輸送船勝鬨丸の最後 高崎 廣
投稿ツリー
-
輸送船勝鬨丸の最後 高崎 廣 (編集者, 2011/8/9 6:49)
- 輸送船勝鬨丸の最後2 高崎 廣 (編集者, 2011/8/10 6:17)
- 輸送船勝鬨丸の最後3 高崎 廣 (編集者, 2011/8/11 8:02)
- 輸送船勝鬨丸の最後4 高崎 廣 (編集者, 2011/8/12 8:08)
- 輸送船勝鬨丸の最後5 高崎 廣 (編集者, 2011/8/13 8:15)
- 輸送船勝鬨丸の最後6 高崎 廣 (編集者, 2011/8/14 6:49)
- 輸送船勝鬨丸の最後7 高崎 廣 (編集者, 2011/8/15 6:28)
- depth:
- 0
前の投稿
-
次の投稿
|
親投稿
-
|
投稿日時 2011/8/9 6:49
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
はじめに
スタッフより
この投稿の掲載につきましては、高崎 廣様のご家族のご承諾を頂戴しております。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
輸送船勝鬨丸の最後
近衛歩兵三聯隊十中隊
高 崎 廣
昭和十九年六月十六日、分隊長堀篭但馬軍曹は昭和十五年出征以来、南支、彿印、シンガポール攻略、スマトラそしてこの印度洋アンダマン諸島と歴戦の勇士も病魔には勝てず、看護の効なく、病院の窓から河西大艇、(四発機)が着くのを見るたび「あれに乗って帰りたい」と云って居りましたか、ポートプレーアーの野戦病院の隔離病棟で亡くなり最后を看とる。通常ならば古年次兵に命ぜられるのが病院長から私か良く看護したとの報告に依ったと思われるのですが遺骨を宰領してシンガポール迄行く様に命ぜられる。出発直前に清水晋作氏の死亡の報入る。アンダマン在駐の各獨立大隊より一名宛計三名から成る遺骨宰領者は各人十二柱を奉じてポートプレーアーを昭和十九年八月出港す。本船には戦況の緊迫により慰安所従業婦等もシンガポール方面に引き揚げるために各部隊将校等の見送り殊の外に盛大なり。若い将校さんから乗船する慰安婦にラブレターを渡して呉れと頼まれたのにはその純心さに驚かされた。
約一週間の航海は何事もなくシンガポール到着後は遺骨は東本願寺に安置され供養を受ける。サイパン陥落の報至る。シンガポール兵站宿舎に入るも離島から来た者には特に優遇されてる様子なり。又各地より多数の新兵か来るも大分「ボカチン」を喰った者が多いように見受けられる。食事時に食堂に入ると大きな飯櫃が御飯を山盛りして机の上に置かれて居り自由に取って艮いとの事、アンダマンから僅かな距離の所で此れほどにも違うものかと食糧不足に悩む戦友を思い感無量である。
シンガポール待機中に色々と私物情報が入るサイパンは陥落したが四発の陸上飛行機が五百機で飛来して此れから總反撃に転ずる等々嘘をつけと云ひたくなる。何んで一、二時間の飛行距離のアンダマンに一機も居ないのだ我々が苦労して作った滑走路があるのに、せめても輸送船が入る時丈でも来て呉れたら、夜間の揚陸作業しか出来なくて、目の前で冷凍野菜を積んだ船か敵潜水艦に沈められるくやしさ、飛行掩護かできないのだ。