私の敗戦体験 (路傍の小石) (3)
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私の敗戦体験 (路傍の小石) (編集者, 2007/8/28 9:08)
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- 私の敗戦体験 (路傍の小石) (7) 最終回 (編集者, 2007/9/3 8:09)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
(その3・大連での生活)
伯父は歯医者で、駅近くのかなり大きな家に住んでいましたが、私達家族7人が同居、更に奉天《ほうてん 注1》医大の学生だった従兄、旅順高校一年生の従兄がそれぞれ実家が内地だという学友を何人か連れて戻り、広い家にもとても入りきれなくなり、私達家族は大連運動場の近くにアパ―トを探してもらって移りました。
そのうち父が保証人を引受ていた、旅順高女の女学生だった絹枝さんが難民収容所にいる事がわかり、迎えにいって我が家の家族に加わりました。
連れて帰った晩、髪を洗ってあげたら洗面器が「しらみ」で真っ黒になった・・・と母の記憶です。
あの頃誰もが、「のみ」「しらみ」「南京虫」《吸血性の寄生虫》に悩まされました。
このアパ―トも、続々と増える避難民の収容施設が足りなくなったのか、あけ渡しになり、下藤町の吉村さんと言う方の所に強制的に移されました。
吉村さんは二階に住み、私達家族7人は階下の北側の六畳一間に、他にもう一家族が同居していました。
私はここで腎臓を患い、押入の上段に寝ていた事を思い出します。妹が死んだのもこの部屋でした。
大連での生活は、父がおりました分、恵まれていた方だと思います。
父は歯医者の伯父の斡旋で、自分の専門分野の仕事をしてたいようです。
母は夜なべをして得意の編物をしておりました。
セ―タ―1枚を三日くらいで仕上げていたと思います。
元々大連に住んでいた人達は、旅順からの避難民と違って、それなりに裕福だったのでしょう、注文は日本人からあったようです。
私は弟と「お豆腐売り」をしました。
これは大変でした。バケツにお豆腐を入れて売って歩くのですが、何しろお豆腐だけを入れる訳にはいきません。
たっぷりのお水にお豆腐を浮かして、崩れないように運ばなければなりません。
天秤棒でかついだ人もいましたが、私は弟と二人でバケツを持って歩きました。
寒い冬の朝、「ト―フ―」「ト―フ―」と大きな声を出して売って歩くのです。
恥ずかしくて声が出ません。
ちぃさな弟が声を張り上げてくれるのですが、それさえ恥ずかしくて・・・本当に泣きたくなりました。あまり長続きしなかったと思います。
大連運動場で「南京豆」や「煙草」を売っていた人もいます。
十歳前後の子供のことですから、ちょっとわき見した隙に盗まれたり、だまされたり。それでもたくましく生活を支えていたのでした。
ロシヤ人の家庭から黒パンを仕入れて売つたという人もいました。
「人殺し」以外、何でもした・・・と告白した同級生もいます。
初期の頃は売り食いなのどゆとりのあった人々も、やがて売り食いが尽きると、大連港での荷役《にやく=船荷の運搬》など力仕事に従事したのです。
昨年、49年に及んだ旧東独駐留《注2》からソ連軍が撤退した時の報道に、「ロシヤ軍兵士による基地引き払いは徹底しており、窓枠一つ残さずロシヤに持ち帰った」との報道がありましたが、私はこの時大連に進駐してきたソ連が、膨大な機械類を始めとして、レ―ル一本にいたるまで本国に運び出したといわれた事を思い出しました。
事の善し悪しは別として、日本が営々と築いてきた有形無形の財産は、全て中国側に引き渡される筈でした。
それ等を全て持ち去ったばかりでなく、軍属ばかりか、民間人までシベリヤに送ったのです。
こうして夜を日についで大連港からソ連本国に運び出す荷役の手伝いをして、飢えをしのがなければならなかった心中はいかばかりか・・・
空腹に耐えかねて、つまみ食いしたのが、「猫いらず」だったと言う話。
主食はコ―リャンや粟でした。
それさえ食べられない人達もいっぱい居たと思います。
母は父の収入があると、どうせ日本に持って帰えれないお金だから・・・と「銀飯」を炊いて食べさせて呉れたと、絹枝さんが話してくれました。
こんな我が家は恵まれていた方でしょう。
中には知り合いの中国人が、蔭ながら面倒を見てくれたと言う人もいます。
こうして生命をつないだ日々でした。
(返信)
私の敗戦体験、読んで下さってありがとうございます。
私の同級生にも、昭和20年3月、内地に帰られた方がいます。
その時、こなん時期に内地に帰るなんて・・・と大人たちが話し合っていたのを覚えております。
帰国の途中大連でお父様が召集《軍隊に入隊させられる》になり、そのまま帰ってこられなかった事。
朝鮮経由でとにもかくにも無事内地に帰り着いた事。
別途送った荷物は全て海に沈んだ事。
お父様の大切なレコ―ドが何よりも悔しいと話していました。
門司から東京までの列車は途中で何度も停車、東京では焼け野原を見てびっくり、その後、仙台まで帰り着くのに随分日数がかかったそうです。
そして旅順の同級生達が無事に内地に帰っているとは、夢にも思わなかったって・・・本当に何が運命を変えるかわかりませんね。
今思えば、一番いい時期に帰国なさったのかも知れません。
戦後の悲惨さを味わう事なく、また空襲の経験もしないで済んだ訳ですから。
旅順の思い出もお話し下さって嬉しくおもいます。
旅順の思い出を共有出来る方ってなかなかいないんですょね。
注1 中国東北部の現在の瀋陽
注2 第二次大戦中ドイツ降伏後ドイツを二分割し西側を米英軍が東側をソ連が占領駐留していた
伯父は歯医者で、駅近くのかなり大きな家に住んでいましたが、私達家族7人が同居、更に奉天《ほうてん 注1》医大の学生だった従兄、旅順高校一年生の従兄がそれぞれ実家が内地だという学友を何人か連れて戻り、広い家にもとても入りきれなくなり、私達家族は大連運動場の近くにアパ―トを探してもらって移りました。
そのうち父が保証人を引受ていた、旅順高女の女学生だった絹枝さんが難民収容所にいる事がわかり、迎えにいって我が家の家族に加わりました。
連れて帰った晩、髪を洗ってあげたら洗面器が「しらみ」で真っ黒になった・・・と母の記憶です。
あの頃誰もが、「のみ」「しらみ」「南京虫」《吸血性の寄生虫》に悩まされました。
このアパ―トも、続々と増える避難民の収容施設が足りなくなったのか、あけ渡しになり、下藤町の吉村さんと言う方の所に強制的に移されました。
吉村さんは二階に住み、私達家族7人は階下の北側の六畳一間に、他にもう一家族が同居していました。
私はここで腎臓を患い、押入の上段に寝ていた事を思い出します。妹が死んだのもこの部屋でした。
大連での生活は、父がおりました分、恵まれていた方だと思います。
父は歯医者の伯父の斡旋で、自分の専門分野の仕事をしてたいようです。
母は夜なべをして得意の編物をしておりました。
セ―タ―1枚を三日くらいで仕上げていたと思います。
元々大連に住んでいた人達は、旅順からの避難民と違って、それなりに裕福だったのでしょう、注文は日本人からあったようです。
私は弟と「お豆腐売り」をしました。
これは大変でした。バケツにお豆腐を入れて売って歩くのですが、何しろお豆腐だけを入れる訳にはいきません。
たっぷりのお水にお豆腐を浮かして、崩れないように運ばなければなりません。
天秤棒でかついだ人もいましたが、私は弟と二人でバケツを持って歩きました。
寒い冬の朝、「ト―フ―」「ト―フ―」と大きな声を出して売って歩くのです。
恥ずかしくて声が出ません。
ちぃさな弟が声を張り上げてくれるのですが、それさえ恥ずかしくて・・・本当に泣きたくなりました。あまり長続きしなかったと思います。
大連運動場で「南京豆」や「煙草」を売っていた人もいます。
十歳前後の子供のことですから、ちょっとわき見した隙に盗まれたり、だまされたり。それでもたくましく生活を支えていたのでした。
ロシヤ人の家庭から黒パンを仕入れて売つたという人もいました。
「人殺し」以外、何でもした・・・と告白した同級生もいます。
初期の頃は売り食いなのどゆとりのあった人々も、やがて売り食いが尽きると、大連港での荷役《にやく=船荷の運搬》など力仕事に従事したのです。
昨年、49年に及んだ旧東独駐留《注2》からソ連軍が撤退した時の報道に、「ロシヤ軍兵士による基地引き払いは徹底しており、窓枠一つ残さずロシヤに持ち帰った」との報道がありましたが、私はこの時大連に進駐してきたソ連が、膨大な機械類を始めとして、レ―ル一本にいたるまで本国に運び出したといわれた事を思い出しました。
事の善し悪しは別として、日本が営々と築いてきた有形無形の財産は、全て中国側に引き渡される筈でした。
それ等を全て持ち去ったばかりでなく、軍属ばかりか、民間人までシベリヤに送ったのです。
こうして夜を日についで大連港からソ連本国に運び出す荷役の手伝いをして、飢えをしのがなければならなかった心中はいかばかりか・・・
空腹に耐えかねて、つまみ食いしたのが、「猫いらず」だったと言う話。
主食はコ―リャンや粟でした。
それさえ食べられない人達もいっぱい居たと思います。
母は父の収入があると、どうせ日本に持って帰えれないお金だから・・・と「銀飯」を炊いて食べさせて呉れたと、絹枝さんが話してくれました。
こんな我が家は恵まれていた方でしょう。
中には知り合いの中国人が、蔭ながら面倒を見てくれたと言う人もいます。
こうして生命をつないだ日々でした。
(返信)
私の敗戦体験、読んで下さってありがとうございます。
私の同級生にも、昭和20年3月、内地に帰られた方がいます。
その時、こなん時期に内地に帰るなんて・・・と大人たちが話し合っていたのを覚えております。
帰国の途中大連でお父様が召集《軍隊に入隊させられる》になり、そのまま帰ってこられなかった事。
朝鮮経由でとにもかくにも無事内地に帰り着いた事。
別途送った荷物は全て海に沈んだ事。
お父様の大切なレコ―ドが何よりも悔しいと話していました。
門司から東京までの列車は途中で何度も停車、東京では焼け野原を見てびっくり、その後、仙台まで帰り着くのに随分日数がかかったそうです。
そして旅順の同級生達が無事に内地に帰っているとは、夢にも思わなかったって・・・本当に何が運命を変えるかわかりませんね。
今思えば、一番いい時期に帰国なさったのかも知れません。
戦後の悲惨さを味わう事なく、また空襲の経験もしないで済んだ訳ですから。
旅順の思い出もお話し下さって嬉しくおもいます。
旅順の思い出を共有出来る方ってなかなかいないんですょね。
注1 中国東北部の現在の瀋陽
注2 第二次大戦中ドイツ降伏後ドイツを二分割し西側を米英軍が東側をソ連が占領駐留していた