歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・4-5
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歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄 (編集者, 2008/6/17 7:38)
- 歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・1 (編集者, 2008/6/18 8:28)
- 歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・2-3 (編集者, 2008/6/19 8:24)
- 歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・4-5 (編集者, 2008/6/20 7:56)
- 歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・六-七 (編集者, 2008/6/21 8:52)
- 歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・八-九 (編集者, 2008/6/25 7:34)
- 歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・編注 (編集者, 2008/6/26 8:42)
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四 集団繚力を挙げての逆上陸計画
十月初め、集団は総力を挙げてペリリユー島へ逆上陸をする計画を定め、時期は十月に多発する暴風雨の夜として各部隊にその準備の命令を下達し、十月八日、集団司令部において右作戦の細部について打ち合わせを行ったのである。これに基づき歩五九においては、十月十日夜暁部隊と逆上陸のための乗船地などの件について打ち合わせを行い、次いで部隊全員に対しては、乏しい食糧の中からなるべく栄養を補給するよう指示を与え、体力の方面からも、この作戦の準備を進めていたのである。この逆上陸は、兵数も多く、しかも同時発進の関係もあるので、予定乗船地をマラカル埠頭(コロール島)と定め、海軍部隊進藤大尉の応援を得て、十月十八日頃同埠頭付近の地形偵察を行い、部隊の集結地などについて腹案を決定したのであった。
かくて歩五九としては、集団の逆上陸実施命令を待つのみの態勢となり、十月下旬には戦闘訓練と士気の高揚を目的として中隊検閲を実施し、決戦の日を今や遅しと待機していたのである。
また、島嶼作戦の特殊性及び海空軍の支援絶無の状態における作戦のため、特殊編成の斬込隊戦闘要領を作成し、同訓練を連日にわたり実施したのである。しかし、残念ながらこの作戦は、遂に実施されなかった。戦況の推移に伴い、計画の変更を余儀なくされたと思われるのであるが、その作戦変更の証《あか》しとして、集団は歩五九に対し現地召集の人員を含めて第四大隊の編成を求めてきたのである。かくて、十一月中旬聯隊は、加藤大尉を大隊長とする第四大隊の編成を完了し、後藤大隊なきあと、二個大隊編成であったものが、再び三個大隊となったのである。
五 昭和十九年十二月以降における集団の作戦方針の推移
十一月二十四日ペリリユー守備隊が玉砕した頃より、集団においては、従来の水際撃滅作戦《みずぎわげきめつさくせん》より持久戦的思想に移行したもののように思われる。特に二十年二月には、はっきりとその思想を打ち出し、パラオ本島の中核部に複郭陣地《ふくかくじんち》の構想を示したのである。この間ペリリユー、アンガウルを基地とする、敵海防艦《》による本島周辺の牽制《けんせい》に対しては、現地召集の沖縄県出身の漁師を中心に、「海のシラミ」と称する特攻隊を編成して、爆薬を抱えて港泳により適艦に接近してこれを爆破する作戦を展開し、幾多の戦果を上げたのである。しかし、これも敵の警戒が厳重になるに従い、困難の度合いを増して来たので、歩兵砲による夜間攻撃を決定し、三月初めには、歩五九より小宮山中尉を長とする聯隊砲一門をウルクタープル島に送り、昼間は敵に遮蔽《しゃへい》し、夜間には付近を航行する敵海防艦を砲撃させたのである。また、ペリリユー島の北に連なるガラゴン島へ歩十五の仁平少尉を長とする斬り込み隊を投入し、立派な戦果を上げたことは、全集団の士気を高揚し、特筆に価するものであった。
ペリリユー島を奪取《だっしゅ》以来、同島の飛行場を基地として連日の如くF4U戦闘機を主体とする攻撃があったが、当方も適時に対空砲火を交え、多少の戦果を上げると共に、若干の損害を受けたが、戦局に大きな影響を与えるものはなかった。
十月初め、集団は総力を挙げてペリリユー島へ逆上陸をする計画を定め、時期は十月に多発する暴風雨の夜として各部隊にその準備の命令を下達し、十月八日、集団司令部において右作戦の細部について打ち合わせを行ったのである。これに基づき歩五九においては、十月十日夜暁部隊と逆上陸のための乗船地などの件について打ち合わせを行い、次いで部隊全員に対しては、乏しい食糧の中からなるべく栄養を補給するよう指示を与え、体力の方面からも、この作戦の準備を進めていたのである。この逆上陸は、兵数も多く、しかも同時発進の関係もあるので、予定乗船地をマラカル埠頭(コロール島)と定め、海軍部隊進藤大尉の応援を得て、十月十八日頃同埠頭付近の地形偵察を行い、部隊の集結地などについて腹案を決定したのであった。
かくて歩五九としては、集団の逆上陸実施命令を待つのみの態勢となり、十月下旬には戦闘訓練と士気の高揚を目的として中隊検閲を実施し、決戦の日を今や遅しと待機していたのである。
また、島嶼作戦の特殊性及び海空軍の支援絶無の状態における作戦のため、特殊編成の斬込隊戦闘要領を作成し、同訓練を連日にわたり実施したのである。しかし、残念ながらこの作戦は、遂に実施されなかった。戦況の推移に伴い、計画の変更を余儀なくされたと思われるのであるが、その作戦変更の証《あか》しとして、集団は歩五九に対し現地召集の人員を含めて第四大隊の編成を求めてきたのである。かくて、十一月中旬聯隊は、加藤大尉を大隊長とする第四大隊の編成を完了し、後藤大隊なきあと、二個大隊編成であったものが、再び三個大隊となったのである。
五 昭和十九年十二月以降における集団の作戦方針の推移
十一月二十四日ペリリユー守備隊が玉砕した頃より、集団においては、従来の水際撃滅作戦《みずぎわげきめつさくせん》より持久戦的思想に移行したもののように思われる。特に二十年二月には、はっきりとその思想を打ち出し、パラオ本島の中核部に複郭陣地《ふくかくじんち》の構想を示したのである。この間ペリリユー、アンガウルを基地とする、敵海防艦《》による本島周辺の牽制《けんせい》に対しては、現地召集の沖縄県出身の漁師を中心に、「海のシラミ」と称する特攻隊を編成して、爆薬を抱えて港泳により適艦に接近してこれを爆破する作戦を展開し、幾多の戦果を上げたのである。しかし、これも敵の警戒が厳重になるに従い、困難の度合いを増して来たので、歩兵砲による夜間攻撃を決定し、三月初めには、歩五九より小宮山中尉を長とする聯隊砲一門をウルクタープル島に送り、昼間は敵に遮蔽《しゃへい》し、夜間には付近を航行する敵海防艦を砲撃させたのである。また、ペリリユー島の北に連なるガラゴン島へ歩十五の仁平少尉を長とする斬り込み隊を投入し、立派な戦果を上げたことは、全集団の士気を高揚し、特筆に価するものであった。
ペリリユー島を奪取《だっしゅ》以来、同島の飛行場を基地として連日の如くF4U戦闘機を主体とする攻撃があったが、当方も適時に対空砲火を交え、多少の戦果を上げると共に、若干の損害を受けたが、戦局に大きな影響を与えるものはなかった。