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団塊の世代が語る高度成長期―記憶をたどって:No.14再び昭和30年代後半‐青春歌謡の時代

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sumidagawa60

通常 団塊の世代が語る高度成長期―記憶をたどって:No.14再び昭和30年代後半‐青春歌謡の時代

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/4/12 23:37
sumidagawa60  常連 居住地: 埼玉県羽生市  投稿数: 57
昭和30年代は、流行歌全盛の時代だった。昭和38年(1963年)は、
私の故郷の先輩、舟木一夫が「高校三年」で鮮烈なデューを飾った年だった。私たちは、中学の三年生だったが、みんなでよくこの歌を口ずさんだものだ。歌詞のとおり「フォークダンスの手を取れば・・・」
本当に、「・・・黒髪に」酔いしれた?


時代は右肩上がりの高度成長期の真っ盛り、黒四ダムが完成し16インチのカラーテレビが20万円台を切り、世はまさにクレージーキャッツの植木仁の歌のとおり無責任時代に突入しようとしていた。
農業も「三ちゃん農業」の言葉に象徴されるように農村から若手労働力は、都市へ、都会へ囲い込まれて、産業分野では工業化の波が襲いつつあった頃だった。


学校もそろそろ、進学コースと就職コースに分かれ始めていた。
私もてっきり就職するものと決めていたのだが、担任が高校進学を勧めてくれた。それでも普通校を受験する前に、中部高等専門学校の試験を受けて、技能工の道を進むはずだった。試験に合格して手続きをする段になって、また担任が経済的に高校を出るのは大変だけど、それを乗り越えて大学に進めば、アルバイトで何とかなると
普通科の進学高校を薦めてくれた。


中学時代の悪ガキ仲間の8人がいたが、そのうち大学まで行ったのは、私を含め4人。全員が高校までは出た。大学進学率が50%を超えるのは、昭和の40年代に入ってからだった。


中学3年時代の思い出は、キリがない。その中でも忘れられないのは、私の母の不慮の事故死と、その時、なにくれとなく私のことを
気遣ってくれた同級生のM.&M.さんのことだった。
私もM.&M.(旧姓)で二人はなんとなくウマがあって、仲がよかった。恋愛感情程のものはなかったが、よく弁当のおかずを交換しあったりの、他愛のない男子生徒と女子生徒のやりとりだった。
今頃、彼女どうしているんだろう。・・・。


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