歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・編注
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歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄 (編集者, 2008/6/17 7:38)
- 歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・1 (編集者, 2008/6/18 8:28)
- 歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・2-3 (編集者, 2008/6/19 8:24)
- 歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・4-5 (編集者, 2008/6/20 7:56)
- 歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・六-七 (編集者, 2008/6/21 8:52)
- 歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・八-九 (編集者, 2008/6/25 7:34)
- 歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・編注 (編集者, 2008/6/26 8:42)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
編注
① NPO法人日本パラオ協会では、昨平成19年3月24日から6月17日まで、靖国神社遊就館《ゆうしゅうかん》1階企画展示室において、「戦跡パラオ展-パラオに散った英霊たちー」(パラオの歴史と英霊展)という特別展を開催し、多くの参観者達に深い感銘を与えたのであるが、パラオ共和国のトミー・E・レメンゲサウJr大統領は次のような同展に対する挨拶文を寄せておられる。「この度は、靖国神社及びNPO法人日本パラオ協会他関係の皆様方の御尽力により、「パラオの歴史と英霊展」が靖囲神社の境内にて開催される運びとなりましたことは、パラオ共和国として誠に喜ばしいことであり、厚く御礼申し上げます。
一九二〇年、日本はミクロネシア地域の統治を国際連盟により委任され、その行政本部をパラオに置きました。それからの二十五年間、日本はパラオに産業技術と教育制度をもたらし、パラオの文化発展に寄与されました。一方で、第二次世界大戦以前よりパラオには日本軍が常駐し、このために一九四四年~一九四五年にパラオも戦場になりました。今もパラオには、多くの日本兵が静かに眠っています。
第二次世界大戦後、パラオは一九九四年十月の独立までの間、アメリカ合衆国による国際連合の信託統治《しんたくとうち》下に置かれました。それまでの日本の産業は失われましたが、今も日本の言葉や文化がパラオ文化の一部として残っています。
このように、光と影の両面があったパラオと日本の関係ですが、両国の長く深い関係は非常に重要なことと考えており、この友好関係が今後も長く続くことを厳っております。
この展示会を通じて、日本の多くの人達がパラオのことをお知りになり、是非パラオにお越し下さいますよう、希望いたします。」
② パラオで今も愛唱される歌―――昭和十九年九月十五日に米軍がペリリユー島に上陸して以来、二カ月余にわたる日本将兵の死闘に思いを馳《は》せるため、パラオでは日本の国花「桜」に慰霊鎮魂《いれいちんこん》の誠を託して「ペ島の桜を諾える歌」を作った。この曲は一番から八番までの構成で、今でも島民に愛唱されている代表作でもある。また、この曲のほかに日本でもよく知られている歌に「酋長の娘」「パラオ恋しや」などがあり、日本とパラオ両国民の心の交流を示している。
「ペ島の桜を琴える歌」
作詞 オキヤマ・トヨミ
ジョージ・シゲオ
作曲 トンミー・ウェンティ
一 激しく弾雨が 降り注ぎ
オレンジ浜を 血で染めた
強兵(つわもの)たちは 皆散って
ペ島(しま)は総て 墓となる
二 小さな異国の この島を
死んでも守ると 誓いつつ
山なす敵を 迎え撃ち
弾(たま)射(う)ち尽くし 食糧(しょく)もない
四 日本の桜は 春いちど
見事に咲いて 明日は散る
ペ島の桜は 散り散りに
玉砕(ち)れども武勲は 永久(とこしえ)に
八 戦友遺族の 皆さまに
永遠(いついつ)までも かわりなく
必ず我等は 待ち望む
桜とともに 皆さまを
③ 米太平洋艦隊司令長官:ミッツ元帥は、自著『太平洋海戦史』の中で、ペリリユー戦について「ペリリユーの複雑極まる防備に打ち勝つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約40%)を甘受しなければならなかった。既に制海権、制空権を持っていた米軍が、死傷者合わせて一万人を超える犠牲者を出してこの島を占領したことは、今もって疑問である」と書いでおり、現在ペリリユー神社境内にある詩碑には「諸国から訪れる旅人たちよ、この島を守るために日本軍人が、いかに勇敢な愛国心を持って戦い、そしで玉砕《ぎょくさい》したかを伝えられよ」太平洋艦隊司令長官C.W.こミッツ、と刻まれている。
(写真・上段 平和の礎(コロール島) 下段 59i連隊旗)
-完-
① NPO法人日本パラオ協会では、昨平成19年3月24日から6月17日まで、靖国神社遊就館《ゆうしゅうかん》1階企画展示室において、「戦跡パラオ展-パラオに散った英霊たちー」(パラオの歴史と英霊展)という特別展を開催し、多くの参観者達に深い感銘を与えたのであるが、パラオ共和国のトミー・E・レメンゲサウJr大統領は次のような同展に対する挨拶文を寄せておられる。「この度は、靖国神社及びNPO法人日本パラオ協会他関係の皆様方の御尽力により、「パラオの歴史と英霊展」が靖囲神社の境内にて開催される運びとなりましたことは、パラオ共和国として誠に喜ばしいことであり、厚く御礼申し上げます。
一九二〇年、日本はミクロネシア地域の統治を国際連盟により委任され、その行政本部をパラオに置きました。それからの二十五年間、日本はパラオに産業技術と教育制度をもたらし、パラオの文化発展に寄与されました。一方で、第二次世界大戦以前よりパラオには日本軍が常駐し、このために一九四四年~一九四五年にパラオも戦場になりました。今もパラオには、多くの日本兵が静かに眠っています。
第二次世界大戦後、パラオは一九九四年十月の独立までの間、アメリカ合衆国による国際連合の信託統治《しんたくとうち》下に置かれました。それまでの日本の産業は失われましたが、今も日本の言葉や文化がパラオ文化の一部として残っています。
このように、光と影の両面があったパラオと日本の関係ですが、両国の長く深い関係は非常に重要なことと考えており、この友好関係が今後も長く続くことを厳っております。
この展示会を通じて、日本の多くの人達がパラオのことをお知りになり、是非パラオにお越し下さいますよう、希望いたします。」
② パラオで今も愛唱される歌―――昭和十九年九月十五日に米軍がペリリユー島に上陸して以来、二カ月余にわたる日本将兵の死闘に思いを馳《は》せるため、パラオでは日本の国花「桜」に慰霊鎮魂《いれいちんこん》の誠を託して「ペ島の桜を諾える歌」を作った。この曲は一番から八番までの構成で、今でも島民に愛唱されている代表作でもある。また、この曲のほかに日本でもよく知られている歌に「酋長の娘」「パラオ恋しや」などがあり、日本とパラオ両国民の心の交流を示している。
「ペ島の桜を琴える歌」
作詞 オキヤマ・トヨミ
ジョージ・シゲオ
作曲 トンミー・ウェンティ
一 激しく弾雨が 降り注ぎ
オレンジ浜を 血で染めた
強兵(つわもの)たちは 皆散って
ペ島(しま)は総て 墓となる
二 小さな異国の この島を
死んでも守ると 誓いつつ
山なす敵を 迎え撃ち
弾(たま)射(う)ち尽くし 食糧(しょく)もない
四 日本の桜は 春いちど
見事に咲いて 明日は散る
ペ島の桜は 散り散りに
玉砕(ち)れども武勲は 永久(とこしえ)に
八 戦友遺族の 皆さまに
永遠(いついつ)までも かわりなく
必ず我等は 待ち望む
桜とともに 皆さまを
③ 米太平洋艦隊司令長官:ミッツ元帥は、自著『太平洋海戦史』の中で、ペリリユー戦について「ペリリユーの複雑極まる防備に打ち勝つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約40%)を甘受しなければならなかった。既に制海権、制空権を持っていた米軍が、死傷者合わせて一万人を超える犠牲者を出してこの島を占領したことは、今もって疑問である」と書いでおり、現在ペリリユー神社境内にある詩碑には「諸国から訪れる旅人たちよ、この島を守るために日本軍人が、いかに勇敢な愛国心を持って戦い、そしで玉砕《ぎょくさい》したかを伝えられよ」太平洋艦隊司令長官C.W.こミッツ、と刻まれている。
(写真・上段 平和の礎(コロール島) 下段 59i連隊旗)
-完-