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「私 の 三 菱」 5 古 谷 利 男

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通常 「私 の 三 菱」 5 古 谷 利 男

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/8/12 8:17
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 昭和十二年七月七日(1937年7月7日)中国で盧溝橋事件が勃発し、日支事変が始まりましたが、陸軍特務機関長としてソ満国境に行っていた父が同年同月26日に戦死しました。 恐らく日支事変の最初の戦死者だったのではないかと思っています。 私は未だ小学校二年生で実感としては良く分かっていませんが、我が家がドン底に叩きつけられ、家計も火の車になったようです。

 母は今まで頭を下げたくなかった三菱鉱山に頭を下げて、社宅に入れない独身社員を2人づつ置くようになり、社宅や町の主婦・娘さんにお琴を教え、出稽古に隣の町まで出向いたり、田中千代学院の教科書で習った洋裁で社宅や町の人の洋服を作ったりしました。
その頃の母の口癖は『シンガーミシンが欲しい、 シンガーミシンが欲しい!』ということでした。 偶々訪問した社宅で使っていたミシンが「シンガ―社製のミシン」で、それが我が家のミシンとは格段に違うスムースな動きをしていたかららしいです。そんな具合で我が家は三菱鉱山で直接には働きませんでしたが、色んな支えや沢山の知識を三菱から戴いたことは確かです。

 我が家が受けた三菱からの恩恵のもう一つは、姉が日本舞踊・藤間流の名取になったことでしょう。 姉の小学校の同級生で社宅に住んでいた河原さんという娘さんが、双葉ひじきという先生から新舞踊を習っていて姉にも一緒に習おうと誘いがあり、月に一度先生が河原さんの社宅にきておられました。何カ月か通った或る日先生が姉に、『新舞踊もいいけど、古谷さんは日本舞踊に合っているように思う。』と言われたので、姉はそれから町に居た藤間流の師匠について日本舞踊を習いました。

 それから、姉は大阪に出て、遂には当時歌舞伎界の重鎮でもあり、藤間流の家元でもあった尾上松緑さんの門下生となり、「藤間勘水」という名を戴きました。

 町の小学校といっても小さい学校でしたが、私が五年生の時の昭和十五年(1940年)に日本では皇紀2600年を迎えました。 或る日、担任の今井先生から、弟さんが皇紀2600年の歌の作詞に応募して入選したんだ、という話を聴きました。 しかし、私達生徒としては単に歌を作ってそれが何処かで入選したんだ、位にしか考えていませんでした。しかし、やがて日本中の人が、『金鵄輝く日本の、 栄えある光身に受けて、・・・』と唄い出したので学校中が大変な騒ぎになりました。 記念式典が日本中で開催されましたし、その慶祝歌が生野から生まれたというので、この頃の生野鉱山は大変な勢いでした。

 資料によりますと、明治三十五年(1902年)以降は三菱傘下の全鉱山で最も高い利益を上げ、鉱山部門の利益の25%を生野が占め、三菱の収益の中でも約10%を生野鉱山が稼ぎ出していた、との記録も有るようですから、この頃の従業員も2,000人を超していて、町の人口も恐らく10,000人を超していたのではないでしょうか。

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