歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・八-九
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歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄 (編集者, 2008/6/17 7:38)
- 歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・1 (編集者, 2008/6/18 8:28)
- 歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・2-3 (編集者, 2008/6/19 8:24)
- 歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・4-5 (編集者, 2008/6/20 7:56)
- 歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・六-七 (編集者, 2008/6/21 8:52)
- 歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・八-九 (編集者, 2008/6/25 7:34)
- 歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・編注 (編集者, 2008/6/26 8:42)
編集者
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八 戦場掃除について
昭和二十年八月以降年末にかけて、着々と復員準備を進めていたが、十二月になって、突然ニミッツ提督より、コロール島地区の戦場掃除を行うよう指示して来たのである。そこで、集団としては、歩十五、歩五十九に各約三有名を基幹とする戦場掃除部隊を編成し、その任に当たるよう命令したのである。
歩五十九においては、この命令に基づき、若い将校を主体に臨時編成の部隊を編成し、同年十二月末、江口聯隊長を先頭にコロール島アミオンス地区に移動を完了し、翌二十一年元旦の未明、全員水浴して喪を行い、心を新たにして新任務に就いたのである。この間、他の将兵は逐次パラオを去って故国への船路をとったのである。
この戦場掃除についても、米軍との間に協定はすれども命令は受けずの態度で日本軍の自主的方法によって作業に従事した。例えば、アミオンスの露営地には米軍の立入りを禁止し、全く平時の演習のような状況で終始作業を進めたのである。
当初、残留をさせられた兵の中には多少の不満もあったようだが、作業を進めるに従い、軍紀巌正《ぐんきげんせい》な中にも和気萬々として米軍を感嘆させるような見事な作業を実施し、戦火のため廃墟と化していたコロール地区を立派に清掃したのである。
二月八日帰還命令が発せられ、翌九日コロール波止場より歩五十九の戦場清掃部隊全員と歩十五の一部が米軍LSTに乗船し、幾多の思い出と戦友の血と涙の滲みたパラオに別れを告げたのである。
九 天皇陛下の行幸と歩兵五九聯隊の解散
昭和二十一年二月十七日朝、水平線上に富士山を見る。全員甲板に立ち、誠に感無量なるものがあった。夕刻無事馬堀海岸に上陸、直ちに兵舎に入ったが、復員局の連中にしてみれば、全員階級章を付けたままであったので、まず驚いたらしい。すぐにも階級章を取るよう指示して来たが、復員手続が終わって、この兵舎を出るまでは部隊を解散したわけではなく、その日まではあくまでも軍隊である、との信念でその指示を拒否したのである。
いままでPWの服を着けた復員部隊の多い中で、大変奇異に感じたものらしい。予てこのような状態も予測していたので、準備していた週番肩章《しゅうばんけんしょう》とラッパを持ち出し、平時の軍隊生活のまま起床、点呼、消灯などラッパをもって規制し、週番士官を置いて内務の責任を取らせたのである。しかも夜は軍歌演習を行い、営庭の中を隊伍堂々《たいごどうどう》と行進して士気の高揚を図り、最後の日本陸軍への別れを告げたのである。
当初は、この歩五九将兵の態度に対して内地の状況も知らない生意気者と思っていた復貞局の人々もその気持ちが分かると共に、驚異と尊敬の念をもって見るに至り、上陸後三日目に解散の規定にも拘わらず、陛下の行幸まで是非残られたしとの依頼により、解散を延期して二十一日に天皇陛下をお迎えすることになったのである。後で聞くところによると、これが戦後初めての行幸であり、歩五九将兵の前に立たせられ、何くれとなく親しく御下問になったのである。また、陛下の御下問に対する江口聯隊長の烈々たる答申ぶりは見事と言うほか形容のしようのないものであった。
かくて、翌二十二日朝、解散式を行い、ここに歩兵第五十九聯隊の歴史は完全に幕を閉じたのである。
◇ ◇ ◇
昭和二十年八月以降年末にかけて、着々と復員準備を進めていたが、十二月になって、突然ニミッツ提督より、コロール島地区の戦場掃除を行うよう指示して来たのである。そこで、集団としては、歩十五、歩五十九に各約三有名を基幹とする戦場掃除部隊を編成し、その任に当たるよう命令したのである。
歩五十九においては、この命令に基づき、若い将校を主体に臨時編成の部隊を編成し、同年十二月末、江口聯隊長を先頭にコロール島アミオンス地区に移動を完了し、翌二十一年元旦の未明、全員水浴して喪を行い、心を新たにして新任務に就いたのである。この間、他の将兵は逐次パラオを去って故国への船路をとったのである。
この戦場掃除についても、米軍との間に協定はすれども命令は受けずの態度で日本軍の自主的方法によって作業に従事した。例えば、アミオンスの露営地には米軍の立入りを禁止し、全く平時の演習のような状況で終始作業を進めたのである。
当初、残留をさせられた兵の中には多少の不満もあったようだが、作業を進めるに従い、軍紀巌正《ぐんきげんせい》な中にも和気萬々として米軍を感嘆させるような見事な作業を実施し、戦火のため廃墟と化していたコロール地区を立派に清掃したのである。
二月八日帰還命令が発せられ、翌九日コロール波止場より歩五十九の戦場清掃部隊全員と歩十五の一部が米軍LSTに乗船し、幾多の思い出と戦友の血と涙の滲みたパラオに別れを告げたのである。
九 天皇陛下の行幸と歩兵五九聯隊の解散
昭和二十一年二月十七日朝、水平線上に富士山を見る。全員甲板に立ち、誠に感無量なるものがあった。夕刻無事馬堀海岸に上陸、直ちに兵舎に入ったが、復員局の連中にしてみれば、全員階級章を付けたままであったので、まず驚いたらしい。すぐにも階級章を取るよう指示して来たが、復員手続が終わって、この兵舎を出るまでは部隊を解散したわけではなく、その日まではあくまでも軍隊である、との信念でその指示を拒否したのである。
いままでPWの服を着けた復員部隊の多い中で、大変奇異に感じたものらしい。予てこのような状態も予測していたので、準備していた週番肩章《しゅうばんけんしょう》とラッパを持ち出し、平時の軍隊生活のまま起床、点呼、消灯などラッパをもって規制し、週番士官を置いて内務の責任を取らせたのである。しかも夜は軍歌演習を行い、営庭の中を隊伍堂々《たいごどうどう》と行進して士気の高揚を図り、最後の日本陸軍への別れを告げたのである。
当初は、この歩五九将兵の態度に対して内地の状況も知らない生意気者と思っていた復貞局の人々もその気持ちが分かると共に、驚異と尊敬の念をもって見るに至り、上陸後三日目に解散の規定にも拘わらず、陛下の行幸まで是非残られたしとの依頼により、解散を延期して二十一日に天皇陛下をお迎えすることになったのである。後で聞くところによると、これが戦後初めての行幸であり、歩五九将兵の前に立たせられ、何くれとなく親しく御下問になったのである。また、陛下の御下問に対する江口聯隊長の烈々たる答申ぶりは見事と言うほか形容のしようのないものであった。
かくて、翌二十二日朝、解散式を行い、ここに歩兵第五十九聯隊の歴史は完全に幕を閉じたのである。
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