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歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・六-七

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通常 歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・六-七

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/6/21 8:52
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 六 食糧事情の悪化から作戦農耕に至る状況

 昭和十九年十一月頃より、地区隊における食糧事情は逐次悪化の傾向を辿り、二十年一月頃には体位の低下も目に見えてはっきりして来た。しかるに集団司令部としては、第一線部隊は訓練に徹底すべきで、農耕などに力を注ぐべからずとの強い方針であった。これは無意味な形式論であり、むしろ体力の保持なくして何の作戦ぞやと言うべきで、この誤りが後に多くの栄養失調死亡者を出し、また、作戦農耕開始の時期を失したるのみならず、全般の士気に与えた影響は大きかったと思われるのである。当時、米の補給については、各中隊より強健なる兵を数名乃至十数名選び、糧秣《りょうまつ》補給所より10km以上にわたる山道を、人力による運搬に頼らざるを得なかった。しかも、その強健と言われる兵においてすら、肋骨が表面に現れ、さながら洗濯板の状況を呈したのである。特に集団全般として問題があったのは、食糧事情が部隊によって大きな較差があったことである。すなわち、第一線部隊において最も欠乏し、後方部隊は十分とは言えないまでも相当の余裕を持っていたのである。のみならず、米の受領に行く第一線部隊の兵に対し、糧秣補給所の態度は、極めて不遜《ふそん》なものがあり、そのためのトラブルを生じたこともあった。当時の日誌によると、二十年一月十六日には、師団参謀より、糧秣補給所において、歩五九の兵が不穏の態度を取ったので注意するようにとの指示があった。これに対し、この原因はむしろ集団の施策の誤りであることを指摘し、補給所の一方的報告により判断されぬよう強く進言したのである。  
 このような状況の中で地区隊における各中隊は、時折補給される米では栄養の補給はもちろん、空腹感すら満足することができず、訓練の傍ら、中隊毎に野草収集班を編成し、バナナの地下茎、ビンローの芽、蛇木(羊歯類の一種)などを集めて食用に供していたのである。一月の下旬、聯隊において召集兵の集合教育を行うに際し、砲兵中隊長丸山大尉から「召集兵の教育は必要とは思うが、それよりむしろ体力向上の方が急務である。体力の向上が直ちに戦力である現在、もし召集兵の集合教育を実施するならば、その間他の兵に対する負担は益々増加し、給与の低下に伴い、人員の自然淘汰の状況になるであろう。」との意見具申があったが、その当時の実情を適切に言い得たものと思われる。かくして食糧に関するトラブルが時折起こるようになり、例えば、某隊における軍馬の屠殺《とさつ》、あるいは作戦糧秣の盗用などがあったが、さすが南地区隊としては大きな問題も起こらず、三月頃より一部で自活方法を講ずるの巳むなきに至ったのである。
 右のような状況で推移するうちに、四月には歩五九のみで約百名に近い栄養失調による死亡者を出し、ここに至っては現地自活を積極的に推進し、農耕による食糧問題の解決を図らざるを得ない状況になったのである。しかし、決心したからといって、直ちに好転する訳には行かない。六月六日の日誌には次のようなデータが残っている。五月中の死亡者八十一名、当日現在の入院患者百六十三名、健康者の体力は、在満当時に比し約50%とある。当時の栄養失調患者の一例を挙げると、健康時、体重60kgに近い者が40kgを割り、このような状態になると、どのような栄養食を与えても内蔵器官が受け付けず、単に素通りするのみで、あとは唯死を待つのみ、誠に哀れと言わざるを得ない有様であった。
 六月八日には集団の後方参謀である泉参謀に随行、農耕地を案内したが、兵の食事たるや米とは名のみ主体は甘藷の葉であり、一個中隊における健康者は僅かに十数名を数えるのみで、それとても平時ではとても健康者と言えるものではなかった。当日の日誌に「ああ最も精鋭であるべき第一線部隊の兵は痩せ衰え、死者そのあとをたたず、後方部隊や軍夫《ぐんぷ》は肥ゆ、何の姿ぞやおそるべし」と。ここに至り、集団も、その容易ならざる事態に眼を開き、六月下旬に至って、ついに集団挙げての作戦農耕に踏み切る決心をしたのである。
 かくして七月に入り、農耕地を考慮に入れた地区隊の境界変更が行われ、地区隊においても土質環境を勘案して農地の再分配を行い、堆肥《たいひ》の製造なども併せ実施して農耕に徹したのであるが時既に遅く、食糧事情について大いなる成果を上げることができないまま終戦を迎えたのである。


 七 終戦前後の状況

 食糧事情の悪化に伴う士気の低下は巳むを得ないものがあり、七月には一、二名の好泳による敵海防艦への投降があったが、これは他の部隊のことであり、南地区隊としては、依然、皇国必勝の信念は固く、広島への原子爆弾の投下、ソビエトの参戦などの情報は入手していたが、いささかも動揺することはなく、よもや終戦になるとは夢にも思っていなかったのである。
 八月十日過ぎ頃中川参謀より、一部朝鮮人部隊(軍夫)に不穏の動きあるとの情報を知らされ、地区隊としても厳に警戒するよう注意されたが、彼等は鋭敏《えいびん》に終戦への動きを感じ取っていたのではあるまいか。
 八月十五日夜中川参謀より電話があり、聯隊長共々明朝九時までに司令部に出頭せよとの指示を受けたが、当時聯隊長は背部腫瘍のため歩行困難な状況にあり、その旨申し述べたところ、重大問題の発表がある故、万難を排して出席されたしとのことで、巳むを得ず聯隊長に当番兵のほか、担架を準備し、夜半に出発、約八時問を要して司令部に到着したのである。その間聯隊長は終始歩行を続け、遂に担架は利用することがなかった。司令部に到着直前、師団通信隊の将校から終戦の事実を囁かれたが、聯隊長には報告することなく、司令部会議に臨んだのである。
 この会議において、参謀長より終戦のことを聞かされ、次いで全員慟哭《ぜんいんどうこく》の中で、勅命ならば徒に軽挙妄動《けいきょもうどう》を戒め、この上は一兵も損ずることなく故国の地を踏ませることを唯一の任務と心得て、終戦の処理に当たるようとの切なる指示を受けて散会したのである。
 八月十七日頃、敵はアイライ飛行場に通信筒を投下したが、井上集団指令閣下と表記してあり、直ちに深堀大尉を伝令として司令部に持参させたのである。その内容は現地における終戦交渉に応ずる意志の有無を質して来ているので、応諾の意を伝えるため、翌早朝聯隊本部の兵数名を伴い、アイライ飛行場に白布をもって十字を描いたのである。
 集団司令部と米軍との終戦交渉は、敵の艦上で行われたのであるが、この交渉に当たった井上司令官、多田参謀長の交渉内容、態度とも見事なものであり、集団は捕虜という卑屈な待遇を受けなかったのみならず、復員完了までは、パラオ本島には、連絡あるいは交渉の用務を待った者以外は、一兵たりとも米軍を上陸させなかったのである。これは、敗戦というショックにより、ややもすると自信を失い、弱気に陥りがちの全集団の将兵に対し、最後まで日本軍としての誇りを持たせる大きな原動力となつたものである。
 しかし敗戦はあくまで敗戦である。武装解除に伴い、兵器はもとより将校の軍刀はすべて米軍に引き渡し、本島に蓄積された弾薬類は、日米両軍の協同作業により、あるいは海中投棄を行い、あるいは一地に集積後爆破処理をしてしまったのである。
 そうした中で、歩五九においては、八月下旬、エリキー川中流川畔の聯隊長宿舎前の台地で、全将兵の見守る中、シベリア出兵、清洲事変、北支の戦蹄《せんてい》と輝かしい伝統に映える軍旗を奉焼したのである。しかし、軍旗の一部を細かく切って各自に分配し、今後の心の糧にと、涙の中で誓い合ったのである。

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