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「私 の 三 菱」 2 古 谷 利 男

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通常 「私 の 三 菱」 2 古 谷 利 男

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/8/5 7:29
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 私は昭和四年(1929年)生まれですから、物事が分かりかけたのは小学校に入学した昭和十年(1935年)頃からになります。 陸軍の軍人だった父は、昭和六年(1931年)に西本願寺の大谷光瑞さんから軍刀をもらって満州方面陸軍特務機関長として、ソ満国境へ赴任して行ったそうですから、私は父の居る家庭というものを知りません。

 生野の町は、住民の約半分は三菱鉱山の従業員でしたし、そうでない家庭は何らかの自家営業をしていました。 しかし、父の居ない私の家は三菱鉱山とは直接関係はありませんでした。 しかし、小学校には三菱で働いている家庭の子女が沢山いました。中でも東大、早大、秋田鉱専などの採鉱冶金科を出たいわゆる学卒の社員の家族が沢山生野鉱山に来ていまして、この人達が“社宅族”という“特権階級”を形成していたのです。 そして、その社宅では、町の子供の中で、社宅へ遊びに来ても良い子供=学友を選ぶのでした。

 其の社宅には、町から女中に、一軒当たり2人ぐらいの割合で行っていましたし、その娘のお父さん達が定年になると、娘が行っている社宅の建具を直したり、生垣の手入れをしたりして定年後の余生を過ごすのでした。 私が知っている範囲では、女中として良く働いてくれた娘がお嫁に行く時に嫁入り道具まで準備してくれた社宅もあったと言うことです。 こうして、三菱と生野の町は正に一心同体でした。

 そんな訳でしたから、私の家の向かいは八百屋さんでしたが、そこの主人が朝、姫路で仕入れた野菜を先ず社宅の奥様連中が買い、それが大体終わった頃に町の人が買いに行くという具合でした。 真向かいの我が家でも、そしてそこの次男と私は友達でしたが、例外ではありませんでした。 春から夏にかけては、パラソルをさした社宅の奥様連中がやっと消えた頃、町の人達が八百屋に行くのです。 昭和10年頃の女性のパラソル姿というのは他所ではあまり見られなかったのではないでしょうか。

 町には鉱石を運ぶトロッコが河のヘリに沿って走っていましたが、小学生は危険なためトロッコに近づかないよう注意されていました。 町を縦断して流れている市川という河は、鉱山が流す鉱毒で真っ白に濁っていて、泳ぐことは出来ませんでした。 そこで、三菱鉱山が25メートルのプールを建設し、町の人達も自由に泳げるようにしてくれました。

 此の頃にプールの有る町というのも珍しかったはずです。
 しかし、そのプールのそばに三菱の社員専用のテニスコートが2面建設され、その周囲を杉の板塀で囲み、町の者が見に来ないように注意書きが建ててありました。 しかし、本当のテニスやテニスコートというものを見たことのない我々町のジャリ共は、その塀の中でポコン、ポコンというテニスボールを打つ音に魅せられて塀の節穴から中を覗きに行くのです。 すると、腕章を巻いた警備のオジサンが『こら!』とどなり乍ら町のジャリを追い払うのでした。

(写真は、昭和18年当時の筆者。姉上と)


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