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「私 の 三 菱」 1 古 谷 利 男・7

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通常 「私 の 三 菱」 1 古 谷 利 男・7

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/8/16 8:26
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 幼少年期を、三菱鉱山のサイレンを聞き、サンジンサンを楽しみにして暮らした生野の町を離れて7年、私も関西の大学を出て東京に就職した昭和三十一年(1956年)の秋、当時勤務していたニッケル精錬会社志村化工が山手線の駒込に3軒の家を買いました。

 1軒目は社長の住宅として購入したものですが、帝国ホテルの設計者が設計したと言われるこの建物は、旧帝国ホテルの姿を直ぐ連想させる程、帝国ホテルと似た建物でした。その向かい側は当時の大蔵次官である森永貞一朗さんの家でした。もう一軒は、志村化工がニッケル鉱石を輸入しているニューカレドニアの鉱区を相当所有しているという筒井さんと言う方の長男などが入っている家でした。 しかし、私が会社から移れと命じられたのは三軒目の家でした。
 
 この三軒目の家は、当時景気の良かった会社が取引先や官庁の役人を接待するための倶楽部にするというのです。 そして、その倶楽部の名前も「むつみ荘」という名前が決めてありました。引っ越す一週間ほど前に、事前に所在を確かめておきたいと思い、現地に行ってみました。

 ところが、家・屋敷こそ大きいものでしたが、クモの巣が一杯で、それを5~6人の作業者で磨いていました。 こんな家が人の住めるようになるのかな、と思い乍ら半ば沈んだ気持ちで戸田ボート場の近くの独身寮に帰ったものでした。 しかし、いよいよ引っ越す日にそこへ行ってみますと、さすがに家を磨く専門職だけあってそこには見違えるようなピカピカで立派な屋敷が建っているではありませんか。 既に「むつみ荘」という表札もあがっていましたし、留守番のオバサンも来ていました。 そこで、オバサンに、一体これは誰の家だったのかと聴きますと、元内閣総理大臣・若槻礼次郎さんの家だったということが分かりました。 そう云われて改めて家の中を見てみますと、立派な欄間のある座敷、螺旋階段に続く洋間、など成程とうなずける家屋でした。

 若槻礼次郎といえば民政党から出た総理ですが、私の父も二十代に民政党の川崎 克代議士の秘書をしており、そんな関係で西本願寺の大谷光瑞氏から軍刀をもらって満州へ渡ったわけです。 郷里には川崎代議士をはじめ後に民政党の総裁になった町田忠治氏など著名な代議士の揮豪がいろいろありました。それらを回想しながら何だか因縁のようなものを感じました。

 そして、その「むつみ荘」の向かい側には「岩崎小弥太」という表札が懸かっていました。 近くには現在東京都が管理している「六義園」が在り、その六義園に隣接する町を「大和郷(やまとむら)」と言い、別名「三菱むら」ということも分りました。

 三菱の町・生野を離れ、大学を出て、東京に就職し、東京のはずれ戸田ボート場に近い独身寮を経て、たどりついた所が民政党ゆかりの旧若槻邸であり、三菱むら、だったわけです。 岩崎小弥太さんの家は、当時2~3百坪ぐらいの家でしたが、それでも、一般の人の家に比べると立派な邸宅でした。 その家に大きな番犬が居て、その名前が「太郎」ということも覚えています。何故なら、志村化工の社長の名前が堀居太郎と言いましたので直ぐ覚えました。

 会社が休みの日は、近くの六義園に行き、未だ行ったこともないアメリカへの思いを少しでも満たすべく、中内正利教授の「アメリカの横顔」や「アメリカ文学カメラ紀行」などを読んで異国の匂いを味合ったものです。 この六義園というのは、元禄八年四月に松平加賀守の上屋敷を五代将軍綱吉の御側用人筆頭・柳沢出羽守保明(やすあきら)-後の美濃守吉保―が拝領したものだそうで、更に元禄十年と十三年の二度に亘って地続きを拝領し、総面積は48,921坪となり、保明は元禄十一年この別邸の庭を六義園(またの名をむくさのにわ)、建物を六義館(またの名をむくさのたち)と名付けたと言われています。
 そして、此処には将軍綱吉も、その母・桂昌院も来ていますし、 あの忠臣蔵四十七士切腹の最終決定も保明によって此処で行われたとも言われています。

 この六義園を明治十一年(1878年)岩崎弥太郎が周辺の土地も含めて買い取り、久弥は新婚時代をこの六義園の邸宅で過ごしたそうです。 この48,921坪の六義園とそれに隣接する大和郷(やまとむら)一帯の広大な土地が嘗ては全て岩崎家のものだったと言うのですから、岩崎家の財力は我々庶民では到底考えられないものだったのでしょう。

 しかし、三代目社長岩崎久弥の時代に、ジョサイア・コンドルの設計による2階建ての洋館が茅場本邸に建てられ、結婚して六義園の屋敷に住んでいた久弥が、完成を待って移り住んだのが明治二十九年(1896年)だそうですが、 この同じ年の九月十六日に、民間払い下げとなった生野鉱山を三菱合資会社が落札しているのです。 
 これなども、岩崎/三菱 の財力の凄さを物語る重要な材料と言えるでしょう。

 日本経済新聞の「私の履歴書」に、現在三菱商事相談役の槇原 稔氏が駒込の岩崎邸のことを少し書いておられます。 奥様の喜久子様に関する記述ではありますが、『私の米国留学が決まった時は、喜久子の実家の東京・駒込の岩崎邸で歓送会を開いてくれた。 戦後すぐは財閥解体や追放、預金封鎖もあり、岩崎といえども楽ではなかったらしい。』『どこでどうプロポーズしたかは全く覚えていない。 いわば自然の成り行きのごとく一緒になった。 披露宴の会場は、新婚生活を送ることになっていた駒込の岩崎邸で開いた。』
 『ちなみに、駒込の岩崎邸は以前はお隣の六義園を含む広大な屋敷だったというが、何度にもわたって敷地を手放し、今ではこじんまりした普通の住宅地である。 海外の家や武蔵小杉(川崎市)の社宅などを経て、今は再び駒込のこの地に家を建てて住んでいる。』
と。 
 (以上の引用は、2009年9月12日号日本経済新聞の「私の履歴書」)

 私が昭和三十一~二年(1956~7年)に住んでいた志村化工の「むつみ荘」の向かい側の家は、前にも書きましたが「岩崎小弥太」という表札が懸かっていました。 松本健一著「評伝 斎藤隆夫」(岩波現代文庫)の中に、若槻礼次郎首相と幣原喜重郎外相が、この駒込の大和郷(やまとむら)に住んでいて、昭和六年(1931年)九月十九日の朝刊を見て満州事変の勃発を知ったと書かれています。

  私が住んでいた旧若槻礼次郎邸には、当時の社会事情を反映してか、押入れの襖を開けますと、天井から梯子が吊られており、その梯子を登ると屋外の屋根に出られるのですが、そこは何処からも見えないようになっていました。 又、一階には20畳ぐらいの金庫部屋があり、志村化工ではそこを株券など重要書類の保管場所にしていました。そこの鍵は、社長秘書と株式課長を兼務していたS氏と私しか開け方(番号)を知らされていませんでした。

 私はそこに結婚するまでの2年ぐらい住みましたが、やがてニッケル・ブームも去り、会社も社運が傾き、2~3の買主を経て、現在は鳩山邦夫さんが建物を新築して住んでおられます。 時々、テレビ・ニュースで鳩山さんが玄関で記者達に囲まれているのを見ますと、若かった頃の自分を思い出し懐かしいです。

 同時に、現鳩山邸のお向かいは今でも「岩崎家」なのか、「私の履歴書」にもあるように、「槇原 稔」さんの表札が懸かっているのでしょうか。そのうち一度確かめてみようと思っています。

 あれもこれも、もうとっくに半世紀を超える昔のことですが、人の縁というのは不思議なもので、三菱の生野、駒込の三菱むら、その三菱むら=大和郷に父がお世話になった民政党の若槻礼次郎さんが住み、そこに私が住むことになるとは・・・。










 -完-

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