産や人間関係のほとんどすべてが、
┗失われなければならなかったことであろう。 (清岡卓行著 アカシヤの大連より)
注 有機塩酸化合物の殺虫剤で 戦後多く使われたが その後人体に残留毒素持続する為 我が国では1971年から使用禁止となる
日本からの迎えの船は待てど暮らせどやって来ない。
終戦二度目の冬にはもう疲れきって、動くとお腹が空くだけだから・・・と何もしないでじぃっと寝ている事にしたと、話した同級生もいました。
こんな時期「こっくりさん」と言う占いが流行りました。
3本の割箸の片方を結んで、片方を足をつっぱるように三方に開いて、文字を書いた紙の上に乗せてるのです。
そして目をつぶって祈るような思いで聞きます。
「こっくりさん、こっくりさん、引揚船は何時来るの、教えて下さい」と・・・すると不思議にも割箸が動いて、文字を指して教えて呉れるのです。
また油揚を使った占いもあったように思います。
とにかく何時になったら日本に帰れるのか不安な毎日、こんな事でもしなければ、やりきれなかったのでしょう。
あと半年、引揚げが遅れたら生きてはいなかった・・・と言った人。
もぅ、生死の境、ぎりぎりのところ、昭和21年も押し詰まった12月、引揚げ第一船が入港したのでした。
奥地からの避難民、大学・高校への内地からの留学生など、今で言う「生活弱者」を乗せて、大連からの引揚げ第一船が出港したのは、年が明けて昭和22年1月1日でした。早い船で絹枝さんも先に帰国しました。
私達家族は終りに近い昭和22年3月22日、第一大海丸で帰国しました。
(正確な記録の第一船は21/12/3のようです)
引揚げが具体化した頃、技術者に中国の復興の為にと、中国政府から残留要請がありました。
大学教授、医者などはおおかた残されたと思います。
父も歯科医である伯父から「内地に帰っても仕事なんかないかも知れないから」と残留を勧められ、随分迷ったようです。でも私は頑として反対しました。
21年6月、アカシヤの咲く頃、妹が消化不良で死にました。
1年3ケ月の本当に可愛い盛りでした。
-----うつし世に残る面影ひとつなく
幼き吾子は永久にねむれる-----(当時の母の短歌)
両親は旅順で知り合って、旅順で結婚しましたから、私達姉弟妹はみな旅順生まれで、内地を知りません。
妹が死んだ時、私は祖国の土を踏む事なく、異郷で死ぬのは絶対にイヤだと思ったのです。
どうして父が子供の主張に従ったのか不明ですが、生活の為にかなり無理をしていたからでしょうか。
黄胆《おうだん=体の組織が黄色くなる病気》にかかって、寝ていた事もありましたし、馴れない肉体労働で、足が全く持ち上がらなくなって電車に乗るにも不自由だった事もあったそうです。
仕事上で中国人に文句を言われた事もあったと、後で従兄から聞きました。
今までの立場を思うと、それは屈辱だったと思います。
一年半の苦労は並大抵ではなかったでしょう。
母の足は幸いにも、良いお医者様に恵まれて、杖なしで歩けるまでに回復していたとは言え、妹の死や、私達の学校の事、赤化《せっか=共産思想を奨める》する社会情勢、さまざまな不安が、帰国を決意させたのかも知れません。
夜明け前、冷たい風の吹きすさぶ中、トラックに立錐《りっすい=立っておられる》の余地もないほどに詰め込まれて、埠頭近くの集結地に向いました。
灯りもなく、暖もなく、だだっ広い体育館のような収容所で一夜を過ごしました。
荷物に持たれて眠った事、眠たい目をこすりながら歩かされた事など、今でも夜のプラットホームなどで、ふ~っと蘇《よみがえって=思い出し当時の事が浮かんでくる》ってくることがあります。
荷物は手に持てるだけ。写真・記録類は一切ご法度《はっと=禁止の掟》。
持ち帰れるお金も制限されていたと思います。布団袋を父が担いでいました。
この布団袋は帰国後、何度かの引越の度に使用していましたので、はっきりと覚えています。
小豆色をしたガバガバの布地に「B55団」と書かれていました。
私も何か持たされたと思うのですが、何を持っていたのかさっぱり記憶がありません。
18年生まれの弟が、死んだ妹のお骨をリュックに入れて背負っていました。
収容所から桟橋まで大勢の人の列が続きます。
母が荷物を背に、弟達の手を引いていたのですが、私は大人達の狭間《はざま=間に挟まれて》で、押されて倒れそうになりました。
「押さないてくださ~い。子供が・子供が・・・」と必死の形相で叫んでいた母。
寒風の中なのに、誰もが額に汗びっしょりでした。
先日の関西大震災の一場面、又伊豆大島の噴火で島民が船で本土へ避難した時など「私もかつて同じ経験をした」と言う思いで胸がきゅぅんと締めつけられました。
ぎゅうぎゅう詰めの貨物船の船底で、何日かかったのか・・・あんなにも帰りたいと望んだ祖国でしたが、祖国の土を踏んだ時の感激はなぜか記憶にありません。
頭から、背中からDDT《注》を振りかけられた事ばかりが、印象に残っています。
大連から一足先に帰国して伊万里にいた伯母一家が、出迎えてくれました。
佐世保の収容所で何日過ごしたのでしょうか・・・
南風崎駅から引揚列車で父の妹がいる東京へ向ったのでした。
┏無残であったのは、引揚において、長い場合には40年もかかって
┃築きあげられた私有財産や人間関係のほとんどすべてが、
┗失われなければならなかったことであろう。 (清岡卓行著 アカシヤの大連より)
注 有機塩酸化合物の殺虫剤で 戦後多く使われたが その後人体に残留毒素持続する為 我が国では1971年から使用禁止となる