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『国民学校1年生』

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/4/8 20:55
らごら  常連 居住地: 横須賀市  投稿数: 46
志郎さん

引用:
 あやかさん、軍歌って何なんでしょうね。兵隊さんの士気をふるい立たせるためや、国民の愛国心をかきたてるための歌だったのでしょうか。うまく表現できませんが、軍歌には何か人々の心に訴え行動を起させるような力、魔性とも云うべきようなものがあるのでしょうか。 今でも、クラス会などで40数年前の級友と肩を組み「同期の桜」など、大声でがなり立てる時、ジーン熱くなる想いが湧き上がってきます。
 僕は小学1年生のとき、戦争が始まりました。
だから軍歌は僕の心に深く刻み込まれています。
でも、こんな曲もありましたよ、たしか隣組《となりぐみ=町内会の下に数軒を単位とした組織をつくり物資の配給などに利用した、1940~1947年》という曲。

とんとんとんからりんと隣組
格子を開ければ顔なじみ
廻して頂戴《ちょうだい》回覧板
知らせられたり知らせたり

とんとんとんからりんと隣組
あれこれ面倒味噌醤油《みそしょうゆ》
ご飯の炊き方垣根越し
教えられたり教えたり

 食料不足で代用食《=米麦の不足で芋類などを主食にする》しか食べられなくなり、あるときお米の代わりに、満州(今の中国東北地方)から、コチンコチンに凍ったジャガイモが配給になりました。
解かしてから料理すると不味《まず》いのです。
こんなとき、回覧板に料理法が出ていたりしました。
解かさないで凍ったまま煮るとよいなんてね。


志郎
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/4/11 21:38
三蔵志郎  半人前 居住地: 河内の国 金剛山麓  投稿数: 35
引用:
 どのような歌を習ったかも忘れました。ただ、“シロジニアカク ヒノマルソメテ アアウツクシイ日本ノハタハ”の「日の丸」と国家「君が代」は間違いなく習ったと思います。あとは、疎開先のオトナや上級生が歌っていた軍歌を口ずさんでいた記憶があります。先に紹介しました「兵隊さんよありがとう」もその1つだと思います。 
 

 上のように書きましたが、このような歌を習ったように思います。  間違ってないでしょうか?
 
 『 ミンナデ ベンキョウ ウレシイナ
    コクミンガッコウ 1ネンセイ 』

                       志郎
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/4/11 22:42
マーチャン  長老 居住地: 宇宙  投稿数: 358
志郎さん

引用:
 『 ミンナデ ベンキョウ ウレシイナ
    コクミンガッコウ 1ネンセイ 』

 私もその歌、覚えています。

 二番が、多分

 『 ゲンキデ タイソウ ウレシイナ
    コクミンガッコウ 1ネンセイ  』

 だったと思います。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/4/12 11:26
三蔵志郎  半人前 居住地: 河内の国 金剛山麓  投稿数: 35
マーチャンさん 

引用:
 私もその歌、覚えています。

 二番が、多分

 『 ゲンキデ タイソウ ウレシイナ
    コクミンガッコウ 1ネンセイ  』

 だったと思います。
 ありごとうございました。 たしかそのようでしたね。
頭の中の、タンスの どかの引き出しに 記憶が残っているのですね。

 でも、どこにあるか分からず なかなか引き出すこと出来ません。 
  はるか60年前のことですから---。
                          志郎 
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/4/17 11:34
三蔵志郎  半人前 居住地: 河内の国 金剛山麓  投稿数: 35
○葬送の先頭に立つ
 あやかさん、もう新学期が始まって大分たちましたね。新5年生はどうですか、クラス替えもあったそうですね。また新しいお友達が出来ますね。
 ところで、あやかさん、世界で一番長生き出来るのはどこの国か知っていますか。そう、日本ですね。
 平均寿命は81歳(男77.8歳 女85歳)で世界一ですね。いつからこのような長寿国になったのでしょうか。おじいさんが国民学校1年生であった第二次世界大戦中では、日本人の平均寿命はまだ50歳にも達していなかったそうです。日本人の平均寿命が50歳を超えたのは、第二次大戦後暫らくしてからです。戦後10年たった昭和30年には、男が50.6歳、女が54.0歳となったそうです。
 寿命の短いのは、医療の未発達や栄養水準の低さを背景にした乳幼児死亡率の高さが大きく影響していたと考えられています。
 戦争中やその直後は、ご飯はもとよりお米の入ったお粥《かゆ》や雑炊も、たまにしか食べることが出来ませんでした。サツマイモやその蔓(つる)、トウモロコシなどの代用食を食べていました。いつもお腹をすかした状態で、栄養状態も極めて悪かったと思います、医療施設も未整備でお医者さんも軍医など、軍の仕事に従事して村や町には少なかったのでしょうね。
 岐阜へ疎開したのは、おじいさんとその母および3人の姉妹でした。一番下の妹・昌子3歳が、お隣の美濃太田の産院で亡くなりました。小児科や内科の医院でなく、なぜ産院だったのでしょう。よく分かりません。
 おじいさんが1年生の3学期の終わろうとする頃、夜遅く母(そう、あやかの曾おばあさんです)が、亡くなった妹を小さな布団に包んで、それを背負って帰って来ました。玄関に死んだ妹を背負って、黙ってしよんぼり立っていたお袋の姿は、未だにおじいさんの脳裏に焼きついています。
 亡くなった妹は、おかっぱ姿の可愛い児で、格子模様の小さなエプロンが良く似合っていました。親戚の『君代』お兄さんを、廻らぬ舌で『ビョンヤン、ビョンヤン』と呼んでいました。
 翌日か、翌々日にお葬儀がありました。親戚《しんせき》のお兄さんやおじさん達が、妹の小さな棺桶《かんおけ》を担いで村はずれの墓地まで運びます、おじいさんは妹の白木のお位牌《いはい》をもって葬列の先頭に立って進みました。疎開っ子として、いじめられ蔑《さげす》まれていた子供にとっては、なんだか晴れがましい思いになったひと時でした。当時は、妹の死は、何であったのかよく分かっていませんでした。
 墓地に着きますと疎開先のH家の場所に、深さ1m程度の穴が掘ってありました。妹が入った棺桶がそこに納められます。家族や親戚の人達がその上へ土をかぶせていきました。 そうです、当時は、まだ土葬だったのです。
 葬儀のあと暫らくの間、お袋は疎開先のお婆さん(あやかの曾おじいさんのお母さんです)の家の裏庭に出て、親戚の人達に気遣うように、小さな声で小石を積んでは「1つつんでは---なんとやら」と云っておりました。親戚の小さな子たちはそれが何であるか分からず、その小さな石の塔を足蹴《あしげ》にして壊していました。母は、その壊された石の塔を、またまた口のなかでブツブツ唱えながら積み上げていました。お袋がブツブツ唱えていたものは、「賽《さい》の河原 地蔵和讃《じぞうわさん》」であったのです。

これはこの世のことならず       かのみどりごの所作として
死出の山路の裾野なる         河原の石をとり集め
さいの河原の物語           これにて回向の塔を組む
聞くにつけても哀れなり        一重組んでは父のため
二つや三つや四つ五つ         二重組んでは母のため
十にも足らぬおさなごが        三重組んではふるさとの
父恋し母恋し             兄弟我身と回向して
恋し恋しと泣く声は          昼は独りで遊べども
この世の声とは事変わり        日も入り相いのその頃は
悲しさ骨身を通すなり         地獄の鬼が現れて -----  
(略)

 あやかさん、おじいさんが1年生の頃は、生活環境が最低だったと思います。十分な栄養も取れず、医療環境も整備されていなかったのでしょうね。そのような中で我が子を亡くした母はさぞ無念だったでしょうね、悔しかったでしょうね。その母も、そう、あやかの曾おばあちゃんも3年前に亡くなりましたね。生前自ら死んだ妹のことを絶対に喋《しゃべ》らなかったですね。おじいさん達が聞いてもあまり語ってくれませんでした。やはり、いつまでたっても無念だったのでしょうね。
 亡くなった妹は、生きていれば今年(2004年)で もう62歳です。でも、おじいさんの中の妹は、全然年をとりません。あやかさんよりずっと小さく、いつまでも3歳の、赤ら顔して鼻の先が少し輝いたお河童《かっぱ》姿の可愛い女の子です。                          (2004.4.17)
               ---- 続く----  
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/5/5 23:59
三蔵志郎  半人前 居住地: 河内の国 金剛山麓  投稿数: 35
○昭和20年(1945年)
 あやかさん、おじいさんが国民学校1年生だった昭和20年は大変な年でした。そうです、昭和16年12月8日から始まった太平洋戦争も、この昭和20年の8月15日に敗戦の日を迎えました。
 その前年の昭和19年になると、連合国との戦局は悪化するばかりとなっていました、10月の台湾沖の航空戦では敗北を喫し航空戦力の大半を失い、フィリピンのレイテ沖海戦でも我が国の連合艦隊が壊滅状態になりました。制空権・制海権を失くした日本軍に対し、アメリカ軍は昭和20年から日本本土への空襲を本格化していきます。昭和20年3月10日に東京空襲は、広島・長崎の原爆に匹敵する大規模な被害をもたらしと云われています。それまでのボーイングB29は、高度1万m以上の上空を飛び、その攻撃目標も軍需工場などが中心でしたが、3月10日の東京空襲は非戦闘員を対象にした無差別絨緞《じゅうたん》爆撃だったそうです。B29 334機が爆弾・焼夷弾《しょういだん》を約2千トン搭載《とうさい》し襲来してきました。東京の下町に落とされた爆弾・焼夷弾は折からの風速20~30mの烈風に煽《あお》られ次から次ぎへと燃え広がり、火は火を呼んで町全体が火の海となり、死者は10万人を超えたと云われています。

 大阪市が最初の空襲を受けたのは、昭和20年1月3日です、B29が10機襲来してきたが殆《ほと》んど被害がなかったそうです。最初の大空襲があったのは3月13日です、B29約300機が低空で大阪市内の上空に現れ約7万個の焼夷弾を投下し、大阪市の19区をほぼ焼き尽くしたといわれています。
大阪市への空襲は8月14日の空襲を最後に、計33回に及んだそうです。この間の大阪市への無差別絨緞爆撃で、計12,620人が死亡、32万2,000戸が全焼し、罹《り》災者が125万5千人を数えたといわれています。

 東京、大阪以外の名古屋、横浜、川崎、清水、浜松、神戸、尼崎、堺、西宮、呉、宮崎、都城、鹿屋等の我が国の都市は殆んど空襲の被害を受けています。敗戦までの原爆被害を除いた本土の空襲被害は、少なくとも死者約26万人、家屋全壊焼221万戸、罹災者920万人といわれています。

 このような本土空襲のほかに、多数の住民を巻き込んだ太平洋戦争最大の悲劇といわれる“米軍の沖縄本島上陸”がありました。連合軍は空母40隻、戦艦20隻を中心とする艦船約1,500隻、空母艦載機約1,600機、上陸部隊七個師団18万2,800人と云う膨大な兵力で、20年4月1日にこの戦争で、最大といわれる上陸作戦を敢行してきました。この作戦で、日本軍は将兵の85%に当たる9万4,000人が戦死し、一方米軍の死者は陸海軍あわせて1万2,500人であったそうです。一般住民の死亡者は餓死・病死を含め15万人と云われております。

 この年の5月7日には、同盟国であったナチス・ドイツが連合国に無条件降伏をします。そして、7月26日にトールマン、チャーチル、蒋介石の米英中三国首脳が日本に無条件降伏を要求する「ポツダム宣言」を発表。そこには、アメリカ軍による日本本土攻撃による日本破壊の可能性、戦争指導者の追放、日本の国家主権の本土への制限などの内容が盛り込まれていた。
 これに対し、当時の鈴木首相は「三国の共同声明(ポツダム声明)を黙殺、戦争完遂に邁進《まいしん》するのみ」と記者団に発表。このポツダム宣言は、広島・長崎への原爆投下による惨事を避け得る最大のチャンスであり、国体護持にこだわり多くの国民の空襲などの被害に気を配らなかった当時の政府首脳者達の責任は重いのではないか、と思います。

 8月6日 広島に原爆投下、8月8日 ソ連が、日本に宣戦布告、8月9日 長崎に原爆投下。
そして、8月15日に天皇陛下の直接の採決である「聖断」という形で、ポツダム宣言受諾が決まります。
大日本帝国は、ポツダム宣言を受諾し米英などの連合国に無条件降伏したのです。

 この8月15日のことは、ぼんやり記憶に残っています。丁度、夏休みで木曽川の川原で遊んでいて、お昼過ぎに疎開先の家にかえると、おとな達があちらで2,3人、こちらで3,4人、ボソボソと小声でなにやら話していました。多分、コレカラ日本ハドウナッテイクカなど話していたのでしょう。
 帰宅した時間がお昼を大分すぎていたためか、それとも辺鄙《へんぴ》な田舎で各戸にラジオ受信機がなかったためか、いわゆる終戦を告げる陛下の玉音放送のことについて、周りのおとな達が話しているのを聞いたような記憶はありません。
 あやかさん、ちょっと難しいかも知れませんが、その玉音放送の一部を紹介します。
「正午の時報のあと、アナウンサーがーマイクに向かい“只今より重大な発表があります。
全国の聴取者の皆さん、御起立願います”。続いて『君が代』。奏楽の余韻が消えて、“天皇
陛下におかせられましては、全国民にたいし、かしこくもおんみずから大詔を宣《の》らせたもう
ことになりました。これより、謹みて玉音をお送り申します” 」
『朕《ちん》深ク世界ノ大勢ト帝国トノ現状二鑑《かんが》ミ非常ノ措置ヲ持ッテ
 時局ヲ収拾セント欲シ茲《ここ》二忠良ナル爾《なんじ》臣民ニ告グ。朕ハ帝国
政府ヲシテ米英支蘇《そ》四国ニ対シソノ共同宣言ヲ受諾スル旨通
告セシメタリ。(後略)』

あやかさん、この8月15日を人々はどのように受け止めていたのでしょうか。おじいさんは国民学校1年生で、その辺のところはよく分かりませんでした。あとで、見聞きしたところによりますと当時オトナであった人たちはいろいろな反応を示したそうですね。
・無条件降伏の敗戦、茫《ぼう》然自失、何をどう考えていいのか分からず混乱する人。中には発狂してしまった人もあった。
・自決や停戦の拒否という形で、敗戦という現実を拒否した人。
・“あなうれしとにもかくにも生きのびて戦いやめるけふの日にあふ”(河上肇)と詠んだ人。
・お昼の玉音放送を聞いても、微動もせず断じて芋を刻むことを止めなかった人。等々

8月28日連合国の第1次本土進駐が始まり、米国兵約150名が厚木飛行場に着陸。2日後の30日に連合国最高司令官マッカーサー元帥が厚木飛行場に到着する。
アメリカなどの占領軍は、わが国の非軍事化と民主化を押しすすめました。天皇を現人神《あらひとがみ》とし軍国主義国家であった我が国に自由と人権、民主主義という、当時の曾おじいさんたちがこれまで、全く経験したことのない価値観が持ち込まれました。そして、大きな変革、例えば農地改革、労働組合の公認と団体交渉権の保障、婦人参政権の獲得などが8月15日から数ヶ月の間に進められました。
        (2004.5.5)
               ---- 続く----  
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/5/8 2:29
三蔵志郎  半人前 居住地: 河内の国 金剛山麓  投稿数: 35
  この連休中に 孫娘のあやかが我が家に遊びに来ました。
 二人で市立図書館へ行きました。
  そこで、ヨミカタ1のテキストを係りの方に探していただき
 ました。
  復刻版ですが、見つかりました。 最初のページをアップ
  します。
                        志郎


  (参考:著作権法に定める保護期間がすぎていること、
   並びに、復刻が原本の完全なコピーであることから、
   「復刻」されたものについて復刻者の著作権は生じ
   ないと解釈し、画像をアップしました。

   この原本は昭和16年2月発行で 著作兼発行者は
   文部省です)
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/5/9 21:50
三蔵志郎  半人前 居住地: 河内の国 金剛山麓  投稿数: 35
2ページ目です。  

 裏表紙です。
 
  
   

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/5/17 5:10
三蔵志郎  半人前 居住地: 河内の国 金剛山麓  投稿数: 35
 
○一杯の御飯

 あやかさん、前回は日本が負けた8月15日のことに触れましたが、この日以降おじいさん達の生活はどのように変わっていったのでしょうか。
 戦争中も相当ひもじい思いをいていましたが、戦争が終わってからはよりひもじい思いをいたのではないかとぼんやりと記憶しています。あやかさん、「ひもじい」って分かりますか?空腹である、腹がすいている と云うことです。最近あまり使わなくなった言葉ですね。日本が豊かになりすぎて何でも食べられる時代になったからなんでしょうね。
 先に述べました「灯火管制」も8月20日に解除されました。自由に電灯を点けてもよい状況になりましたが、その頃は電力事情も極めて悪くなって毎晩停電するといった状況でした。停電すると「カンテラ」という照明具で部屋をボンヤリと明るくし晩のお雑炊などを家族ですすっていた等という思い出もあります。
 「カンテラ」というのは、ブリキ製の小さな缶に灯油をいれ、綿糸の芯に火を点す簡単な照明具のことです。このカンテラに使う灯油を手に入れるため母と早朝から行列し買い求めに行ったことも当時の記憶の一つです。
 上級生や高等科のお姉さん達は、「もう、寝間着を着て寝ても良いのね」といって喜んだと云うことも聞いております。お姉さん達は、戦争中は上着を着、モンペを穿いたまま寝ていたのです。そして枕元には防空頭巾をおいて、空襲警報が出てもすぐ飛び出せるように何時も準備していたのですよ。 
 また、防空頭巾などと云う、あやかさんにとって耳慣れない言葉が出てきましたね。これは焼夷弾の直撃や爆風から頭を守るために、かぶった綿入れの頭巾(頭にかぶるもの)のことです。
 スパイ活動の防止を理由に中止されていた天気予報も復活し、短波ラジオで外国の放送も自由に聞いてもよいことになりました。また昭和16年以来禁止されていたアメリカ映画の上映も再開され、ラジオでジャズ音楽も復活されました。

 あやかさん、食料などの配給制度というものがあったのですよ。昭和12年に始まった日中戦争以来、政府は軍需生産の確保を優先するため、民間人が使う物資の生産・消費を抑制し始めます。そのため生活必需品が不足し、買い溜めや売り惜しみが始まり、物の値段はどんどん上がっていきました。この物の値段の上昇を抑え、ぼろ儲けすることを取り締まるため、ものの値段を政府が決めるという「公定価格制」が導入されました。しかし、軍需インフレで物価上昇は抑えることが出来ませんでした。このため、生活に必要なものを手に入れるため、公定価格の数倍もする闇取引が盛んに行われるようになったそうです。
 16年4月になると六大都市でお米の通帳割り当て配給制度が実施され、一人当たり1日2合3勺とされました。そして、木炭の通帳制、お酒の切符販売が実施されたそうです。
 17年8月ごろから1日2合3勺の主食の配給量に、雑穀が入るようになっていきます。そして主食配給量に占める米の割り合いは、18年夏には60%程度になったそうです。その配給米も当初は7分づきだったのが2分づきへと、さらに玄米として配給されるようになったそうです。
 そういえば、おじいさんも1升瓶に玄米を入れて細い棒切れをいれ、それでつついて白米にする作業を手伝ったことを記憶しています。 一人当たり1日2合3勺の配給も、20年7月には2合1勺に切り下げられました。当時の政府のお役人が云ったそうです、「米の配給が1割減ったからといって慌てる必要はない。未利用資源を活用すれば相当程度栄養を補給することが出来ると信じる」と述べ、ドングリ、甘藷の葉やつる、澱粉の絞りかすなどの利用を呼びかけたそうです。
 その頃のおじいさんには、殆んど白いご飯はもとよりお粥さえも食べた記憶はありません。朝飯の代わりに玉蜀黍の茹でたものを食べたり、学校から帰ってきてはベトベトに冷えた水っぽいサツマイモのふかしたものを食べたという思い出ぐらいです。
 そういえば、このような思い出があります。たしか、20年の6月頃だとおもいます、1年生のおじいさんと3年生の姉、そして30歳代後半のおじいさんのお母さん、この3人の女子供が木曽川の川原の土手で畑を耕し始めたのです。小さな熊笹のようなものが生えていて、その根を取り払って畑を作るのは大変な仕事でありました。むんむんと蒸せるような暑さの中で数時間3人は頑張りつづけ、耕した後に、近所の人から分けてもらった薩摩芋の苗を植えつけました。
 しかし、おじいさん達が耕したサツマイモ畑からは芋は出来ませんでした。ちょうど、芋が生育する8月頃だったとおもいます、大雨が降って木曽川が氾濫し上流から大きな丸太がどんどん流れてきます、おじいさん達のサツマイモ畑は、流れ着いた材木の置き場になってしまったからです。

 敗戦後の飢餓は、弱い老人や行き場を失った孤児達に襲いかかりました。戦後2ヶ月をすぎた20年10月では、東京の上野駅の周辺では毎日2.5人の餓死者があったそうです。大阪駅周辺でも11月前半だけで40人以上の餓死者を記録しています。名古屋市で敗戦日から11月初めまでに収容した住所不定者のうち栄養失調で57名も亡くなっています。
 どのようにして、このような飢餓状態になったのでしょうか。戦争を続けるため農村で働いていたお父さんやお兄さん達の多くが兵隊に取られていたこと、また軍事物資優先のため肥料などの農業用資材が不足していました。このため食料生産の絶対的不足状態になりました、また海外の植民地などから輸入していた食糧は敗戦によって完全にその道が絶たれたからです。
 さらに悪いことには、この敗戦の年の7月から8月にかけ中部地方から以北地方では低温が続いたため水稲の収穫量が激減しました、その上9月中旬に西日本をおそった枕崎台風は大きな被害を与えました。開花受粉後まもない稲が倒されたからです。例年6000万石前後の収穫を維持したのが、この年に限って3920万石と、60%しか収穫できませんでした。
 このようななかで、前に述べた配給制度が破綻をきたします。都市部では配給に芋や麦粉・雑穀などが混入され、その配給も途絶えはじめました。配給のもとになる農家からの供出量が20年の12月にやっと割り当ての25%に達したと云われています。不作の影響もありましたが農家の人が政府を信用せず自己防衛で供出を渋ったためだと云われていました。
 この年の10月28日付けの新聞は報じました。『「ヤミ」をくわない犠牲、東京高等学校教授の栄養失調死。--- 大東亜戦争が勃発して食料が統制され配給されるようになった時政府は「政府を信用して買出しをするな、闇をするものは国賊だ」と国民に呼びかけた。同教授は政府のこの態度を尤もだと支持し、いやしくも教育者たるものは裏表があってはならない、どんなに苦しくとも国策をしっかり守っていくという固い信念で生活を続けていた(毎日新聞)』。とても、配給だけではいきていけなかったのですよ、配給だけでは成人が必要とするカロリー摂取量の54%しかならなかった(東京都の栄養調査より)そうです。11月になると、東京の日比谷野外音楽堂で、「餓死対策国民大会」も開かれています。
 このような状況のとき、一生忘れられない出来事がありました。そう、あの時の感激はいまでもはっきり覚えています。 おじいさん達が通っていた岐阜県加茂郡坂祝国民学校では、上級生のお兄さんお姉さん達が校庭の一部を潰し、水田を作って稲を植えてくれていました。その稲が実り、穫り入れが行われました。大きなお釜でご飯を炊いて、昼食時に全校生に配って呉れたのです。

        小さなお椀にご飯が山盛り、その上に黄色い沢庵が二切れ!

 白いご飯です、お粥ではありません 固いご飯です、新米のご飯です。食べました、むさぼるように食べました。おいしかった。「ご飯って、なぜこんなにうまいのか!」心の中で叫んでいました。

 あの時の喜び、あの感激。あのご飯の味は絶対忘れません。あの時のシーンを思い浮かべると、恥ずかしくも涙が出てきます。いまだにそうです。
 あやかさん、1日3食 おいしいご飯が食べられる 本当に幸せなことですね! そう思いませんか。
                               (2004.5.17)
           ------- 終わり-------
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/5/18 22:03
オアシス  半人前 居住地: 東京都世田谷区  投稿数: 26
志郎さん、良くお調べになり 上手くまとめられましたね。
敬服です。

昭和14年小学校へ、昭和20年旧制兵庫県立芦屋中学校入学
学校は焼夷弾・爆弾で壊滅、西宮市夙川の住い ならびに近辺は
1トン爆弾、焼夷弾の被害甚大、空襲警報で帰宅中機銃掃射を
浴びました。
20年6月疎開をしました。

貴方と同じく大阪に父を1人残して、石川県金沢の父の本家を
頼って縁故疎開、間もなく市外松任母子4人移住、21年8月
伏見で一家四人ようやく一緒の生活をした私、チョッと先輩
ですが、往時を 今となっては懐かしく偲びました。

疎開先での戦後は、 1000千万人餓死説がでる食糧難。
着物を始めとする物々交換で お百姓さんから食料を分けて貰っ
ての暮し。
もう品物がなくなって お金でと言ったら 駄目、欲しかったら
取っていけばの言葉に 畑から南瓜や芋を盗んで帰ったことも、、、今となっては時効も良いところですね。
(戦前のお百姓さんは生活が苦しく、ズーッと 都会のプチブル
 に反感を持ってました。)

昭和22年伏見で 戦争中の栄養不足と過労から父が結核で
亡くなりました。都市部では当時は火葬でした。
焼き場に燃料がなく、自己調達で薪を用意しました。好意ある
父の勤め先のお取引先からです。

配給は、代替のあらゆるものが
例えば豆かすですが、今では豚も食わない代物。
それから、代わったところでは 進駐軍放出のチーズや土地柄
お茶の葉までありました。

あの当時、みんな分け合って食べ生き延びましたね。

本当にご苦労様でした。
物の氾濫、過剰で失った助け合いの心、潔さの精神の復興が
臨まれますね。
                      オアシス    

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