輸送船勝鬨丸の最後7 高崎 廣
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輸送船勝鬨丸の最後 高崎 廣 (編集者, 2011/8/9 6:49)
- 輸送船勝鬨丸の最後2 高崎 廣 (編集者, 2011/8/10 6:17)
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- 輸送船勝鬨丸の最後6 高崎 廣 (編集者, 2011/8/14 6:49)
- 輸送船勝鬨丸の最後7 高崎 廣 (編集者, 2011/8/15 6:28)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
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十二月二十五日、三池港出港、乗船した船は戦時標準型船で内部は殆んど仕切りがなく船側に居ると直かに波が当たるのが聞こえる。魚雷一発で沈むであろう。雪が降ってくる。南に行くのに、敵潜水艦を避けて中国大陸寄りを航行し台湾高雄港に入港する。
サイゴン行きの船団に加わり出港となるがエンジン故障にて動かず他の船は出てしまう。
最も後で聞くと出た船団も殆ど途中でやられてしまった様子。
昭和二十年一月一日から五日までの間にフィリピンからの米軍機の爆撃により高雄港在泊の船は全部やられてしまう状態となり原隊復帰は絶望となった。昭和二十年一月、台南兵站宿舎に原隊に帰れぬ兵隊として宿泊して居ると在台の旧い部隊で蓬部隊五十師団司令部の士官学校出の将校が来て、彼は足を負傷して居りビッコをひいて居た。師団司令部に来るかと云われる。塹壕掘りでなければと云うと、空襲を受けたときの米軍機乗員捕虜の訊問をするのだと云うので同部隊転属になる。結局墜落機のパイロットは地上に激突するか海上に漂流して敵潜水艦に助けられるかで当方は手出しが出来なかった。
パイロットが敵潜に助けられた後のボート内の残留物が司令部に届く。但しチョコレート等は盗られてない。不時着時の注意書小冊子を見ると墜落機の処置、星の位置の見かた、野生物の喰べられるものの見分け方等詳細を極めて居りその取り組み方に彼我の差を見せつけられる。
昭和二十年八月十五日東海岸枋寮海岸線で司令部陣地構策中敵戦舶機の銃撃を受ける。敵パイロットの顔が見える至近距離、やがて終わった終わったと叫びながら数人の兵、何が終わったのだと云えば、戦争は終わったのだ。
昭和二十年十二月、南方孤島の引き揚げを優先するので、台湾は状況が良いから三年先になると予測されたが早まったので十二月末に高雄港に集結し引揚船を目前にする。
五十師国司令部には進駐米軍に対する通訳として将校一名(文理大出)、私下士官一名、兵一名(東大英文科卒)が居り台湾民留民引揚げ業務援護の為に通訳一名を残す事となったが将校は師国長を脅かして帰るから私に残れと云われる。南方転戦四年の私にとは、と断ると兵を残すと云う。それならばと私が志願して残留を決める。
昭和二十一年四月二十九日最后の膨湖島民留民と共に宇品に引揚げ復員する。皮肉にも出征する時に出た宇品の凱旋館に入る。