歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄
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歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄 (編集者, 2008/6/17 7:38)
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投稿日時 2008/6/17 7:38
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
---はじめに---
この原稿は、とんぼさんより関係者の了解を得て頂いた上で掲載するものです。
メロウ伝承館スタッフ
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玉砕の島から堂々復員、天皇陛下に拝謁を賜った栄光の聯隊
(遺稿)
歩兵第五十九聯隊
パラオ作戦外史抄
聯隊本部付
陸軍大尉 井上 英雄
「編注」
-本稿は『栄光の五九聯隊」なる聯隊史よりの抜粋であるが、著者の井上英雄氏は、広島陸軍幼年学校から陸軍士官学校へ進み、昭和16年7月卒業(55期)後、見習士官として満洲チチハル駐屯の第14師団宇都宮歩兵第五十九聯隊に配属、同年10月陸軍少尉、聯隊旗手《れんたいきしゅ》、昭和18年3月陸軍中尉、昭和19年3月同聯隊の南方転出に伴い、チチハル出発、本部付(作戦主任)として同年4月パラオ諸島アンガウル島へ進駐、同年8月パラオ本島へ転進、同年12月陸軍大尉、翌20年8月終戦、昭和21年2月に復員したのであるが、同聯隊は、昭和19年9月米軍のペリリユー島上陸後も、同島奪回のための逆上陸作戦計画をしばしば進めようとしたが、同年11月24日ペリリユー守備隊の玉砕後は、パラオ本島の防備を強化し、食料欠乏の悪条件下にあっても旺盛なる士気を保持し、遂に終戦を迎えても軍の統制を維持して自主管理を続け、翌21年2月、米軍のLSTに乗船して同月17日夕刻、無事横須賀・馬堀海岸に上陸したが、その後も階級章を付けたまま兵舎において規律ある軍隊生活を続け、同月21日に、神奈川県下初御巡幸の昭和天皇に拝閲の栄を賜った唯一の聯隊である。
井上英雄氏は復員後、昭和29年4月株式会社潤工社を創立、代表取締役社長に就任し、「企業は社会の公器」との信念の下、世間の常識に超然とし、凛《りん》とした姿勢を貫かれ、世の中の価値観が如何に変化しようとも絶対に変えてはいけない、天地自然の道理に基づいた哲学を経営の現場で実行された経営者であった。そして、昭和56年9月16日に膵臓癌のため59歳の若さで逝去されるまで、一貫してその経営哲学を実践し、社内はもちろん、業界の厚い信頼を保持された。」
◇ ◇ ◇
(前 言)
第十四師団のパラオ作戦については、ペリリユー、アンガウル島の激戦を中心に、いろいろの本にまとめられ、既に人口に膾灸《》《かいしゃ》されているところでありますが、その間、歩五十九の主力は何をしていたかは、あまり知られておりませんので、この際、その点を明らかにして見たいと思います。
歩兵第五十九聯隊のパラオ作戦と言えば昭和十九年二月、チチハルにおける動員下令に始まるわけですが、今回はその前半を省略して、主としてアンガウル戦闘の始まる直前の状況から話を進めてまいります。
当時私は、聯隊本部付として作戦関係を担当していました関係上、比較的全般の状況を知っておりましたし、日誌もつけていましたので、その中から重要と思われる部分を抜き書きしてまとめてみました。
拙文で読みずらい点も多々あるとは思いますが、何等かのお役に立てば、幸甚に思います。