@





       
ENGLISH
In preparation
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
ログイン

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失

Re: 成瀬孫仁日記(六)昭和十七年四月~昭和十七年八月

投稿ツリー


このトピックの投稿一覧へ

あんみつ姫

通常 Re: 成瀬孫仁日記(六)昭和十七年四月~昭和十七年八月

msg#
depth:
6
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/3/16 9:57
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
昭和十七(康徳九)年八月
十八日(火)より二十四日(月)まで

此の問良く遊んだ。本は一切読みたくないし、淋しくなると酒を飲んだ。22期の川口(利雄)が帰って来ると、大ハルビン、黒猫と飲み回ったが、最後に残るものはやるせない淋しさだけだった。
 二十一日(金)に始業式があった。手塚院長先生は御母堂が逝去せられ内地へ御帰りになられた由、月末には帰哈されるとの事であった。又始業式は徳重先生が代って執り行われた。一学期の成績は一般的に非常に悪く、落第すべき者が二割から三割あるとの事である。
 二年生の北寮への移転の件も全く静かになり、院長先生御帰還までお預けの形となった。川口と長戸(俊郎)は早く移りたい様子であった。
 北寮では朝、乾布摩擦をやる事にする。今朝などは特に寒くてブルブル震えていた。

二十五日(火)晴 寒
 川辺が日本から帰って来た(1)漸く安心だ。案外元気そうに思えた。晩、寺門寿(22期)が遂に亡くなった。肺結核で市立病院に入院してから四ケ月、遂に逝ってしまった。去年の冬十四号室で三人居た頃のことを偲び感無量である。
併し御兄弟にも会われ、はるばる日本から来られた御父上に抱かれて逝けば本望と思わざるを得ない。御父上も之は運命でどうしようもないと言っておられた。
 市立病院からの帰途、月は煌々と白く原野を照らし、その死を悼んでいた。

二十六日(水)
 川辺に寮を去ることを話す。何と云って良いか、複雑な気持で一杯だ。
 寺門の告別式が哈爾浜寺である。
 寮母さん西瓜を買って来る。アット云う問になくなる。買って来た当人の口に入らず。

二十七日(木)
 川村先生に寮を出ることを御願いして許しを頂く。皆に済まず、本意なきも致し方なし。この事寮母さんにも話す。
 点呼の後、ブフェットに行き有金全部はたいてしまう。総勢十五人。いい気持になって全員して寮の前の畑を襲う。収穫は、葱と南瓜。西瓜、甜瓜(マクワウリ)はいくら探しても見当たらず。諦めて引上げる。

二十八日(金)
 朝点呼に出ていたのが、芝、山根、日下の三人だった。大場は二日続けて飲んで帰り、夜の点呼に遅れる。

二十九日(土)
 夜、川辺が自分も南寮へ行くと言い出す。身体の事だけではないだろう。
 青木とブフェットへ行き、ウオツカをまともに流し込む。更に聚楽、池田と二軒回る。川村先生と御話ししょうと酔って帰ったのに先生が来られないのでがっかり。

三十日(日)
起床七時。太陽島ヘビクニックあり。

注(1)
 八月二十五日 川辺帰寮。

              (成瀬孫仁日記(七)につづく)

--
あんみつ姫

  条件検索へ