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私の敗戦体験 (路傍の小石) (2)

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通常 私の敗戦体験 (路傍の小石) (2)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/8/29 7:55
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
(その2・旅順を去る)

 九月に入るとソ連から全ての旅順市民に大連への立ち退き命令が下りました。
 大連まで馬車で避難した人達も多くいたようですが、私達家族は旅順駅から大連まで鉄道で行きました。
 不思議な事ですが、車内は立っている人などいなくて、とても空いていたように思います。
 私達家族は1ボックスに座っていました。右手窓の外を見ると、捕虜になった兵隊さん達が鉄条網に囲われたりんご畑で作業をしていました。
 そして通過する列車に向かって手を振っているのです。
 私達も手を振って「お元気で~」「さよ~なら~」と声を限りに叫びました。
 林檎を投げてくれる兵隊さんもいました。母が「勿体ない」と言って泣きました。
 私達はいずれ日本に帰れるのに、捕虜になった兵隊さん達はこれからどうなるのでしょう・・・
 それなのに私達の事を心配して「頑張るんだょ」と励ましてくれたのです。
 あの方達はその後シベリヤへ送られたのでしょう。
 シベリヤでどんな運命が待っていたかは今では明白です。
 途中水師営《すいしえい=旅順攻略後日露の司令官が会見した場所》を通過。
 乃木将軍とステッセルとが会見した民家・なつめの木が草原の中にありました。
 私自身はその時に列車の中から見た記憶だと思っているのですが、或いはその後の心象風景《しんしょうふうけい=心の中での風景》なのかも知れません。
 いぃぇ、やっぱりあの時の記憶です。父が指さして教えてくれました。
 私達はあの民家と棗《なつめ》の木を、見えなくなるまで目で追い続けました。
 大連駅には伯父達家族が迎えに来てくれて、松葉杖をついた母は、従兄におぶさって駅から程近い伯父の家まで辿りついたのでした。
 親類縁者のいる人はそこを頼り、頼る当てのない人達は、学校等の収容施設や大連の各家に強制的に同居させられました。
 こうして20年の10月末には、旅順の人達はすべて大連に移住させられたのです。
 私達が大連に着いた頃には、奥地(満洲)から、ぞくぞくと避難民が到着していたそうです。
 断髪に麻袋(マタイ)を身にまとい、見るに耐えない無残な姿だったそうです。
 遠からず日本への引揚げが始まると予期していた私達は、その後一年半、大連で難民生活を送らねばなりませんでした。

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