歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・1
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歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄 (編集者, 2008/6/17 7:38)
- 歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・1 (編集者, 2008/6/18 8:28)
- 歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・2-3 (編集者, 2008/6/19 8:24)
- 歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・4-5 (編集者, 2008/6/20 7:56)
- 歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・六-七 (編集者, 2008/6/21 8:52)
- 歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・八-九 (編集者, 2008/6/25 7:34)
- 歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・編注 (編集者, 2008/6/26 8:42)
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一 歩兵五十九聯隊主力のアンガウル島より本島への移動経緯
昭和十九年七月二十五日、コロール地区ならびにペリリユー島へ敵機動部隊による空襲があり、翌二十六日翌々二十七日の両日は、前記地区以外に、アンガウル島に対しても終日にわたり空襲と、浮上潜水艦による艦砲射撃が行われた。
当時三十一軍司令官小畑英良中将ならびに参謀副長を基幹とする若干の幕僚は、パラオ地区視察後サイパンに帰還する予定であったが、敵のサイパン上陸のためグアム島に留まることを余儀なくされ、しかも、グアム島自体も既に玉砕
《ぎょくさい=全員死亡覚悟の突撃》の寸前に追い込まれていたのである。
前記七月二十六~七日の空襲前、在グアム三十一軍参謀副長より集団司令部(第十四師団司令部)宛に電信があり「アンガウル島に一ケ聯隊を置くより、むしろその主力をパラオ本島南地区に移動せしめ、アイライ飛行場の守備に任ずべし」と指示をして来たのである。
集団司令部としては、直ちにアンガウル守備隊長である歩兵第五十九聯隊長江口大佐に対し、一個大隊を残置し主力はパラオ本島南地区に移動するよう、取りあえず打電した。
これに対し、江口八郎大佐は反対の意見を具申した。
理由は二つある。
その一つは、聯隊が軍旗を奉じてアンガウル島に歩を進めて以来、アンガウル島そのものを戦場と心得、配備計画も終わり、全員一致して陣地構築《じんちこうちく》
に専念して来たが、その心の中には、軍旗を中心に聯隊全員死なば諸共にとの覚悟があらばこそであり、今更一個大隊のみを残置するのは誠に忍び得ないものがあると言うことである。
またその上には、アンガウル島の守備計画は一個聯隊を基に立ててあり、既に陣地構築の大半を終了している。
しかるにそれを一個大隊に変更した場合は、ちょうど大人の着物を子供に着せたようなもので、敵の来襲近きを予測する今日、とても修正が間に合わないのみならず、戦略的に見て、一個大隊を残すくらいなら、むしろ一兵をも置く必要がないのではないかという疑問である。
これに対し集団司令部では、海軍の汽艇《きてい》にて作戦主任参謀中川大佐をアンガウル島に派遣し、江口大佐の説得にかかったのである。
江口大佐も命令であるうえ、中川参謀の熱意ある説得には如何ともしがたく、第一大隊をアンガウル守備隊とし、主力は直ちにパラオ本島に移動すべく命令を下達したのである。
かくて江口大佐は、アンガウル小学校校庭に整列する第一大隊長後藤丑雄少佐以下大隊全員に声涙共に下る訣別《けつべつ》の辞を述べた後、七月末より八月中旬にかけて、パラオ本島への移動を完了したのである。
この移動も当時ホーランジア(ニューギニア西部) を基地とするB24の空襲を避けて、主として夜間を利用して行われ、しかも通常の港である西港が波浪高きため使用できず、港とは名ばかりの東港を利用せざるを得なかったのである。
昭和十九年七月二十五日、コロール地区ならびにペリリユー島へ敵機動部隊による空襲があり、翌二十六日翌々二十七日の両日は、前記地区以外に、アンガウル島に対しても終日にわたり空襲と、浮上潜水艦による艦砲射撃が行われた。
当時三十一軍司令官小畑英良中将ならびに参謀副長を基幹とする若干の幕僚は、パラオ地区視察後サイパンに帰還する予定であったが、敵のサイパン上陸のためグアム島に留まることを余儀なくされ、しかも、グアム島自体も既に玉砕
《ぎょくさい=全員死亡覚悟の突撃》の寸前に追い込まれていたのである。
前記七月二十六~七日の空襲前、在グアム三十一軍参謀副長より集団司令部(第十四師団司令部)宛に電信があり「アンガウル島に一ケ聯隊を置くより、むしろその主力をパラオ本島南地区に移動せしめ、アイライ飛行場の守備に任ずべし」と指示をして来たのである。
集団司令部としては、直ちにアンガウル守備隊長である歩兵第五十九聯隊長江口大佐に対し、一個大隊を残置し主力はパラオ本島南地区に移動するよう、取りあえず打電した。
これに対し、江口八郎大佐は反対の意見を具申した。
理由は二つある。
その一つは、聯隊が軍旗を奉じてアンガウル島に歩を進めて以来、アンガウル島そのものを戦場と心得、配備計画も終わり、全員一致して陣地構築《じんちこうちく》
に専念して来たが、その心の中には、軍旗を中心に聯隊全員死なば諸共にとの覚悟があらばこそであり、今更一個大隊のみを残置するのは誠に忍び得ないものがあると言うことである。
またその上には、アンガウル島の守備計画は一個聯隊を基に立ててあり、既に陣地構築の大半を終了している。
しかるにそれを一個大隊に変更した場合は、ちょうど大人の着物を子供に着せたようなもので、敵の来襲近きを予測する今日、とても修正が間に合わないのみならず、戦略的に見て、一個大隊を残すくらいなら、むしろ一兵をも置く必要がないのではないかという疑問である。
これに対し集団司令部では、海軍の汽艇《きてい》にて作戦主任参謀中川大佐をアンガウル島に派遣し、江口大佐の説得にかかったのである。
江口大佐も命令であるうえ、中川参謀の熱意ある説得には如何ともしがたく、第一大隊をアンガウル守備隊とし、主力は直ちにパラオ本島に移動すべく命令を下達したのである。
かくて江口大佐は、アンガウル小学校校庭に整列する第一大隊長後藤丑雄少佐以下大隊全員に声涙共に下る訣別《けつべつ》の辞を述べた後、七月末より八月中旬にかけて、パラオ本島への移動を完了したのである。
この移動も当時ホーランジア(ニューギニア西部) を基地とするB24の空襲を避けて、主として夜間を利用して行われ、しかも通常の港である西港が波浪高きため使用できず、港とは名ばかりの東港を利用せざるを得なかったのである。