「私 の 三 菱」 1 古 谷 利 男
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投稿日時 2010/8/2 9:52
編集者
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はじめに
スタッフより
この投稿は、唐辛子紋次郎さん経由で古谷利男様から頂戴いたしました。
掲載につきましても、古谷利男様よりご承諾を頂戴しております。
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銀山といえば2007年に世界遺産となった石見銀山が有名ですが、石見銀山は大永六年(1526年)九州博多の豪商神屋寿禎により発見され、大正十二年(1923年)休山するまで約400年にわたり採掘されたと言われています。
しかし、私が生まれ育った兵庫県の生野銀山は、大同二年(807年)に発見され、昭和四十八年(1973年)に閉山となるまで1,166年にわたって採掘されたもので、銀だけではなく金や銅も主要な鉱産物でした。 金山と言えば佐渡が有名ですが、実は生野鉱山の方が金の産出量が多かったという説もあるくらいですし、明治になって錫の鉱脈も発見されています。
これほどの宝庫でしたから、奉行は11代、代官は28代も続き一時は皇室の財産となり宮内省の所管となったこともあります。 今では遺跡となった鉱山の正門には未だ菊の御紋が残っています。
それも明治二十九年(1896年)に民間払い下げの入札が行はれ三菱合資会社が落札し、
「三菱の生野鉱山」が定着することになります。 明治三十四年(1901年)には、水力発電所が完成し、姫路でさえ未だ電灯がともっていない時に、生野には早くも電化時代が到来したのです。 そして採掘した鉱石を運ぶ「銀の馬車道」が出来たり、姫路から和田山までの播但鉄道が開通しました。 現在、新橋の機関車の広場に展示してある機関車は正にこの播但鉄道を走っていた機関車で、その経緯は機関車のそばに建てられている掲示板に要点が記されています。
大正二年(1913年)には、女子の高等教育を目指して、生野実科女学校(後の兵庫県立生野高等女学校を経由して現在の兵庫県立生野高等学校)が創設されました。私の母はこの実科女学校の第一期生ですが、日本で女子に普通選挙権が与えられたのは昭和二十一年(1946年)ですから、それより33年も早く女子の高等教育が行はれたわけです。
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私は昭和四年(1929年)生まれですから、物事が分かりかけたのは小学校に入学した昭和十年(1935年)頃からになります。 陸軍の軍人だった父は、昭和六年(1931年)に西本願寺の大谷光瑞さんから軍刀をもらって満州方面陸軍特務機関長として、ソ満国境へ赴任して行ったそうですから、私は父の居る家庭というものを知りません。
生野の町は、住民の約半分は三菱鉱山の従業員でしたし、そうでない家庭は何らかの自家営業をしていました。 しかし、父の居ない私の家は三菱鉱山とは直接関係はありませんでした。 しかし、小学校には三菱で働いている家庭の子女が沢山いました。中でも東大、早大、秋田鉱専などの採鉱冶金科を出たいわゆる学卒の社員の家族が沢山生野鉱山に来ていまして、この人達が“社宅族”という“特権階級”を形成していたのです。 そして、その社宅では、町の子供の中で、社宅へ遊びに来ても良い子供=学友を選ぶのでした。
其の社宅には、町から女中に、一軒当たり2人ぐらいの割合で行っていましたし、その娘のお父さん達が定年になると、娘が行っている社宅の建具を直したり、生垣の手入れをしたりして定年後の余生を過ごすのでした。 私が知っている範囲では、女中として良く働いてくれた娘がお嫁に行く時に嫁入り道具まで準備してくれた社宅もあったと言うことです。 こうして、三菱と生野の町は正に一心同体でした。
そんな訳でしたから、私の家の向かいは八百屋さんでしたが、そこの主人が朝、姫路で仕入れた野菜を先ず社宅の奥様連中が買い、それが大体終わった頃に町の人が買いに行くという具合でした。 真向かいの我が家でも、そしてそこの次男と私は友達でしたが、例外ではありませんでした。 春から夏にかけては、パラソルをさした社宅の奥様連中がやっと消えた頃、町の人達が八百屋に行くのです。 昭和10年頃の女性のパラソル姿というのは他所ではあまり見られなかったのではないでしょうか。
町には鉱石を運ぶトロッコが河のヘリに沿って走っていましたが、小学生は危険なためトロッコに近づかないよう注意されていました。 町を縦断して流れている市川という河は、鉱山が流す鉱毒で真っ白に濁っていて、泳ぐことは出来ませんでした。 そこで、三菱鉱山が25メートルのプールを建設し、町の人達も自由に泳げるようにしてくれました。
此の頃にプールの有る町というのも珍しかったはずです。
しかし、そのプールのそばに三菱の社員専用のテニスコートが2面建設され、その周囲を杉の板塀で囲み、町の者が見に来ないように注意書きが建ててありました。 しかし、本当のテニスやテニスコートというものを見たことのない我々町のジャリ共は、その塀の中でポコン、ポコンというテニスボールを打つ音に魅せられて塀の節穴から中を覗きに行くのです。 すると、腕章を巻いた警備のオジサンが『こら!』とどなり乍ら町のジャリを追い払うのでした。
(写真は、昭和18年当時の筆者。姉上と)
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赤い富士山とえんどう豆
小学校4年になって、N君の家族が東京からやってきました。勿論“社宅族”でお父さんは三菱鉱山の会計課長をしていて月給百円もらっているというので学校中の話題になりました。 バットという煙草が一銭値上がりしたというので、「バットが一銭上がったとさ」という歌が出来た時代ですから、百円というのは大金でした。
ある日、N君のおバアチャンが我が家にやってきて、『今日は重明の誕生会をするから、6時にいらっしゃい。(重明はN君の名前です)』と言うので私は喜び勇んでN君宅へ行きました。 食事の前にアイスコーヒー(これは生まれて初めて飲む物でした)を頂き、こんなおいしい飲み物があるんだ、と感心しました。 その次に出てきたのが、赤いご飯で、富士山の形をしていて、その富士山の頂上にえんどう豆が乗せてありました。 これがまたおいしいご飯で、これこそ今まで見たことも聴いたこともない物でした。
誕生会が終って家に帰ると母が『どんな御馳走が出たの?』と早速聴きましたので、その状況をつぶさに話しましたが、『富士山とえんどう豆ね?』と言ったままで、会話はそれで終りました。 多分母もそれ以上分からなかったのでしょう。
そこで、その次の日に芳賀君に聴くことにしました。 芳賀君の家は小学校を出たところで「日の丸食堂」というのをやっていて、うどんと洋食を作っていましたし、芳賀君が自転車で「洋食」と書いた岡持ちを運んでいるのを時々見かけていたからです。そこで、芳賀君に『君、昨日N君ちに洋食持って行かなかった?』と聴きますと彼は『うん、チキンライスを6人前持って行ったよ。』と言ってくれました。『あれはチキンライスと言うのか!』と、忘れないように紙切れにメモって家に帰り、母に『あれはチキンライスという洋食なんだって!』と伝えたのですが、負けず嫌いの母は『ああ、チキンライスね。』と言ったまま空を見つめていました。 多分良く理解出来なかったのでしょう。
そんな我が家に一度だけ父が帰ってきました。東京の陸軍省に或る報告をするために帰ったのだそうです。 お土産にカラフルな紙で包んであったロシア飴、ノコギリでしか切れない程硬い、カモシカやトナカイや熊の形をしたチョコレートなどを一杯持って帰って来たのを覚えています。これは私が小学校に入るか入らないかの頃(昭和九~十年)ではないでしょうか。 勿論私が意識して父を見た初めての機会でしたし、父が日本の土を踏んだ最後の機会だったと思います。 当時の世界情勢は混沌としており、それから1~2年後の昭和十二年七月七日には日支事変が勃発し、同じ七月に父が戦死していますから。
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三菱鉱山の存在は、生野という山間の集落に県下でも珍しいモダナイゼーションを齎しましたが、矢張り「田舎」という実態は中々拭うことが出来ませんでした。
先程のN君と駅の近くで遊んでいましたら、突然N君が『古谷君シ―の57だ!』と叫びました。 私は何の事だか分からないので、N君の顔を見直しますと、『あれ、あそこに、シ―の57が来たよ!』と言うではありませんか。 其の時は機関車のC-57型が来た、と私に教えてくれるつもりだったようです。 しかし、私は未だABCも知らず、ましてや、蒸気機関車にC-57型というのがあることも知りませんでした。 『お前バカか!』とののしられたのは勿論です。 このN君が我々町のジャリに、ボクシングごっこをしよう、とか、アイススケートごっこをしよう、など色々遊びについて提案してくれるのですが、N君が言っているスポーツを未だ見たこともない我々は、只ポカンとしているだけでした。
昭和十七年(1942年)になるまで生野には未だ中学校が無かったものですから、私の兄は神戸の中学に入っていました。兄はその中学の剣道部に居まして、早めに夏休みを繰り上げて剣道部の合宿に参加すべく8月20日頃神戸に帰るというのです。 そこで母が兄に『利男(私のこと)に一度神戸を見せてやって欲しい。』と言い、兄が私を連れて神戸の元町へ着きました。 初めて見た大都会で、沢山の人がぞろぞろ歩いていましたので、私は兄に『今日は神戸のサンジンサンかな?』と聴いたのです。 「サンジンサン」というのは、生野の最大のお祭りで、“山神祭”と書き、山=鉱山の神様をお祭りするもので、その時は生野の町だけではなく、近郷の町や村から沢山の人が来て芝居や映画や相撲があり一年中で一番賑やかな時です。生野の人は山神祭をサンジンサンと呼んでいました。
此の時兄に『大きな声で恥ずかしいことを言うな!』と、どなりつけられましたが、私としては何故どなられなければいけないのか、さっぱり分かりませんでした。
そう云えば、同じ頃、母の弟の叔父が東京へ行く用が出来、東京駅八重洲口側の旅館を予約していたそうです。 東京駅に着いた叔父が早速タクシーに乗り、『○○旅館まで!』と言いますと、運転手が『この道の向こう側に見えるあの家がその旅館ですが?』と言ったそうです。しかし、一旦乗ったタクシーなので、叔父としては今更降りる気にもならず、『いいから兎に角行ってくれ!』と言ってムキになった、とか。 意固地な田舎者にはタクシーの運転手も手を焼いたことでしょう。
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昭和十二年七月七日(1937年7月7日)中国で盧溝橋事件が勃発し、日支事変が始まりましたが、陸軍特務機関長としてソ満国境に行っていた父が同年同月26日に戦死しました。 恐らく日支事変の最初の戦死者だったのではないかと思っています。 私は未だ小学校二年生で実感としては良く分かっていませんが、我が家がドン底に叩きつけられ、家計も火の車になったようです。
母は今まで頭を下げたくなかった三菱鉱山に頭を下げて、社宅に入れない独身社員を2人づつ置くようになり、社宅や町の主婦・娘さんにお琴を教え、出稽古に隣の町まで出向いたり、田中千代学院の教科書で習った洋裁で社宅や町の人の洋服を作ったりしました。
その頃の母の口癖は『シンガーミシンが欲しい、 シンガーミシンが欲しい!』ということでした。 偶々訪問した社宅で使っていたミシンが「シンガ―社製のミシン」で、それが我が家のミシンとは格段に違うスムースな動きをしていたかららしいです。そんな具合で我が家は三菱鉱山で直接には働きませんでしたが、色んな支えや沢山の知識を三菱から戴いたことは確かです。
我が家が受けた三菱からの恩恵のもう一つは、姉が日本舞踊・藤間流の名取になったことでしょう。 姉の小学校の同級生で社宅に住んでいた河原さんという娘さんが、双葉ひじきという先生から新舞踊を習っていて姉にも一緒に習おうと誘いがあり、月に一度先生が河原さんの社宅にきておられました。何カ月か通った或る日先生が姉に、『新舞踊もいいけど、古谷さんは日本舞踊に合っているように思う。』と言われたので、姉はそれから町に居た藤間流の師匠について日本舞踊を習いました。
それから、姉は大阪に出て、遂には当時歌舞伎界の重鎮でもあり、藤間流の家元でもあった尾上松緑さんの門下生となり、「藤間勘水」という名を戴きました。
町の小学校といっても小さい学校でしたが、私が五年生の時の昭和十五年(1940年)に日本では皇紀2600年を迎えました。 或る日、担任の今井先生から、弟さんが皇紀2600年の歌の作詞に応募して入選したんだ、という話を聴きました。 しかし、私達生徒としては単に歌を作ってそれが何処かで入選したんだ、位にしか考えていませんでした。しかし、やがて日本中の人が、『金鵄輝く日本の、 栄えある光身に受けて、・・・』と唄い出したので学校中が大変な騒ぎになりました。 記念式典が日本中で開催されましたし、その慶祝歌が生野から生まれたというので、この頃の生野鉱山は大変な勢いでした。
資料によりますと、明治三十五年(1902年)以降は三菱傘下の全鉱山で最も高い利益を上げ、鉱山部門の利益の25%を生野が占め、三菱の収益の中でも約10%を生野鉱山が稼ぎ出していた、との記録も有るようですから、この頃の従業員も2,000人を超していて、町の人口も恐らく10,000人を超していたのではないでしょうか。
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母が黙って抜いた伝家の宝刀
私が小学校六年生になった頃(昭和十六年)、突然、社宅のN君のお父さん(会計課長)が九州に転勤になりました。 N君のお母さんとおバアちゃんが我が家に来て、N君は姫路中学を受けさせるので半年ほど我が家で預かってくれ、と半ば強制的に頼んできたそうです。 母は、三菱に非ざれば人に非ず、の生野では断ることもできず、引き受けました。
ところが、受験の一週間程前からN君は姫路の知人の家に移ってしまいました。私も同じ姫路中学を受験しました。 ところが、小学校では遥かに私より成績の悪かったN君だけが合格し、私は見事にに落ちました。 母は小学校のF校長の所へ行き、どう考えても腑に落ちないと言いますと、校長が通信簿・学籍簿などで確認してくれた結果、それらが全て改ざんされていたそうです。
そこで母は県会議長宅まで行って、本件の顛末を話したところ、『子供には将来もあるので、がっかりせずに頑張りなさい。』とお茶を濁らせただけでそれ以上何もしてくれなかったそうです。
普段物静かで優しかった母が此の時だけは鬼になりました。 そこで、母は父の友人・知人の民政党代議士数人に事の次第を話したそうです。その後は小さかった私には何があったのか分かりませんが、取り敢えず中学受験のため大阪の高等小学校に一年通いました。
ところが、その小学校が大変程度の悪い小学校で私が目指した大阪府立市岡中学校にはここ10年以上合格者が居ないとのことでした。 下宿をさせてくれていた大阪の叔母が心配して、小学校を代わった方がいいのではないか、と言うものですから、母に電話でその旨話したところ、母は『大丈夫、利男(私のこと)ならきっと合格するから、死ぬ気で勉強しなさい!』ときっぱり言うのでした。
その年にその小学校から市岡中学には11人受験しましたが、結論として私一人だけ、13年目に合格したそうです。 合格発表を見て母に電話しましたら『そう、これで仇は討ったね!』と一言だけ言いました。
母が黙って抜いた伝家の宝刀の切れ味は見事でした。 後に分かったことですが、小学校のF校長は島根県の田舎の某小学校へ転勤になり、私の担任だったM教諭は免職となり教育界から追放されたとのことです。
しかし、これには後日談があります。2~3年前に生野高校の同窓会を東京で開催しましたが、同窓会終了後、私のところへ或る同窓生がやってきまして、『私は姫路中学から生野中学に転校してきた者ですが、古谷さん、姫路中学に行ったNさんを御存じですか?』と聴くではありませんか。 もう65年以上昔の話ですが、『知っています。 私の小学校時代の同級生で、お父さんが生野鉱山の会計課長をしていて、月給百円もらっているというので学校中評判になった人です。』と答えますと、その同窓生は『そのNさんは中学の勉強に付いて行かれなくなって、何時しか退学し、どこかへ行ってしまわれました。』と。
三菱には我が家も大いに恩恵を戴きましたが、此の事だけが唯一残念な思い出です。
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幼少年期を、三菱鉱山のサイレンを聞き、サンジンサンを楽しみにして暮らした生野の町を離れて7年、私も関西の大学を出て東京に就職した昭和三十一年(1956年)の秋、当時勤務していたニッケル精錬会社志村化工が山手線の駒込に3軒の家を買いました。
1軒目は社長の住宅として購入したものですが、帝国ホテルの設計者が設計したと言われるこの建物は、旧帝国ホテルの姿を直ぐ連想させる程、帝国ホテルと似た建物でした。その向かい側は当時の大蔵次官である森永貞一朗さんの家でした。もう一軒は、志村化工がニッケル鉱石を輸入しているニューカレドニアの鉱区を相当所有しているという筒井さんと言う方の長男などが入っている家でした。 しかし、私が会社から移れと命じられたのは三軒目の家でした。
この三軒目の家は、当時景気の良かった会社が取引先や官庁の役人を接待するための倶楽部にするというのです。 そして、その倶楽部の名前も「むつみ荘」という名前が決めてありました。引っ越す一週間ほど前に、事前に所在を確かめておきたいと思い、現地に行ってみました。
ところが、家・屋敷こそ大きいものでしたが、クモの巣が一杯で、それを5~6人の作業者で磨いていました。 こんな家が人の住めるようになるのかな、と思い乍ら半ば沈んだ気持ちで戸田ボート場の近くの独身寮に帰ったものでした。 しかし、いよいよ引っ越す日にそこへ行ってみますと、さすがに家を磨く専門職だけあってそこには見違えるようなピカピカで立派な屋敷が建っているではありませんか。 既に「むつみ荘」という表札もあがっていましたし、留守番のオバサンも来ていました。 そこで、オバサンに、一体これは誰の家だったのかと聴きますと、元内閣総理大臣・若槻礼次郎さんの家だったということが分かりました。 そう云われて改めて家の中を見てみますと、立派な欄間のある座敷、螺旋階段に続く洋間、など成程とうなずける家屋でした。
若槻礼次郎といえば民政党から出た総理ですが、私の父も二十代に民政党の川崎 克代議士の秘書をしており、そんな関係で西本願寺の大谷光瑞氏から軍刀をもらって満州へ渡ったわけです。 郷里には川崎代議士をはじめ後に民政党の総裁になった町田忠治氏など著名な代議士の揮豪がいろいろありました。それらを回想しながら何だか因縁のようなものを感じました。
そして、その「むつみ荘」の向かい側には「岩崎小弥太」という表札が懸かっていました。 近くには現在東京都が管理している「六義園」が在り、その六義園に隣接する町を「大和郷(やまとむら)」と言い、別名「三菱むら」ということも分りました。
三菱の町・生野を離れ、大学を出て、東京に就職し、東京のはずれ戸田ボート場に近い独身寮を経て、たどりついた所が民政党ゆかりの旧若槻邸であり、三菱むら、だったわけです。 岩崎小弥太さんの家は、当時2~3百坪ぐらいの家でしたが、それでも、一般の人の家に比べると立派な邸宅でした。 その家に大きな番犬が居て、その名前が「太郎」ということも覚えています。何故なら、志村化工の社長の名前が堀居太郎と言いましたので直ぐ覚えました。
会社が休みの日は、近くの六義園に行き、未だ行ったこともないアメリカへの思いを少しでも満たすべく、中内正利教授の「アメリカの横顔」や「アメリカ文学カメラ紀行」などを読んで異国の匂いを味合ったものです。 この六義園というのは、元禄八年四月に松平加賀守の上屋敷を五代将軍綱吉の御側用人筆頭・柳沢出羽守保明(やすあきら)-後の美濃守吉保―が拝領したものだそうで、更に元禄十年と十三年の二度に亘って地続きを拝領し、総面積は48,921坪となり、保明は元禄十一年この別邸の庭を六義園(またの名をむくさのにわ)、建物を六義館(またの名をむくさのたち)と名付けたと言われています。
そして、此処には将軍綱吉も、その母・桂昌院も来ていますし、 あの忠臣蔵四十七士切腹の最終決定も保明によって此処で行われたとも言われています。
この六義園を明治十一年(1878年)岩崎弥太郎が周辺の土地も含めて買い取り、久弥は新婚時代をこの六義園の邸宅で過ごしたそうです。 この48,921坪の六義園とそれに隣接する大和郷(やまとむら)一帯の広大な土地が嘗ては全て岩崎家のものだったと言うのですから、岩崎家の財力は我々庶民では到底考えられないものだったのでしょう。
しかし、三代目社長岩崎久弥の時代に、ジョサイア・コンドルの設計による2階建ての洋館が茅場本邸に建てられ、結婚して六義園の屋敷に住んでいた久弥が、完成を待って移り住んだのが明治二十九年(1896年)だそうですが、 この同じ年の九月十六日に、民間払い下げとなった生野鉱山を三菱合資会社が落札しているのです。
これなども、岩崎/三菱 の財力の凄さを物語る重要な材料と言えるでしょう。
日本経済新聞の「私の履歴書」に、現在三菱商事相談役の槇原 稔氏が駒込の岩崎邸のことを少し書いておられます。 奥様の喜久子様に関する記述ではありますが、『私の米国留学が決まった時は、喜久子の実家の東京・駒込の岩崎邸で歓送会を開いてくれた。 戦後すぐは財閥解体や追放、預金封鎖もあり、岩崎といえども楽ではなかったらしい。』『どこでどうプロポーズしたかは全く覚えていない。 いわば自然の成り行きのごとく一緒になった。 披露宴の会場は、新婚生活を送ることになっていた駒込の岩崎邸で開いた。』
『ちなみに、駒込の岩崎邸は以前はお隣の六義園を含む広大な屋敷だったというが、何度にもわたって敷地を手放し、今ではこじんまりした普通の住宅地である。 海外の家や武蔵小杉(川崎市)の社宅などを経て、今は再び駒込のこの地に家を建てて住んでいる。』
と。
(以上の引用は、2009年9月12日号日本経済新聞の「私の履歴書」)
私が昭和三十一~二年(1956~7年)に住んでいた志村化工の「むつみ荘」の向かい側の家は、前にも書きましたが「岩崎小弥太」という表札が懸かっていました。 松本健一著「評伝 斎藤隆夫」(岩波現代文庫)の中に、若槻礼次郎首相と幣原喜重郎外相が、この駒込の大和郷(やまとむら)に住んでいて、昭和六年(1931年)九月十九日の朝刊を見て満州事変の勃発を知ったと書かれています。
私が住んでいた旧若槻礼次郎邸には、当時の社会事情を反映してか、押入れの襖を開けますと、天井から梯子が吊られており、その梯子を登ると屋外の屋根に出られるのですが、そこは何処からも見えないようになっていました。 又、一階には20畳ぐらいの金庫部屋があり、志村化工ではそこを株券など重要書類の保管場所にしていました。そこの鍵は、社長秘書と株式課長を兼務していたS氏と私しか開け方(番号)を知らされていませんでした。
私はそこに結婚するまでの2年ぐらい住みましたが、やがてニッケル・ブームも去り、会社も社運が傾き、2~3の買主を経て、現在は鳩山邦夫さんが建物を新築して住んでおられます。 時々、テレビ・ニュースで鳩山さんが玄関で記者達に囲まれているのを見ますと、若かった頃の自分を思い出し懐かしいです。
同時に、現鳩山邸のお向かいは今でも「岩崎家」なのか、「私の履歴書」にもあるように、「槇原 稔」さんの表札が懸かっているのでしょうか。そのうち一度確かめてみようと思っています。
あれもこれも、もうとっくに半世紀を超える昔のことですが、人の縁というのは不思議なもので、三菱の生野、駒込の三菱むら、その三菱むら=大和郷に父がお世話になった民政党の若槻礼次郎さんが住み、そこに私が住むことになるとは・・・。
-完-