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輸送船勝鬨丸の最後2 高崎 廣

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通常 輸送船勝鬨丸の最後2 高崎 廣

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/10 6:17
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 愈々当時としては最高の護衛艦、タンカー船、貨客船十二隻からなる最高八ノットの船団七七二号は堂々の出港をしました。九州都城出身の武田軍曹が我等八名の長となる。彼はシンガポール暁部隊から来るも宿舎が近くの島にあり通勤する。現地人の下男、女中を使って居たとの事。我等にとっては夢物語なり。行李の私物を五ケも六ケも積込む何たる矛盾。我等が乗船した船は一万五百頓の貨客船「勝鬨丸」と云い開戦時に揚子江にて拿捕された英国籍の貨客船で此れを追跡座礁させた管船長はその快挙にて有名になりましたが終戦直前に東京湾外にて乗船して居た獨逸戦艦の艦長を接触された米潜水艦に引渡しその責任を感じ見事自決されたのでした。

 シンガポール出港前に遺骨は全部上甲板の部屋に安置され東本願寺の僧侶の読経を受ける。出港后白木の箱は六作宛を細引きにゆわきその上に救命胴衣を結びつけ各人は六作宛を両脇に抱えていざの場合は海に飛び込む事とした、一人で十二体を護るのです。出港時本船の輸送指揮官の訓示によれば本船は必ず沈むもの故に各人はその覚悟をする様との事、時昭和十九年九月六日午前六時三十分、サイパンは既に陥落し、台湾沖航空機で惨敗を喫した直後でした。始めの一週間ほどは護衛機は無かったのですが何事も無く順調な航海を続けました。九月十一日午前九時一〇分、マニラからの船団マモ〇三号、吉備津丸三隻と合流し遂に二十杯の大船団となりました。吉備津丸は砲を備えた新鋭船でフィリピンのダパオからの最后の引揚げ船で婦女子が一杯乗って居りました。

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